「君がここに来てから、もう二週間か」
ある日の朝食時、厨房を訪れるとレグルスがしんみりとした声で漏らした。
「そうですね。本当に……あっという間でした。一週間というお約束でしたのに」
「勘違いしないでほしい。私は迷惑だなんて思っていないし、正直──君と暮らすのは、楽しい」
彼は最後の方を小声で付け足した。ほのかに赤らんだ顔と、僅かに上がった口角に嘘はなかった。見たら失礼になる気がして、ナーサはそっと目線を落とし、口元を綻ばせた。
クリーチャーが飛ぶように走ってきてポタージュのおかわりを注いでいく。レグルスはきびきびと動くクリーチャーの後ろ姿を見送り、呟いた。
「クリーチャーも、最近は生き生きと過ごしている……君のお陰だ。ただ、そろそろ『魔法使い居住地区管理局』が動く頃だ」
「その……管理局、というのは何でしょうか?」
ナーサはナフキンで手を拭きながら、姿勢を正した。レグルスの口調には何か聞き逃がせないものが潜んでいた。
「魔法省の管轄の一つで、魔法使いの住居を管理している。登録した住居から二週間以上離れることは許されない」
ナーサは思わずナフキンを握りしめた。
「それじゃ、あたし……マルフォイ家に帰らなければならないのでしょうか?」
「いいや、登録住居は変更できる」
レグルスが即座に打ち消してくれたお陰で、ナーサは肩の力を抜いた。それでも、まだ指先の震えが収まらなかった。理屈ではなく、もうあの家は自分の帰るべき場所ではないのだと身体が意識しているようだった。
「この家や、他の場所でも……。
君が望むのなら、『漏れ鍋』で残りの夏季休暇を過ごすことができるように手配することもできる。
ただ、あそこは一時的な宿泊所だ。クリスマス休暇やイースター休暇も利用したいなら、都度の手続きが必要なんだ」
ナーサはテーブルの上で組み合わせていた手に気づき、そっと膝に下ろした。
「あたし、この先もレグルスおじさまとクリーチャーと過ごしたいです。もし……この家に置いていただけるなら」
「私もクリーチャーも、君を歓迎する──分かっているだろう?」
ナーサはその言い方に懐かしさを感じた。言語は違うけれど、『分かっているはずだ』という前提で投げかけられる優しい響き。
胸の奥に沈めたオルゴールが不意に開き、微かな音を奏で始める。ナーサはレグルスに向かって微笑むと、その蓋をまたきっちりと閉め直した。
レグルスも安堵したように頷き、パチリと懐中時計を押し開いた。
「それでは、期間内に手続きを済ませる必要がある。魔法省に行こう」
*
金張りの暖炉がいくつも設置されている広いホールで、ナーサは立ち尽くした。地下なのに、ここは昼間のように明るい。ピーコックブルーの天井には金色のルーン文字が浮かび、呪文を詠唱しているかのように絶え間なく書き変わっている。
「まずは守衛で杖を登録する必要がある」
「登録?」
「何か問題が起こった時のための形式的なものだ。心配しなくてもいい」
レグルスは噴水のさらに奥、金のゲートの左手にある守衛と書かれた案内板の方へと向かっていく。
近づく足音に気づいたのか、面倒くさそうに頭をもたげた瞬間、守衛の動きがピタリと止まった。
「ブ、ブラック卿でいらっしゃいますか。今日は何用で」
机に引っ掛かりながらも飛んできた守衛の顔は真っ赤だった。しきりに揉み手をしながら、何度もお辞儀する。
「この子の付き添いだ。私がここにきたのは大分以前になるが、また杖の登録は必要だろうか」
「いえいえ! も、勿論あなた様のような方は結構でございます……しかしながら、お連れの方には、そのう」
「この子は来省が初めてらしい。お願いするよ。
ナーサ、杖を預けてくれ」
見知らぬ他人に杖を渡すことに胸の奥が僅かにざらついたが、それでも言われた通りに杖を差し出した。形式的なものとは言っても、自分の半身を差し出すような気がして何とも言えず嫌な気持ちだった。
杖はすぐに返され、ホッとひと撫でする。
守衛はもう一度レグルスに頭を下げて、そそくさと元いた場所に戻っていく。先ほどまでの姿勢とは打って変わり、背筋を伸ばして遠くを見ている。また視線が合うのを恐れているかのように。
「今の人は、どうしてあんなに怖がっていたんでしょう」
金のゲートに向かいながら、ナーサはチラリと振り返った。レグルスの唇が僅かに歪んだ。
「死喰い人は闇の帝王に近い存在だ。マグル出身者やそれに近しい者は、闇の帝王の恐ろしさが骨身に染みている……純血の者も、かな。
長くブラック邸にこもった私のことなど、もう誰も覚えていないと思ったが、どうやらそうでもなかったらしい」
ナーサは目を瞬かせ、今しがた聞いた言葉を反芻する。
「おじさまは死喰い人だったのですね」
「ああ。君は……怖くないかい?」
