前を歩いていたレグルスが足を止めたので、ナーサは辺りを見回した。居並んだ住宅は大きな建物ではあるが、入り口がそれぞれあることから、一つの家族が所有するものではない。
マルフォイ邸のような広大な土地と邸宅を想像していたナーサは目を凝らした。ここが目的地ではなく、何か興味を惹くものがあって足を止めたのではないかと思った。
足の裏がひどく痛く、思わず重たい吐息が漏れる。
「今立ってるのは何番地か分かるかい?」
「十一番地、ですね」
すぐ側の家の玄関に、グリモールド・プレイス十一番地と書かれていた。
「そうだ。では、左と右の番地を見てごらん」
「十番地と──十三番地?」
目を見張り、もう一度見直す。十二番地がない。
魔法界の家とは違って、こじんまりとした家並みが乱れなく並んでいる。こんな簡単なこと、間違いようがないはずなのに。
その時だった。十一番地と十三番地の間に音もなく扉が現れた。扉の横に壁が、窓が次々とでき上がっていく。
両隣を押しのけるようにして現れた家は、造りは全く同じはずなのに壁が煤けている。均一ではなく揺れる明かりが、その家を何処か幽霊屋敷のように見せていた。
「私の父が大変な怖がりでね。こうして家自体に魔法をかけ、外部から隠してしまったんだ」
レグルスはくすりと小さく笑う。
はたはたと揺れるコートの裾を目で追いながら、ナーサは疲れた身体を叱咤して動かした。
「一つだけお願いがある。
家に入った後、玄関では極力声を出さないようにしてほしい。できれば杖明かりも控えてほしい。
そこを過ぎれば、何も気を使わなくて構わない」
「承知しました」
同居している家族が神経質なのだろうか、とナーサは頷いた。
石段を駆け上がり、玄関までいったところで何の気なしに振り返ると、さっきまでいたマグルの街の景色は溶けるようにぐにゃりと形を歪めていた。
扉を閉めると、玄関は呑み込まれるような闇の中にあった。
レグルスが小さな杖明かりを灯すと、ぼんやりと高い天井の長い廊下が映し出された。外から見た時よりも、ずっと広い──しかし疑問は口にせず、足音を忍ばせてついて行った。
突き当たりにある扉を抜けると、何対かの鎧が飾られた小さな広間に出た。所々さびついていて戦場に置き去りにされた兵士のように見える。玄関から直線状に続いた廊下と違って、シャンデリアに照らされたここは少しだけ明るい。
二股になった階段が、上の階へと続いている。階段の壁には肖像画が何枚か飾られていたが、そのどれもが目を瞑り、寝息を立てている。
そして二階に辿り着いた時、幼い子供のような乱れた足音が鳴り響いた。けれど、現れたのはホグワーツでも見た屋敷しもべ妖精だった。それも、かなり高齢に見える。
「レグルス様、お帰りなさいませ。
それに……ナーサお嬢さま。お久しゅうございます!」
迷いなく『ナーサ』と名を呼んだ──その瞬間、ナーサは自分の内側で胸がトクンと鳴る音を耳にした。
しゃがれた声を震わせ、その屋敷しもべ妖精の目がみるみるうちに潤みだす。
「……あなたも、あたしを知ってるの?」
「勿論でございます! 『あの時』クリーチャーめを庇ってくださったナーサお嬢さまのことを、誰が忘れられましょう」
身に纏ったよれたタオルをたくし上げて、そっと目元を拭う生き物にナーサは言葉を失った。
レグルスの言葉に嘘はなかった。何処かに置き去りにした記憶の影が、音を立てて蠢いた。
「……クリーチャー、今は控えめに」
レグルスの静かな声が落ちると、ハッとしたようにクリーチャーが深々と頭を下げる。
気を悪くしたと思わせたのかもしれない。ナーサは意識して微笑を作った。
「クリーチャー……?
きっと前に会ったことがあるんだよね。あたし、覚えていないの……ごめんなさい」
「クリーチャーなどに謝るなんて、とんでもございません……覚えてらっしゃらなくても、やっぱりナーサお嬢さまはお優しい方でいらっしゃいます」
咳払いが響く。
「クリーチャーにトランクを運ばせようと思うが、いいだろうか」
「はい、お願いします」
「それでは、クリーチャー。彼女の荷を、あの部屋へ運んでくれ」
ちょこちょことナーサの前まで歩いてきたクリーチャーにトランクを預けると、彼はパチンと音を立てて消えてしまった。
「部屋に案内しよう。こちらへ」
階段が微かに軋み、身体がふらりと揺れた。手すりにしがみつくと、一段一段慎重に上る。
踊り場で足を止めたレグルスが、また歩き出す。
通されたのは淡いグリーンの色調の部屋だった。
部屋に足を踏み入れた途端、ナーサは息を呑んだ。
壁紙は少しも破れていなかったし、たるんですらいない。調度品もきれいに磨かれ、ホコリ一つかぶっていない。
他はどうでも、この部屋だけは昔のままの状態を保つ──そんな意志を感じさせた。念入りに手入れされたその部屋は、まるで別世界だ。
ふと、奥に置かれたベッドの隣にある椅子に腰かけた『誰か』に気づく。
長いブロンドの、小さな女の子。
静かにナーサを見つめ返す『彼女』に近づいていくと、それは──まるで生きているように見える精巧な人形だった。
艶々とした髪。サファイアのような瞳に、一本一本植えられた眉と睫毛。ほんのりと色づいた頬に、優しく弧を描いた唇。
「人形は嫌いかな」
「いえ、ただ……驚いただけです。まるで、生きているみたいで。あの、触ってみてもいいですか?」
「構わない」
側にかがむと、そっと人形の頬に手を伸ばす。勿論人形は表情一つ変えない。
冷たく固い感触にやはりただの人形だと胸を撫で下ろし、ナーサは手を離した。
「寝間着はベッドの上に用意させている。
何か分からないことや困ったことがあれば、手を打ち鳴らしてごらん。クリーチャーが何でもしてくれる。
朝になっても起こさない。君のタイミングで起きるといい……それじゃ、ゆっくりおやすみ」
「あ──おやすみなさい」
何のこだわりもなく部屋を出ていくレグルスに、ナーサは深々と頭を下げた。心配していたようなことは何一つ起こらなかった。
彼は、一貫してナーサに選択肢を与えてくれただけだった。
決定権は常にルシウスにあり、ただ従うことしかできなかった家。そして、考える間もなく正しい道へと導くケイレブとも違う。
(あの人は……あたしが答えを出すのを待ってくれていた)
そう気づいた途端、胸がキュッと締めつけられるように痛んだ。
判断を委ねられるということは、自分の選択に責任を負うということだ。マルフォイ家を出た時から、もう子どもでいられる時間は終わったのだ。