ナーサがブラック家に滞在してから、もう一週間が経とうとしていた。レグルスとクリーチャーとの暮らしに、これといった決まりはない。何かを命じられることもなかった。
長く一人で暮らしてきたせいだろう。レグルスは、ひどく口数が少なかった。三度の食事に顔を合わせても、話を振ってくることはほとんどなかった。かといって、ナーサに無関心というわけでもない。
ある日の朝食時に、レグルスが遠慮がちに切り出した。
「……ずっと制服を着ているね」
家から持ち出した制服は二着で、交互に着ていた。
頬を赤らめて俯くナーサに、レグルスは「すまない」と続けた。
「言い方が悪かった。そろそろ着替えが必要なのではないかと思ったんだ」
「……家を出る時に、学校に必要なものだけを持ってきたんです。
何でも惜しみなく与えられてきましたが、それは『あたし』ではなく……『マルフォイ家の娘』に与えられた物だと思ったんです」
ナーサはテーブルの下でそっと両手を握りしめた。
ルシウスから与えられた高価な装いはもはや不要と思っていたが、このままでは人を不快にさせてしまうかもしれない。
レグルスはスープを口に運んでから、ナーサの反応を窺うようにゆっくりと言った。
「その心構えはとても立派だ。
だが……そのままではいられないだろう。ずっと制服のままでは皆から不自然に思われる。
よければ、ダイアゴン横丁で何着か私服を仕立てるのはどうだろう」
傷つけないように言葉を選んでいるのをひしひしと感じる。ナーサはスプーンを握る手に力を込めた。
「ありがたいお言葉ですが……この家に置いていただいている上に、そこまでのご迷惑をおかけするわけにはいきません」
ナーサにとってレグルスの存在はまだ遠い。『親戚』と言えど、無条件に寄りかかることはできないと思った。
レグルスは微かに笑ってみせた。
「それでは、君が使っている部屋──あそこは昔からナルシッサがこの家に滞在する時に使っていたんだが、クローゼットの中の衣類がそのままになっている。もう誰も必要としないと思っていたものだが……サイズが合うか、確認してみてはどうかな」
「……おばあさまの?」
長く閉ざされていたであろうクローゼットのドアを開けても、鼻を突く匂いはなかった。
乾いた木と、よく手入れされた布の気配だけがそこにあった。まるで来たるべき『誰か』に備えていたような──そんな香り。
クローゼットの内部は小さな部屋のようで、ずらりと洋服が並んでいた。子どもから大人のものまで年齢別に整理されている。
サイズの合いそうな服を何着か見つけ、ナーサは身体に当ててみた。流行を追わない実直なデザインは、時間との乖離を微塵も感じさせない。
クローゼットを出て姿見の前に立ってみた。白いスクエアカラーと金のダブルボタンが印象的なワンピース。
(……でも、あたしにこれを着る資格はある?
おばあさまは、きっと……ママのことを憎んでいたはず。ママの娘のあたしが、おばあさまの服を着るのは許される?
