暗い玄関ホールに小さく灯火が宿る。今しがた閉じられたばかりの扉に、レグルスは念入りに鍵をかける。その横顔は凪いだ海のように静かで、ナーサは肩の力を抜いた。
当面の危機は去ったとようやく実感できた。
レグルスはぎこちなく笑いかけてきた。
「……私がこれまで見てきた魔法使いの中でも、君は本当に立派だった。
君は自分の言葉で名家の当主であるルシウスと語り、意思を示した。君の年頃で……いや、成年魔法使いでもなかなかできることではない」
思ってもみなかった言葉にナーサは頬を染めた。
「いいえ、そんなことはありません。あの人と話している間、ずっと震えが止まりませんでしたから……あなたが隣にいてくださって心強かったです」
実際、レグルスがいなければ、ルシウスは対話ではなく力を行使した可能性もある。
他家の、それもマルフォイ家より歴史のあるブラック家の当主がいたからこそ、事が進んだだけだ。自分の力とは言えないと思った。
レグルスは微かに笑った。
「すぐに発つ理由はなくなったが、どうする? このまま、ドアを開けるかい?」
ナーサは目を瞬き、それから両手を重ね合わせた。ひんやりと硬い指先を擦り合わせ、ゆっくりと首を振る。
「──いいえ。今は、まだ……外に出る勇気がありません。
もし、よろしければ、昔会ったという話を聞かせていただけませんか?」
「ああ。書斎に行こうか」
二階に案内され、そこに足を踏み入れた瞬間、ふわりと甘い香りが漂った。お菓子の甘さではない。古びた書物のインクの香り。ホグワーツの図書館とよく似た、落ち着きのある空間だった。
ナーサは壁にずらりと並んだ書棚を見上げた。整然と並べられた背表紙に見入っているうちに、ふと『ブリテン魔法史』の文字が飛び込んできた。
(黒塗りの歴史書……!)
何度も読み込んだ本が、目の前にある。それも歴史のあるブラック家で──初版なら黒塗りがない可能性が高い。
ナーサが喉を震わせた瞬間、パチンッ──レグルスが両手を叩き、弾かれたように目を逸らした。
連鎖するように、もう一つ空気の弾ける音が響き、クリーチャーが姿を現した。ナーサと目が合った瞬間、クリーチャーの小さな身体がピョンと跳ね上がった。
「ナーサお嬢さま! 戻ってきてくださったのですね!」
目を輝かせるクリーチャーを見た途端、ナーサの胸を甘い痛みが駆け抜けた。
「……ありがとう、クリーチャー。そんな風に言ってもらえて嬉しい」
こんな風に自分を必要としてくれる人は少なかった。その無邪気さが、胸の奥に重しをつけて沈めていた記憶をそっと揺らした。
レグルスは軽く咳払いをして、口を開いた。
「クリーチャー、少し彼女と話したい。紅茶を……いや、ホットミルクか、ココアにしようか」
最後の言葉はナーサに向けられていた。身体が恐ろしく冷え切っていることに気づき、ナーサは頷いた。
「ココアをお願いできる、クリーチャー?」
「承知しました」
間もなく書斎の机に湯気の立った飲み物が並べられた。
レグルスに差し出されたココアに礼を言い、立ったままでそっと口をつける。喉から胃に落ち、温かみが全身にじんわりと染み入る。身体のこわばりが消え、知らず吐息が漏れた。
「……さて、何から話そうか」
椅子にかけたレグルスはティーカップを僅かに揺らし、目を伏せた。
「君がこの家を訪れたのは六歳の時だった」
「六歳……」
オウム返しした途端、喉の奥に小さな引っかかりを覚えた。次の瞬間、ハッと胸に蘇ったのは育ての父ドラコだった。
「父が亡くなった後に……?」
「そう。ドラコの母ナルシッサは、私の従姉だ。
ドラコとジニーは──兄妹として育てられた。彼らが幼い頃は、よくこの家にも遊びに来ていた」