レグルスの声がかすれていることに気がついた。それに、わざと遠くを見るような目をしている。
ナーサは懐中時計のチェーンに指を絡めた。
ルシウスや、屋敷を訪れるごく近しい客人も死喰い人だと聞いたことがあった。その中にはナーサを特別可愛がってくれる者もいた。
「闇の印を持っているから怖い、とは思いません。
闇の帝王も、あたしが生まれた時から、ずっとこの世界を統べられていた方なので、分からないんです。怖いのか、どうか。
あたしにとって、レグルスおじさまは居場所を与えてくれた人で……そのことの方が、大事です」
「そうか」
レグルスの答えは短かった。ただ、それはおざなりな返事ではなく万感の想いがこもっているように聞こえた。
ゲートをくぐると、エレベーターが並んだホールに抜け出た。
上階へと向かう列の後ろに並ぶと、ここでも何人かがレグルスをチラチラと見てきた。ただ、その視線は恐怖ばかりではない。特に若い魔女達は帽子の陰から窺い見たり、肘をつつきあってはコソコソと耳打ちしている。
──見てっ。すごいハンサム。連れの子も可愛いし。親子?
──シングルかも。指輪してないし。
「これから行くのは地下二階の魔法使い居住地区管理局。
この国に住む魔法使いの家は、全て届け出が必要なんだ。転居した時もね。届け出を怠れば取り締まりの対象になるし、最悪アズカバンに収監されることもある」
漏れ聞こえる声がまるで耳に入っていないかのようなレグルスだった。ナーサは頷いたついでに下を向いてやり過ごした。親子と間違われたことに胸がくすぐられたようだった。
エレベーターに乗り込む時、同じ箱に入るのを避けるように立ち止まる者と、急ぎ入ろうとする者とでごった返した。
ようやく扉が閉まると、上階へと昇っていく。階を上がるごとに人は少なくなっていき、地下二階で降りる時にはレグルスとナーサの二人だけになっていた。
長い廊下にはたくさんのドアが並んでいた。案内板に従って先に進んでいったが、複雑な順路だった。
廊下の最奥にようやく魔法使い居住地区管理局の表札が下がった部屋が見えたが、そこはイギリス全土の魔法使いの住居を管理する部屋としてはあまりにも小さい。
レグルスがドアノブに手をかけようとした、まさにその時。内側からドアが開かれ、薄茶色の髪をオールバックにした細身の男性が姿を見せた。
「やあ、ブラック。守衛から知らせを受けて待っていたよ。数年ぶりだな。息災だったか?」
せかせかと近づいてくると、当然のように手を差しだしてきた。レグルスが仕方なくといったように応えると、パシンッと音を立てて握手を交わした。
「ああ。久しぶりだな、クラウチ……こうして迎えてくれるということは知っているんだろうが、この子がマルフォイ嬢だ。
ナーサ、こちらは魔法法執行部部長のバーテミウス・クラウチだ。挨拶を」
クラウチ氏がナーサに目を移した。細面のせいか、その目はとても大きく見える。
(……この人が、ミスター・クラウチのお父さま?)
聖28一族の一つ、クラウチ家の当主。そして黒塗りの歴史書の謎を握る重要人物。
仕立てのいい深緑のスーツローブを上品に着こなしていて、靴は爪先まで磨き込まれている。きっちりとまとめられた髪には一分の乱れもなく、細い眉がやや神経質そうだ。
その顔に、ナーサの知る『彼』と似たところはあまり見つけられない。むしろレグルスの方がアシュタロスとそっくりだ。何故──と、疑問が首をもたげる。
「はじめまして、ミスター・クラウチ。ナーサ・マルフォイと申します」
その瞬間、クラウチ氏の目が鋭く光った。口元が綻びているのに何故か笑っているという感じが全くしない。
「君がマルフォイ嬢か。
……なるほど。噂が独り歩きするのも無理はない。ただ、実物はもう少し静かな印象だ」
「噂がどのようなものかは存じ上げません。ただ、人は見たいものだけを見るものだと、最近、身をもって知りました」
「失礼なことを言ったね。職業病だ。
改めて……お会いできて光栄だ。続きは中で話そう、マルフォイ嬢。それに、ブラック」
クラウチ氏とレグルスに続いて敷居を跨ぐと、そこは広々とした部屋だった。ドアをくぐる前は、確かに隣りの箒置き場よりも小さく見えていたはずなのに。
正面には透明のガラスで仕切られた窓口が十ほど並んでおり、二人ほど手続きしているのが見えた。
左手通路の奥の応接間に通され、ソファに掛けると、ローテーブルの上に紅茶が三つ音もなく並んだ。レグルスとナーサ、それぞれの前に置きながらクラウチ氏が話しだした。
「二週間前、大臣閣下に夜半緊急の呼び出しを受けてね。出向いてみれば、あのマルフォイ閣下がいるじゃないか。孫娘が姿を消したと……切羽詰まった様子でね。あの方にも知られざる一面があったようだ」
(『あの人』が、そんなに……?)
