移り住んでから一ヶ月。ブラック邸は見違えるように変わった。蜘蛛の巣は隅々まで取り払われ、カビが生えたり破れていた壁紙は次々と修復されていった。淀んだ空気は明け放たれた窓から出ていき、ナーサの心を覆っていた厚い雲も少しずつ薄らいでいった。
ここ最近、午前中は予習や復習に当て、午後になるとロンドンの街をぶらりと歩くのが日課になっていた。
庭に出るにも逐一許可が必要だったマルフォイ家とは違って、ここでの外出は自由だった。マグルの店をショーウィンドウ越しに覗いたり、大通りから逸れた小道を散策して回るのは思いのほか楽しかった。
「明日の午後に客人を招こうと思うが、いいだろうか」
夕食の席でレグルスに言われ、ナーサはスープを飲む手を止めた。
「勿論です。あたしはお借りしている部屋にいてもよろしいですか? それとも、外に出かけていた方がいいでしょうか」
「いや、そうではなく……君にも同席してほしいと思ってね」
一瞬、ルシウスを連想し、すぐにそれを打ち消した。魔法省での正式な手続きは済ませたし、第一、レグルスが穏やかな顔で切り出す話ではない。
それでも、悪い方に傾きかけた思考が顔をこわばらせていく。
「あの……お客様は、どなたなんでしょうか?」
唾を呑み込み、おそるおそる尋ねてみると、レグルスは柔らかく笑んだ。
「君も知っている人だよ。
セブルス・スネイプ教授と、彼の妻だ。二人とは古くから付き合いがあるんだ。君のことを正式に紹介しておきたいと思ってね」
「スネイプ先生ですね。承知しました」
ナーサはホッと胸を撫で下ろした。
スネイプ先生とはこれまで授業くらいしか接点はなかったけれど、それでも父のことを教えてくれたり、香水を作る時に場所と器具を提供してくれたことを思い出す。
そう──それは、どちらもケイレブと共有した時間だ。胸に小さな痛みが走ったが、それでもナーサの微笑みは陰らなかった。
*
そして、翌日。早くも秋が訪れたのかと思うほど肌寒い日だった。
クリーチャーから客人の来訪を告げられ、二階まで降りていくと、階下から話し声が近づいてくるところだった。
背筋を伸ばし、階段の脇で佇んでいると、ゆっくりと近づいてくるのが見えた。
レグルスが微笑んで、そっと立ち位置をずらす。
ナーサはその陰にいたスネイプ先生に歩み寄っていった。
「お久しぶりです、スネイプ先生」
先生はちらりとナーサを見下ろした。驚いたのでも、不快なのでもない。一瞬の沈黙の後、大きな鼻から長い溜め息を漏らした。
「……ああ、しばらくだ。ミス・マルフォイ」
二人のすぐ後ろに、ほっそりとした女性の姿も見えた。
深みのある赤毛の、とてもきれいな人だった。母よりもずっと年上に見える。口元には穏やかな笑みを浮かべているのに、ひどく哀しい顔をしている──そう、直感的に思った。
「はじめまして、あなたがミス・マルフォイ? 私はリリー」
思わず聴き惚れてしまう、穏やかな声。
女性は自ら歩み寄り、ナーサに向かって手を差しだしてきた。
夫婦だというのに、側に行くだけで緊張せずにはいられないスネイプ先生とは共通点がまるでない。昔から知っている親友にまた会えたような──ただそこにいるだけで周りが柔らかな空気になる。好きにならずにはいられない人。
ナーサはためらいなく握手を交わした。
「はじめまして、ミセス・スネイプ。ナーサと呼んでください」
「よろしくね、ナーサ。私のことはリリーと呼んで」
先に立ってスネイプ先生を案内していたレグルスが振り返る。
「ナーサ、おいで。応接間で話そう」
頷き、リリーと並んで歩き出す。リリーはアーモンド形の明るい緑の目を細めて、ナーサの顔を覗き込んだ。
「あなたは私の後輩だって聞いているわ。グリフィンドール生なんですってね。寮生活はどう? もう慣れた?」
「はい。それなりに楽しく過ごしています」
「仲がいい子は?」
「とても親しかった人がいました。もう前みたいに話すことはないと思いますが……。
それに、ルームメイトの中にとても信頼できる子がいます。その子は……友達、と呼べる気がしています」
会ったばかりの人なのに、心の内をさらけ出してしまったことに気がついた。不思議だった。ジャニスはともかく、『彼』のことは、もう誰の前でも口にすることはないと思ったのに。
