【予言の子が殺されたIF】此は最果ての地   作:◆琳音◆

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04. 守られない朝

 何処かで小鳥が鳴いている。部屋は暗かったが、カーテンの裾から光がこぼれている。それに誘われるように窓辺に向かい、カーテンを開けると、整然とした家並みが飛び込んできた。

 

(……やっぱり、夢じゃなかったんだ)

 

 右手に握りしめたままの杖を見下ろし、ナーサはふっと笑いをこぼした。

 十一歳まで過ごした屋敷を飛び出し、必死にマグルの街を駆け抜けた記憶は、たった半日前のことなのに霧の向こうの出来事のようで、何処か現実味がなかった。

 首に下げたままだった懐中時計を開けて時間を確認する。もう九時を回っている。

 

 改めてナーサは身の回りを見回し、次いでベッド脇に置いたトランクの場所が変わっていないこと、ドアの鍵もかかったままなことを確認した。寝入る前と何一つ変わりない。胸に張ったままだった弦が僅かに緩んだ気がした。

 

 備え付けの洗面台にはアメニティと小綺麗なタオルが置かれていた。荒廃した他の部屋とは違って、この部屋からは歓迎の意思を感じる。

 顔を洗って、トランクの中から制服のローブに着替えると、ベッドの隣の椅子に掛けた人形が目に入る。

 明るい日差しの下で見る人形は柔らかく微笑み、とても優しい顔立ちをしていた。思わず微笑み返したくなるほどだった。

 ナーサはそっと『彼女』の髪を撫でた。

 

(ブラック卿は紳士的な方だった。

 でも、いつまでもここにはいられない。どうすればいいのか、考えなきゃ……)

 

 その時、小さくお腹が鳴った。

 ホグワーツから帰宅したのは昨夜九時過ぎ。食事を摂る前にルシウスと話し、空腹のことなどすっかり忘れていた。

 

 ──鍵のある部屋を提供することはできる。必要があれば……食事も。

 

 レグルスの言葉を思い出し、ナーサは軽くお腹を撫でた。泊めてもらっただけでなく、食事までご馳走になるのは図々しい気がした。

 

 ナーサはドアの鍵を開け、そろりと廊下を覗いてみた。今朝は窓から日が差し込み、不気味な雰囲気が薄らいでいる。

 それに──鼻先をかすめた香ばしい匂いに、ナーサは唾を呑み込んだ。

 

「あの! すみませんっ」

 

 奥に向かって声を張ってみたが、応えはない。しばらくキョロキョロと廊下を見回していたが、動きはなかった。

 

(勝手に出歩いてもいいのかな……)

 

 ふと、レグルスに言われた言葉を思い出した。

 『何か分からないことや困ったことがあれば、手を打ち鳴らしてごらん』──彼は確かにそう言っていたはずだ。

 

 言われた通りに両手を叩くと、パチンッ。

 空気が弾けるような音を立てて、目の前にはクリーチャーが立っていた。

 

「おはようございます、ナーサお嬢さま!」

「クリーチャー、おはよう。すっかり起きるのが遅くなってしまって、ごめんなさい」

「とんでもないです! ゆっくりお休みになられたようで何よりです。

 お目覚めになったら朝食を用意するよう、レグルス様から仰せつかっております。ご案内してもよろしいですか?」

 

 ナーサと話すのが嬉しくてたまらない様子のクリーチャーを見ていると、口元が綻んでくる。

 

「……ありがとう。

 ただ、もしよかったらブラック卿に先にお会いしたいの。昨日は全然頭が回らなくて、しっかりとお礼を言うことができなかったから」

「承知しました!

 レグルス様は食堂にいらっしゃるので、ご案内いたします」

 

 先導するクリーチャーに続いて地下への階段を半分ほどまで降りていくと、食卓が見えてきた。

 一番奥の席に黒髪の男性が掛けて新聞を読んでいる。男性の方もナーサが視界に入ったのだろう。新聞を畳みながら、微かに口の端を上げた。

 

「……おはよう」

「お、はようございます」

 

 気遣わしげな声に面食らいながら、小声で返す。

 長い髪を後ろで一つに束ね、覗いた額にはしわがない。昨夜話したレグルスよりも大分若いようだ。目元や鼻筋がよく似ているところを見ると、兄弟なのだろうか。

 ナーサは軽くローブの裾を持ち上げ、膝を曲げた。

 

「はじめまして。

 ブラック卿に助けていただきました、ナーサ・マルフォイと申します」

 

 その瞬間、男性の口が大きく横に広がる。白い歯を軽く覗かせた後で、彼は軽く咳払いをした。

 

「……分からないかい? 私が、昨夜会ったレグルス・ブラックだ」

「えっ……?」

 

 ナーサは思わず無遠慮なほどに見つめてしまった。

 髪はほつれるように長いが、顔全体を覆っていた髭がない。

 

(そういえば、声は同じだ……)

 