微かな揺らぎが顔に浮かびそうになった途端、クラウチ氏の目が一段と鋭くなった。ナーサは反射的に膝に視線を落とした。僅かな反応も見過ごすまいとする視線を跳ね返すのは至難の業だった。
(違う。『マルフォイの跡取り娘』がいなくなったからだもの……『あたし』だからじゃない)
ナーサは膝の上でワンピースの布地を握りしめた。
クラウチ氏はティーカップを傾けると、鼻先で揺らした。
「だが……それ以上に意外だったのは君だ、ブラック。君ほどの男が、誰かの人生を背負う決断をするとはね」
そうして低い含み笑いを漏らす。何処か試すような響きに、ナーサは背筋をゆっくりと何かが這い回る感覚を覚えた。
レグルスは表情を変えなかった。紅茶を一口含み、間を置いてから静かに言う。
「マルフォイ卿は少しばかり、躾に厳しいところがあるようでね。
保護者に反発して家出する気持ちは、君になら分かるんじゃないか。そんな時、周りにいる大人達にどうしてほしかったのかも」
波が引くようにクラウチ氏の顔から笑みが消え、酷薄な白い顔だけが残っていた。音を立てて置かれたティーカップの液面が、大きく波打つ。
レグルスは素知らぬ顔で続ける。
「ナーサが私の家に住むことは、彼女の母親から了承を得ている」
「ママが?」
いつの間に連絡を取ったのだろうとナーサは驚いた。
レグルスが胸元から取りだした白い封筒を、クラウチ氏が引ったくる。そのまま封を切るや否や、中身を取りだして杖を向けた。
「スペシアリス・レベリオ」
それは偽装を暴く魔法だったはずだ。杖先から光が放たれたが、便箋には何の変化も見られない。
クラウチ氏はお気に召さなかったらしい。角度を変えたり、透かして見た後、便箋をテーブルの上に置いて虫眼鏡のような道具で隅々まで観察していく。
そこまでしてから、クラウチ氏はようやく本文に目を通し始める。ややあって顔を上げた時には、先ほどまでの恐ろしい顔は何処かに消え去っていた。
「書類は問題ない。受理しよう。ホグワーツからの便りも、今ここで渡しておこう。
──それと併せて確認させてほしい。マルフォイ嬢、君の『宴』への参加資格だ。まだ変更はないか」
ナーサがきょとんと目を瞬いていると、急にレグルスが立ち上がった。
「私的な質問に、直に答える必要はないだろう。この書類は後でホグワーツ宛に返信する。
……魔法法執行部部長殿の貴重な時間を使わせてしまってすまなかった。ここの事務補佐官にでも任せてもらえればよかったんだが」
「まさか。旧友の来訪を出迎えない者はいないだろう。
それに……聖28一族の希少な血筋の手続きを、頼りない若造に任せるわけにはいかないしな。
君もこれから引きこもりはやめるんだろうな、ブラック? 妻のところにも顔を出してやってくれ。喜ぶだろう」
クラウチ氏が薄ら笑いを浮かべて言うと、レグルスの顔がみるみるうちに固く強張っていった。何かを言いかけたが、思い直したように頭を振ってそのまま出て行ってしまう。
慌てて立ち上がった途端、クラウチ氏の目がナーサを捉えた。
「ああ、マルフォイ嬢──『ブリテン魔法史』はお気に召したかな?」
ナーサはビクンと跳ね上がった。生唾を呑み込んでから、ぎこちなく微笑む。
「とても……興味深い本でした。
歴史を学ぶと、過去の人々の選択肢が多数生まれます。『もし、この時にこうしていたら』ということを考えると、視野が広がる気がしました」
「なるほど。ケイレブ・ヤックスリーから聞いていた通り、聡明なお嬢さんだ」
「……ケイレブ?」
思いがけない名前に、ナーサはオウム返しするのがやっとだった。
クラウチ氏の口元に笑みが広がる。
「幸運にも『ルクスの鎖』が、彼を勝ち取ったんだ。有能な男だからね。色々と話を聞かせてもらっている」
探るような声音に、ナーサは肌が粟立つのを感じた。
この人はケイレブとの間に何があったのか、ほぼ正確に知っている──その上で、あえて反応を見ているのだと直感した。
「そうですか。