リリーは不意に足を止めた。つられて足を緩めたナーサの両手を取ると、そっと包み込む。
「あなたならこの先、きっと心を許せる友達ができると思うわ。だって、たったこれだけの短い時間なのに、私はあなたのことが好きになったもの」
慰めではなく本心からそう言っているような真っ直ぐな目だった。優しい温みで、ナーサは両手がとろけそうな気がした。
応接間の前ではクリーチャーが待ちかまえていた。恭しくお辞儀をしてドアを開けたその顔は、いつもとは違って硬くこわばっていた。
(お客様が久しぶりだから緊張しているのかな)
ただ、通りすがるナーサと目が合うと、パッと顔を輝かせたのはいつも通りだった。だから、ナーサは深く気に留めなかった。
家系図を見て以来、応接間を訪れるのは二度目だ。きれいに掃除され、より重厚さを増したように思える。
中央のテーブルには真新しいテーブルクロスがかけられ、ピカピカに磨かれた銀食器が寸分の狂いもなくセットされている。
鳥かごを模した三段のケーキスタンドには色とりどりのマカロンやケーキが並んでいた。ふんわりと甘い匂いに誘われて、つい駆け寄りたくなるのを我慢する。
レグルスとナーサが並び、向かい側にスネイプ先生とリリーが掛けた。
クリーチャーが指を鳴らすと、四人の前にブラック家の家紋入りのカップが現れた。ティーポットを浮かせたクリーチャーが、真っ先に主のカップに向かわせようとする。
レグルスが静かな声で制止した。
「クリーチャー、まずは客人を優先してくれ」
「かしこまりました」
すぐさま浮いたティーポットが向きを変え、スネイプ先生のカップに紅茶を注ぐ。ポットが向かう先を見たレグルスの声が僅かに尖った。
「クリーチャー、彼女が先だ」
「順番なんか気にしないわ」
すぐにリリーが柔らかな声で告げる。
クリーチャーは、わなわなと唇を震わせた。リリーのカップに紅茶を注ぎながら、はっきりと聞こえるように呟いた。
「この屋敷に入れるだけでもゾッとするというのに、この女を立派な魔法使いの方と同様に扱えだなんて」
「クリーチャーッ」
「屋敷しもべごときが、よくもそんなことを」
ナーサが思わず口を覆うのと、レグルスとスネイプ先生が立ち上がったのは同時だった。
スネイプ先生の顔には深々としわが刻まれ、しっかと握られた杖先はすでにクリーチャーに向けられていた。
そして──リリーの手のひらが、その杖の先端に当てられていた。
「スネイプ、座って。杖をしまって。『ごとき』なんて言葉は聞きたくない」
リリーに静かにたしなめられたスネイプ先生は全身を震わせていた。荒い息遣いを抑えるように口元に手をやりながら、杖を戻し、ゆっくりと腰を下ろす。
レグルスは短く息を吐き、クリーチャーを見下ろす。
「クリーチャー、リリーに謝って席を外せ。すぐにだ」
今まで聞いたことのないような厳しい声だった。
クリーチャーの顔が見る間に歪んだ。それでも絶対的な主の命令には逆らうことはできないらしく、リリーに向かって僅かに頭を下げる。
思わず呼び止めかけて、ナーサの口から息が漏れた。
次の瞬間、クリーチャーと目が合った。悔しげだったその表情が立ちどころに溶け、無垢な信頼へと取って代わる。
「──クリーチャー」
レグルスの声がもう一度、静かに落ちると、クリーチャーはパチンと指を弾いて姿を消した。
ナーサは伸ばしかけていた手に気づいて、ぎこちなく下ろした。
今さっきそこにいたのは、いつものクリーチャーだった。ナーサを家族のように受け容れてくれた彼だった。
だからこそ、分からなかった。あんなひどい罵り言葉を吐いた理由が。
レグルスはテーブルを回り込み、リリーの側に行くと、深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ない。嫌な思いをさせてしまった」
「気にしなくてよかったのに。クリーチャーには、かえってつらい思いをさせてしまったわね。
……ナーサ、私はマグル出身なの」
「えっ──でも、スネイプ先生は」
ナーサはうまく呑み込めなかった。ルシウスからスネイプ先生は死喰い人だと聞いたことがある。そして、死喰い人は純血主義者で構成されているはずだ。