レグルスの表情が不意に和らいだ。書斎の隅から隅へと移る視線は、まるで過去の思い出を彷徨う子ども達の姿が見えているかのようだった。
ナーサはその言葉を一つひとつ噛み砕きながら、ゆっくりと問い返した。
「母は、マルフォイ家の血筋ではないのですね?」
「ああ。養女だ」
ナーサは握ったままだったマグカップを持ち上げ、もう一口、ココアを飲んだ。育ての父と母が禁忌の関係ではなかったことに、ほんの少し救われた。
けれど、養女──ルシウスと母との関係を考えると、再び胸の底が凍るようだった。
「母は……何故養女になったのでしょう。母の本当の両親は?」
レグルスは両肘を机につき、握りしめた拳の上に顎を乗せた。何かを考えあぐねるように深い沈黙が落ちた。
「ウィーズリー家──その名を聞いたことは?」
「聖28一族の……」
言いかけて、ナーサの思考が弾けるように飛び、別の一点に結びついた。
ジャニスが渡してくれた一九八一年の新聞記事──家族八人が命を落とし、ただ一人行方不明になった生後数ヶ月の女児。
「もしや赤ん坊だった時に、他の家族を亡くして……マルフォイ家に引き取られたのですか?」
レグルスは目を見開いた。
すぐには応えず、ナーサの顔をまじまじと見つめた。まるで何かを推し量るかのように。
「……君は、そこまで辿り着いていたのか」
心臓が一拍飛んだ気がした。
レグルスはティーカップを口に運び、静かに机に置いた。
「私が知ることは全て話そう。隠すつもりはない。
だが、今この場で全てを知っても平気か……君が判断してほしい」
ナーサはすぐには答えられなかった。両手でマグカップを包み込み、夏場なのにかじかむ指先を温めた。
「……あたしは、知りたいです」
すると、レグルスはゆっくりと語り始めた。
母がマルフォイ家に引き取られ、実子として育てられたこと。身体が弱いとされ、学校には通わせてもらえなかったこと。祖母ナルシッサの急死を境に、父と母がマルフォイ家を去ったこと。
「私は姿を消した二人の行方を追っていた。何か……手助けになれればと思って。
だが、その前にジニーが──君の母が、我が家を訪れた。幼かった君一人を連れて」
記憶の奥底が影絵のように蠢いた。
記憶は一切ない。ただ、母が言っていたスコットランドの北の方にある小さな村から、ロンドンにあるこの家までの遠い旅路をどうやって来たのかに思い馳せた時、母と繋いだ手の感触が蘇った。
人混みから守るように引き寄せられ、抱き上げられた。その温みが、その時のものなのかは分からない。
けれど──。
ナーサはマグカップを机の端に置き、母から贈られた懐中時計を握りしめた。
「そう、なんですね。
あたしは、ルシウスの娘なんですよね。父……いえ、ドラコは……あたしが憎くなかったんでしょうか。
子どもの頃のことを、そんなに覚えているわけじゃないけれど……でも、あたしを見る目は、いつも優しかった……そう思いたいだけなんでしょうか」
声が震えてしまう。
父は、母を愛していた。だからこそ、一緒に逃げたのだろうと思う。けれど、愛した人と別の男との子どもをどう思っていたのか。
傷つくかもしれない。それでも知りたくてたまらなかった。
レグルスが口を開くまで、ナーサは息が浅くなるのを止められなかった。
けれど、レグルスの答えは素っ気なかった。
「すまないが、私にそれを肯定することはできない。
当時のドラコが何を思っていたかは、彼以外には分からないからね」
「そう、ですよね。
すみません、こんなことを聞いてしまって」
「──ただ」
肩を落とすナーサに、レグルスは静かにつけ足した。
「ジニーは言っていた。ドラコが『お前の産む子なら、僕は愛してみせる』と誓ったと。その約束を、最期の時まで守ってくれたと」