 ナーサはハッとして頬を赤らめた。

 

「失礼しました、ブラック卿……気づきませんで」

「少しは休めただろうか。

 掛けるといい。食事をしながら、少し話そう」

 

 ナーサは頷いて、レグルスの方へと向かう。

 近づくにつれて浮かび上がる、小さな違和感──。

 

(この人の顔、何処かで……)

 

 よくよく側で見ると、その顔立ちには見覚えがある。

 椅子を引こうとしたのか、立ち上がったレグルスを見上げ、思わず息を呑む。

 

 ──アシュタロス・クラウチ。

 

 身体中を稲妻が駆け抜けたようだった。

 初めてクラウチを見た時から感じていた、奇妙な懐かしさの正体。

 

(あの懐かしさは、ここにあったんだ……)

 

 肩から力を抜いて、ナーサは笑みを浮かべた。

 

「昨夜は大変お世話になりました。

 お心を砕いていただいたのに失礼な態度ばかり取ってしまい、大変申し訳なく思っております。

 改めて……ありがとうございました」

「失礼ではなかった。何も気にすることはない。

 さ、まずは食事にしよう……クリーチャーが腕を振るってくれた」

 

 待ちかねていたかのようにクリーチャーが給仕を始めた。

 目の前にサラダにスープ、カリッと焼いたパン、温かな料理の湯気で急に視界が霞んだ気がした。軽く目を擦ると、ナーサは微笑みを浮かべた。

 

 食事はどれも頬が落ちるほどおいしかった。

 レグルスはすでに食事を済ませた後だったのか、彼の前には紅茶だけが置かれている。

 

「君に状況は共有しておこうと思う」

 

 静かにティーカップを戻した後、レグルスが口を開いた。

 

「君がロンドンにいることは知られたようだ。

 『ルクスの鎖』が動き出した。すでにロンドン中の魔法使いの家の捜索をしている」

「……こちらにも、もうすでに?」

「いや。

 すでに化石のようなものだが、それでも『ブラック家』には一定の敬意が払われる。『ルクスの鎖』の尋問員程度では、この家の扉を叩くことは叶わない」

 

 ティーカップの液面が細かく波打つのを見下ろしながら、ナーサはそっと左手を添えた。

 

「……早めにお暇しなければなりませんね。発つのが遅くなってしまい、申し訳ないです」

 

 レグルスはじっとナーサの目を見つめた。

 昨夜は暗くて気づかなかったが、不思議な目だった。橙と群青が溶け合うように混ざった、まるで黄昏時の空のような幻想的な色。

 

「今、この家を出るのは得策じゃない。君がマルフォイ家に帰りたくないなら、だが」

「帰りたくありません。

 ですが、これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきません。あの人……いえ、祖父はきっと腹を立てているはずですから」

 

 ナーサは静かにカップを置き、立ち上がった。

 

「ご馳走様でした。本当に……お世話になりました。

 いつか……またお会いできたら、昔会った時のことを聞かせてください」

「ナーサお嬢さま!」

 

 クリーチャーが厨房からパタパタと駆けつけてきた。ナーサはしゃがんで目線を合わせた。

 

「とってもおいしかったよ。

 ありがとう、クリーチャー……元気でね」

 

 クリーチャーの瞳が見る間に潤み出す。

 遠くに追いやった記憶の片隅で、よく似た輪郭が浮かび上がった。けれど、もう時間切れだ。

 

 ナーサは二人に背を向け、階段を駆け上がった。

 トランクを手に取り、その足で暗い玄関ホールに降りていく。朝だというのに、ここだけは暗いままだ。全ての窓が塞がれているのか、光がなく、ひんやりとした空気が淀んでいた。

 

 小さく杖明かりを灯した瞬間、ドンッ──鋭い音が走り、ナーサはその場で跳び上がった。

 立ち止まったまま、奥を見据える。荒い呼気を何度か数えた時に、先ほどと同じ音が響いた。

 

 ──ドアの向こうに、誰かがいる。

 

「君は部屋にいなさい」

 

 背後から声がかかる。いつの間にか側まで来ていたレグルスが、杖を掲げたままで言う。

 ナーサは反駁せず、玄関から背を向けた。足がカクカクと震えていた。

 

(きっと『あの人』だ……あたしを連れ戻しにきた)

 

 二階まで上がると、ナーサは足を止めた。階段の手すりを押さえたまま、階下の物音に耳を澄ます。

 守られる子どもに戻ることはできない。もし、ルシウスがレグルスに危害を加えようとした時は、たとえ連れ戻されても止めねばならない。

 

 ギィ、とドアが軋む音が響く。

 

「お久しぶりですね、マルフォイ卿。我が家に押しかけるのがご趣味のようで」

「私がこうして来ることは分かっていたはずだ、レグルス・ブラック。

 孫娘を匿っているのだろう。すぐに連れてこい」

 

 はっきりと聞こえたその声の主は想像通りだった。その淡々とした響きの裏にひそむ怒り──素肌がざわりと粟立った。

 