本日はご多忙の中、ありがとうございました。お会いできて光栄でした、クラウチ卿」
ナーサは感情を押し殺し、淡々と挨拶をすると、すぐに身を翻した。
応接間を出たところでレグルスが待ってくれていた。廊下に出るところで振り返ると、クラウチ氏は応接間の入り口からじっと二人を見ていた。
「……嫌な思いをさせてしまったね。すまない。まさかクラウチが来るとは思わなかった」
「おじさまとあの方は、仲がよろしくないんですね」
二人の会話は水面下で攻撃しあっているようだったと思い返す。レグルスは少し笑ってみせた。
「昔から色々とあってね。
同い年で、死喰い人になったのも丁度同じ頃……ライバルのようなものだった。あちらは今や魔法法執行部の部長で、いずれ魔法省大臣になるのだから差は歴然だが」
(あの方も、死喰い人……でも、おじさまとは違う。『あの人』とも、また違う怖さだった)
エレベーターに乗り、下へと降りていく。地下八階のホールまで降りたところで、ふと思いだした。
「そういえば、さっきミスター・クラウチが言っていた、宴の参加資格って何ですか? 何か……試験とかがあるんですか?」
「……少し座ろうか」
噴水近くに並んだいくつかのベンチのうち、一番端に並んで掛けると、レグルスはナーサに羊皮紙を渡した。
「詳細はこれだ」
下部にはホグワーツの学校印が押されている。先ほどクラウチ氏に渡された書類だろうか。
何の気なしに読んでいったナーサは思わず口元を押さえた。そこには年に数回設ける『宴』に参加して、男女の親睦を深めるよう促す旨が記載されていた。寮や学年ごとではない。血筋を身分に落とし込み、クラス分けされているらしい。
そして──参加資格の一文には、精通・初潮を迎えたものと明記されていた。
聞いていた話と違う。
舞踏会のようなもの。音楽と社交を楽しむ場、と教えてもらっていた。
けれど、その実態はこれなのか。
その瞬間、牛の鳴き声が脳裏に浮かんだ。
耳に黄色い台形のタグを取り付けられる瞬間、悲痛な鳴き声が響いた。遠目にもはっきりと分かる管理番号。いつか見たことがあるかのように、その光景は鮮明だ。
何処で生まれたか。どんな両親か。血統はどうか。
──家畜の管理。
浮かんだ言葉にぐらりと頭が揺れ、横倒れしそうになる。耳の奥から金属音が鳴り響いていた。
「おじさまは……レグルスおじさまは、この制度がおかしいとは思わないんですか?」
魔法省の法案は闇の帝王の意向を受けて決定されると聞く。死喰い人であるレグルスも同調しているのだろうか。
縋るような思いで訊くと、レグルスは恥じ入るようにうなだれた。
「結婚も同じ階級の相手が求められる。結ばれない恋をするよりは、最初から住み分けをした方がいいという配慮だ……そう、私は思っている」
その言葉に、リンジーの左手で光っていた指輪と、大広間で聞いた乾いた拍手の音が重なった。
ナーサは両手で顔を塞ぎ込んだ。
その存在を知って以来、いつか参加できることを密かに楽しみにしていた。その実態が、こんなに醜悪なものだったなんて……。
自分という一人の人間ではない。『血統の優れた魔女』という目でしか見られないところで、一生連れ添う相手を見つける?
「あたし……あたし、いや……『宴』になんか参加したくない……」
レグルスはしばらく黙って前を見据えていた。その目は痛ましげに歪んでいる。
「ナーサ、大人になるということはとてもつらい。意に沿わぬものに従わなければならないこともある……今のままでいたいと思う君の気持ちはよく分かる。
君が納得する答えを探してやれず、とても申し訳なく思う」
ナーサは目を瞑った。レグルスの低い声を聞いていると、波立った心が鎮まるのが不思議だった。
深呼吸をし、ゆっくりと目を開けると、心配そうなレグルスの顔が間近にあった。
(レグルスおじさまのせいじゃない。言っても仕方のないこと……そうだよね)
少なくともレグルスは全面的に賛成しているわけではないのを感じ取り、ナーサは絶望に呑み込まれそうなギリギリのところで踏み留まった。