ナーサは息を呑んだ。身体の節々まで温かさが染み渡るようだった。懐中時計を胸に抱き、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。その言葉で十分です」
雲に和らげられていた陽光がレースのカーテンを通し、窓から差し込んできた。チラチラと踊る影を見ながら、二人はしばし黙り込んだ。
耳を澄ませば、外の空気を感じられる。魔法界には馴染みの薄い車の音、サイレン、話し声……隔離されたマルフォイ邸とは違う。ここはマグル達の暮らしの中にあった。それを嫌悪ではなく、懐かしさと共に感じることができた。
ナーサはココアをゆっくりと飲み干し、もう一度レグルスに向き直った。
「母は、何故マルフォイ家に戻ったのでしょうか」
ルシウスに直接会いに行くのではなく、先にブラック家を訪れたことには、きっと意味があると思った。
レグルスは静かに頷いた。
「君達親子の暮らしは過酷だった。
ドラコはホグワーツを中退し、二人とも未成年。居場所が知られると、魔法を使わずにマグルの中に紛れて暮らしていたそうだ。
当然マグル社会でも未成年で、身元保証人もいない者が暮らしていくことは難しい。それに……捕まらないよう各地を転々としていたようだからね」
頭がずきりと痛み、ナーサはこめかみを押さえた。
第三者が冷静に語るからこそ、自分達家族の暮らしがどれだけ異質だったのか、改めて知らされた思いだった。
レグルスはひと呼吸置いてから口を開いた。
「ジニーは、君だけを我が家に託そうとしていた」
「……え?」
思わずレグルスを見つめる。
「ルシウスは執念深くジニーを探し求めていたから、逃げてもいつか囚われると思っていたんだ。
そして、いつか……こんな風に君が出生の真実を知った時に傷つかないように、ブラック家で保護することを願っていた」
「ママが、あたしを想って……?」
思いがけない言葉に一瞬言葉を失ったナーサに、レグルスは立ち上がった。
「私は、君に詫びねばならないかもしれない。
母と子が離れ離れになることは許されないと思った。だから、ルシウスがこの家を訪れた時、君を連れて行くように仕向けた。
君が傷つかないよう最低限のことをルシウスに取り付けた上でのことだが、それでも……あの選択は間違いだったのかもしれない。すまなかった」
見上げるように背の高い人が、頭を垂れる。その姿が、つい先日受けたばかりの謝罪と重なった。
けれど、それは許されることが前提ではない。結果がどうであれ、自分がすべきことだという思いが伝わってきた。
「謝らないでください。
あなたの言葉で、母があたしを連れて行ってくれたのなら……あたしは感謝しています。
母はあたしを選んではくれなかったけれど、それでも愛してくれました。だから、父と同時期に母まで失わずにすんでよかったと思います」
だから、何の迷いもなくそう口にすることができた。同時に首にかけた懐中時計の重みも痛いほど感じた。
レグルスは何かを言いかけ、すぐに思い直したように首を振った。
彼がティーカップを丁寧に置いたタイミングで、ナーサは思い切ったように口を開いた。
「ブラック卿、お願いがあります」
「聞こう」
ナーサはスッと息を吸った。
「あたしを、この家に置いてください。
これまでのこと……これからのことを、ゆっくりと整理する時間がほしいんです。
一週間ほど……図々しいお願いとは思いますが」
レグルスの頬がふっと緩んだ。
「親戚の家に滞在することが特段図々しいとは思わない。
昨日の部屋や、鍵のかかっていない部屋は自由に使って構わない。足りないものがあれば用意させよう。
……ここ数日で、君はきっとひどく疲れ切っているはずだ。まずは、ゆっくりと休みなさい」
その言葉は癒しの魔法のように、ナーサを包み込んで放さなかった。