リリーがスネイプ先生にチラッと目をやると、不服げではあったが頷いた。
「彼は半純血なの。スネイプは例のあの人に古くから仕えていて信頼が篤いから、私のような【穢れた血】との婚姻なんて酔狂を許されたのよ」
スネイプ先生はナーサに鋭い目を向けた。
「断っておくが……彼女は私の知る限り一番才能を持った魔女だ。呪文や魔法薬学で彼女の右に出る者はいない。血筋でリリーを蔑むことは断じて許さん」
先生はナーサが愛する妻を傷つけるに違いないと確信しているようだった。
(……マグル出身)
ナーサはまっさらなテーブルクロスに視線を落とした。シミ一つない、純白のクロス。
クリスマス休暇に自分がマグルに囲まれて育ったことを知った時──彼らから覚えた言葉を話していたと知った時、自分の身体に烙印が刻まれた気がした。いくら洗っても消せない罪人の証。
その時、自己否定から救ってくれたのは『彼』の言葉だった。
──血筋がいいんだから、んな小せぇことで悩むなよ。生まれは変えられねぇ。だけど、それはどんな呪いよりも強ぇんだ。
それは純血主義の言葉のようでいて、ルシウスの言葉とはまるで違って聞こえた。
誰かと比べたのではない。それは、今そこにいる自分自身を認めてもいいのだという赦しだった。
──人は皆、違うの。
不意に頭に蘇る、もう一つの声。
──いいところもあれば、悪いところもある……完璧な人なんか一人もいないの。
いつか母に言われた言葉が、耳の内側でこだまする。
その時は渋々と頷いたけれど、今なら分かる。ホグワーツでは色んな人に会った。型通りの人なんて一人もいなかった。
好きだと思えたら、その人自身を大事にするよう言われた言葉の意味が、この瞬間、心にストンと落ちて響き渡った。
ナーサはテーブルに置いた両手をギュッと握りしめた。
「リリー、マグル出身なんて関係ない。
……まだ深くは知らないけど、あたしはリリーのことが好きです」
「……ありがとう」
審判の時を待つように目を瞑っていたリリーが、潤んだ瞳を何度もまたたく。指先を一、二度目元に当ててから微笑んだ。
スネイプ先生はまだ疑るような目を向けていたが、それ以上何かを言うつもりもないようだった。
その時、手にそっと温かいものが触れるのを感じた。テーブルの下で、レグルスの手がナーサの手に重ねられていた。それはすぐに離れたけれど、彼の目は穏やかに笑んでいた。
レグルスが手ずからティーポットで順々に紅茶を注ぐ。ナーサもそれに倣って茶菓子を取り分けていった。
若干蒸らしすぎた紅茶は苦みが強かったが、甘い菓子にはよく合った。
四人はしばし無言のままだった。食器が立てる僅かな音だけが響いていたが、ややあってレグルスが口を開いた。
「実は、君達を招いた一番の理由は、ホグワーツでの『宴』のことなんだ」
魔法省で詳細を聞かされて以来、レグルスの口から例の集会の話題が出るのは初めてだった。
「ナーサは今のところ参加資格がない。が、じきに参加しなければならない時がくるだろう。
私達の時代は校内で男女が親しくすることに教授陣が目を光らせていたが、今は違う。学生結婚や婚約が推奨されているし、妊娠による休学も公に認められている……そうだね、セブルス?」
スネイプ先生は光のない黒い目をレグルスに向けた後、ティーカップを爪で何度か弾いた。
「嘆かわしいことだがな。時代は大分変わった」
「ナーサは純血主義者にとって格好の相手だろう。困ったことに今はそういった連中ほど高い地位にいて、周りを誤魔化す術に長けている」
「学校にいる間は、君に代わって私が彼女を護れと?」
「君もスリザリン寮監としての立場があるだろう。基本静観でいいが、不用意にナーサが傷つけられることがないよう、よく見てやってほしい」
(おじさまは、やっぱりちゃんと考えていてくださった……闇の帝王のお考えには逆らえなくても、できる限りのことをしようと……)
ナーサは驚きと感謝で胸がいっぱいになり、目頭がじんわりと熱くなるのを感じた。
レグルスは二杯目の紅茶をリリーに注ぎながら続けた。
「そして、リリー、君にはナーサに杖を使わずに魔法を使う術を教えてほしいんだ」