「あなたの孫娘など、この家にはいない」

 

 レグルスは僅かにも怯まない。

 純血名家の当主としての声だ。ルシウスのように、そしてケイレブのように。

 それらが相対する時は、血が流れる……そんな気がする。

 

「『ルクスの鎖』がロンドン中しらみつぶしに調査した。残るはこの家だけだ」

「だとしたら、あなたの選択肢は押し入るか。それとも、このまま立ち去るか」

 

 沈黙が落ちた。ナーサは息をひそめたまま、一段一段慎重に階段を降りていった。

 

「貴様……あの誓いは、この時のために結ばせたのか? 目的は何だ。復讐か?」

「復讐──ナルシッサの?」

 

 自分の名前が飛び出した瞬間、ナーサは思わず両手で口を塞いだ。昔、会ったことがあるのなら自分の本名を知っていてもおかしくはない。

 けれど、おかしい。何か大事なことを見落としているような気がする。

 

「あなたのような男を愛してしまったのは彼女の不幸だった。

 だが、兄が生きていれば、ナルシッサの未来は変わったかもしれない。それは、きっと私の罪だろう」

 

 祖母──ルシウスの妻の名。名前のルーツ。

 二人が話しているのはナーサのことではない。遠い昔の確執だ。

 

「……過去はどうでもいい。

 今は、我が家の跡取り娘のことだ。数百年の歴史を誇る、我が一族の血筋を害そうとするならば」

 

「──やめて!」

 

 階段の陰からナーサは飛び出した。開かれたドアの真ん前で杖を交差させた二人が、弾かれたようにナーサを見つめる。

 先に杖先を逸らしたのはルシウスの方だった。表情からは何も読み取れなかった。彼は静かにレグルスへと視線を戻した。

 

「これで言い逃れはできんな。

 お前は我が家の娘を拐かした。いかに闇の帝王から与えられた権限があろうと、罰は逃れられん」

 

 ナーサはレグルスの傍らに立ち、祖父だった男を見つめた。その灰色の目からは温かみが感じられない。

 

「あたしは、自分の意思でここにきました。騙されてなどいません。家を出た理由は……あなた自身がよくご存じのはずです」

「子どもが口を挟むな、おこがましい」

 

 跳ね除けるような言い方に、ナーサは胸が締めつけられるように感じた。思わず一歩下がりかけたことに気づき、何とか踏み留まる。

 

「それでは事情聴取される時に言います。何故、家を出たのか……よろしいのですね」

 

 ルシウスは無機質な目をスッと細めた。呪いが飛ばされる、と身構えたのも束の間、彼は杖を完全に下ろした。

 

「それは脅しのつもりか」

「勿論脅しではありません。

 自分の出自の秘密を誇ってはいません。だからといって公にできないほど臆病なわけでもない。

 罪を犯したのは、あたしじゃない。あなたですから」

 

 声はもう震えていなかった。真っ向からルシウスを見つめ、静かに告げる。

 その瞬間、氷の面に僅かに亀裂が走ったのを認めた。それは理解できない不可解なものに対する苛立ちのように見えた。

 

「……余計な知恵をつけたな。それは賢さではない。小賢しさだ」

 

 声を一段低く落とす。

 諭すように見せかけて、型に落とし込む──その切り口に気づき、ナーサは微笑んだ。

 もう祖父の教えを受けていた孫娘ではない。言葉の裏を探り当て、合わせることはない。

 

 それまで黙って二人の会話の成り行きを見守っていたレグルスが口を開いた。

 

「生き延びるために必要な知恵だろう。管理という名の支配を免れるための……彼女の年齢でその力を身につけたことを、むしろ誇るべきだ」

「これは私と孫娘の話だ。割って入るな、ブラック卿」

 

 ルシウスは軽く顎を上げ、レグルスを見下ろすようにした。しかし、レグルスは顔色一つ変えなかった。

 

「我が家で話している以上、私にも口を挟む権利はある。

 本人の意思でこの場に留まっているのは明白。

 それに、あなたは保護者ではあるが……このブラック家は縁続き。

 親戚の家に遊びに来ることの何が問題なのか、『ルクスの鎖』の尋問員が来たら確認してみようか」

 

 ルシウスは何かを口にしかけたが、ナーサと目が合った瞬間気まずそうに口をつぐんだ。

 鼻から溜め息を漏らし、やがてひたとレグルスと、そしてナーサを見つめた。

 

「……今日のところは引こう。

 だが、お前が我が家の跡取り娘であることに変わりはない。分かったな、ナーサ・マルフォイ」

 

 ナーサは無言のまま、ルシウスから一歩退き、レグルスの隣に並んだ。片眉を歪めたルシウスだったが、彼もそれ以上は何も口にしなかった。

 ドアが閉まり、幕が下ろされたように暗闇が戻る。昨夜とは違って、それは安息を告げる色だった。

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