やっぱり、制服だけで過ごした方が)
その時、ベッドサイドで微笑む人形が目に入った──まるで、その服を着ることを言外に許してくれたかのように。
ナーサは服を抱きしめ、その場で袖を通してみた。ラインを拾わない上質なワンピースに古臭さはまるでない。
「お借りします。大切に使わせていただきます」
誰にともなく呟くと、ナーサは部屋を出た。
借り物のワンピースは思いのほかナーサの身体に馴染み、動きやすかった。
(この服ならマグルに怪しまれないかも……少しだけ外に出てみようかな)
胸の高鳴りを抑え、足音を忍ばせて階段を降りていった。暗い一階へと降りかけたその時、ふと見た廊下の向こうの部屋の扉が少しだけ開いていた。いつも鍵がかかっていた部屋だ。
何となく気にかかり、近づいていった。
ドアを閉めて立ち去ろうとしたのに、つい手が軽くドアノブを押してしまう。キィ、と微かな音を立てて内部が見えた。
まずは夜空のような藍色の壁が目に入った。そして、星座のような金の模様──吸い寄せられるように、ナーサは中を覗き込んだ。
壁紙だと思ったのはタペストリーだった。そして星座と思ったのは幾重にも枝分かれした図形。ナーサは息を呑み、足を踏み入れた。
どうやら応接間らしい。中央に陣取る豪奢なテーブルと、それを囲むように配置されたソファ。高い天井は黒を基調に、金と濃い緑の装飾が施されている。
大きなシャンデリアは荘厳だが、見下されているような圧迫感があった。
タペストリーの最下部にある名前を指さしながら追っていくと──ナルシッサ・アークトゥルサ・マルフォイの名が飛び込んできた。
(あたしの、名前……)
震える指先で辿ると、すぐ上にはドラコ・マルフォイとジネヴラ・マルフォイの名が刻まれている。見た瞬間、目の奥がじわりと熱くなる。
この家系図の上では、自分は父の娘なのだ。ナーサは懐中時計を握りしめ、さらに遡っていく。
シグナス・ブラック──祖母の父。その二つ左の名、ヴァルブルガ・ブラック。
そして──その下にある名は二つ。左側は焼け焦げた跡になっていたが、右側の名を見た瞬間、ナーサは大きく目を見開いた。
──レグルス・アークトゥルス・ブラック。
トクトクと心臓が脈打つ音に混じって、いつかの母の声が頭に蘇ってきた。
──アークトゥルスは旅人を導く星。私たちの行く先を照らしてくれるようにとつけたの。
ナーサはしばらくの間、家系図に見入っていた。
「……気になるかい?」
背後から低い声が落ちた。けれど、振り返るより先に、ナーサは気配に気づいていた。まるで空気に溶け込むように現れたレグルスに、ナーサは全く驚かなかった。
「この家系図、あたしの名前を刻んでくれたのですか?」
「ああ。君の母が、君を連れてこの家を訪れた時に」
レグルスは静かに答えた。広い客間に、二人の声は染みるように溶けて消えた。
ナーサは小さく喉を鳴らした。
「あたしのミドルネーム……アークトゥルスが由来だと、母から聞いていました。
あなたは──マルフォイ家を出て、旅をするあたしを導いてくれていたんですね」
レグルスは頭を振った。
「導いたわけではない。全て……君が選んだんだ」
「それでも……選択肢を与えてくれたことに感謝します。
あの夜、あなたに会えなかったら……あたしはきっと考えることをやめて、マルフォイ家に帰っていたでしょう。自分にとって楽な道に逃げ込んでいたかもしれない。
そうせずにすんだのは、あなたが暗い夜道を照らしてくれたからだと思います」
レグルスは答えなかった。ただ、穏やかな目でナーサを見つめ、頬を緩めただけだった。
ナーサは身体ごとレグルスに向き直った。言葉を選ぶように、唇を開き──
「あなたのことを『レグルスおじさま』と……そう呼んでも、いいでしょうか」
口にした瞬間、頬が燃えるように感じた。
「ああ、懐かしい響きだな……」
レグルスは一瞬だけ目を伏せた。その表情には哀愁と後悔が──そして、かつて失くしたものが、思いがけぬところから出てきたかのような喜びが複雑に溶け合っていた。
「私も、君のことを『ナーサ』と呼んでもいいだろうか」
問いかけは静かで、押しつけがましさは微塵もない。
祖父に呼ばれる名でもなく、家名を背負わされる呼び方でもない。ただ、自分自身として呼ばれる名だと……そう思えた。
「喜んで」
その瞬間、ナーサは改めて感じた。
ここは逃げ込んだ場所ではない。自分が選び取った居場所なのだ。
窓から差し込む光が、家系図の金糸を静かに照らしていた。