「杖を使わずに……そんなこと、できるんですか?」
魔法使いにとって杖は腕も同然だ。聞き違いかと思ったが、リリーは白い歯を覗かせた。
「トレーニング次第よ。私も時間はかかったけれど、ある程度は杖なしで魔法を制御できるようになったもの」
「杖は勿論あった方がいい。
しかし、不意を突かれた時でも、何かしら抵抗する手段は身につけておくべきだと思ってね」
「あたし、トレーニングしたいです。お願いしてもよろしいんですか?」
思わず両手を祈るように握りしめたナーサに、リリーは柔らかく笑んだ。
「勿論よ。お茶が済んだら早速始めましょう」
「ありがとうございます、リリー。よろしくお願いします」
スネイプ先生の表情は硬かった。紅茶を流し込むように飲むと、カチャンと音を立ててカップを置いた。
「我輩にとってミス・マルフォイは一生徒に過ぎん。特別に何かをするというのは本意ではないのだがね」
その無機質な声音に、ナーサは冷水を浴びせられた気がした。
スネイプ先生はナーサを視界の端から締め出すように、レグルスの方に身を乗り出す。
「制度に則って彼女を護るなら、君自身が婚約するというやり方もあると思うが。ブラック家の当主で、死喰い人としての地位も確立された君が婚約者となれば、誰も危害を加えられないだろう。
婚約すれば、宴の参加は免れる。それに、マルフォイ家から引き取ったことも世間は大いに納得するではないか」
リリーは思い切り顔をしかめ、スネイプ先生の肩を叩いた。
「ちょっと。二人が親子ほど年が離れてるのをお忘れ?」
「婚約という形を取るだけだ。あとは後年適当な理由をつけて破棄すればいい」
けれど、先生の語り口は淡々としていた。
ナーサは眉根を寄せて、しばし考え込んだ。
レグルスとの婚約──あまりにも突飛な提案だったけれど、先生に悪意がないのは分かった。そして、婚約者がいれば参加を免れるということは、逆を言えばそれ以外は強制されるということ。合理的な考えではあった。
血統と条件だけを吟味される場に引きずり出されることに抵抗があったし、レグルスのように信頼の置ける人なら、形だけの婚約に異を唱える必要はないようにも思えた。
けれど、レグルスは首を振って苦笑した。
「婚約はしない……いや、できないんだ。誰が相手であろうと危険にさらす可能性があるから」
「……危険だと? 一体何の危険だ」
先生の眉間の影が一段と濃くなった。詰問するような鋭さに、ナーサも横目でレグルスの様子を窺った。
「それは後ほど共有する」
レグルスと目が合いそうになり、ナーサは思わず顔を背けた。何故か盗み見ていたのを知られたくなかった。
「その『宴』というものの参加に、少なからず危険が伴うことは理解しました。できるだけ早めに自分の身は自分で守れるよう、励みたいと思います」
「いい心掛けだ。一つだけ──君に伝えておこう。
君は血統の最上位、クラス・エースに所属することになるが……そこにはヤックスリー姉弟や、ロウルの次男、クラウチ家の嫡男がいる」
「……ヤックスリー」
出し抜けなスネイプ先生の言葉に、ナーサは背中を思い切り叩かれたように息が詰まった。そのファミリーネームは否応なしに最も温かく、最も深く抉られた記憶を呼び覚ました。
「ケイレブ・ヤックスリーが卒業するまでは何ら問題はなかったが、今後はどう転ぶかは分からん。隙を見せるな」
ナーサが青ざめようと、呼吸が浅くなろうと、先生は気遣うつもりはないようだ。突き放すような声で先を続ける。
ナーサは無意識にテーブルクロスを握りしめていた
「……はい。承知しました」
こわばる口元で何とかそう言うと、レグルスが残り僅かになったカップに紅茶を注いでくれた。湯気を目で追っていると、マカロンを二つナーサの小皿に取り分けながら、落ち着いた声で言う。
「備えは必要だが、心配しすぎないように。
何も役に立てないかもしれないが、それでも……私も君と一緒に考えることはできる。
紅茶を飲んで、お菓子を食べなさい。今は身体の調子を整えることの方が大事だ」
「へぇ。父親みたいなことを言うのね、レグルス。板についてる」
リリーの口調はからかうようだったが、それでいて満足したように笑顔を見せた。