肩車されて、高いところから眺めたガイ・フォークス・ナイト──空を震わせる大きな音に、ナーサは両耳をふさいで身をすくめた。身体越しにそれを感じたのか、父が励ますように脚をさすってくれた。肌寒さと共に恐怖が少しずつ薄らいでいく。
見てごらん、とてもきれいだ。父が優しくそう言った。けれど、おかしい。光が何処にも見えない。
──パパ、はなび、みえないよ。
ぱっちりと目を開いた瞬間、ナーサは夢と現実の境目が分からなくなった。見慣れない、立派な部屋……ここは一体何処だろう? 燭台の明かりが、重厚な家具や厚手のカーテンを映しだした。壁際にある分厚い本がぎっしりと詰まった高い本棚。
すぐ側で緊張した顔を見合わせているのは、母と黒髪の男──レグルスだ。そうだ、父は、もういない。ナーサと母を置いて、遠いところへ行ってしまった。
ドンッ、ドンッ──打ち上げ花火のような音は、まだ続いている。
「……いまの、なーに?」
レグルスが部屋を飛びだしていくのと、母に抱き上げられたのはほとんど同時だった。いつもなら何でも噛み砕いて説明してくれる母が、震える手できつく抱きしめてくる。それだけで、何かただならないことが起こっていることは分かった。
いつの間にか不気味な音が絶えていた。
バチンッ! 電気のスイッチを動かしたような音が響き、不思議な生き物が現れた。背丈はナーサと同じくらいだったが、老人のようにしわだらけ──白雪姫の絵本に出てくる小人みたいだ。けれど、ほとんど裸の格好に尖った大きな耳、豚のような大きな鼻は不気味だ。ナーサは息を呑んで、母の胸に顔をうずめた。
「お久しぶりでございます、ジネヴラお嬢さま」
「……クリーチャー、私を覚えているの?」
「もちろんでございます。すぐにお嬢さまと気づかず申し訳ありません」
抱きしめる手の力が、僅かに緩んだ。そろりと覗き見た小人は、母とナーサに向かって丁寧なお辞儀をした。
「レグルス様からお二人を護るよう仰せつかっております。こちらへ」
「クリーチャー……下にいるのはルシウスなの?」
「さようでございます。レグルス様が話をつけてくださいます……お急ぎを」
廊下に出ると、先導するクリーチャーは上へ上へと向かっていった。途中何度か振り返り、手から光るモヤのようなものを振りまいていく。
この家は何処まで広いんだろう。壁がぴったり隣合わせになった家並み。入口が分かれていたから、てっきり別々の家だと思っていたのに、中は全て繋がっていたのだろうか? そうでなければ、この広さに説明がつかない。
手すりに身体を預けて、母が立ち止まった。疲れたのだろうかと、ナーサは顔を覗き込んだ。その途端、母は今にも泣きだしそうに見えた。
「……ナーサ。ごめんね」
繋いだ手を離すと、母はくるりと背を向けた。
「ママッ、どこいくの?」
「いけません、ジネヴラお嬢様!」
いつの間にか母の手には、小ぶりの棒が握られていた。クリーチャーの叫びと同時に、縄のような光が母めがけて飛んでいった。光が重なる前に、母は握りしめた棒を素早く振りかざす。光の縄が無数に千切れ、きらきら光る砂のように散っていった。
「ルシウスは長年連れ添った妻も、血を分けた息子も切り捨てた……知ってるでしょう。私が行かなければ、おじさまが──お願い、行かせてっ」
「いいえ! いいえ! レグルス様はお二人を優先して護るよう、クリーチャーに命じたのです! レグルス様が、命を、落とされようと……」
クリーチャーの見開いた目からは涙がほとばしっていた。母は霧のように辺りを覆いつくした光るモヤの切れ間を探すように、右往左往している。肩で息をしながら、声を張り上げた。
「クリーチャー!
ナルシッサ・ブラックの子であるドラコ・マルフォイの妻、ジネヴラが命じます。ドラコが最期の時まで身を案じていた、その子──ナーサを護りなさい。私がレグルスおじさまを、あなたの元に返すまで」
クリーチャーの身体がビクンと跳ね上がり、直立不動の姿勢を取った。光るモヤがほんの僅かに薄れたと思うと、すぐさま母は身を翻し、一度も振り返ることなく駆けていった。
「あぁァ……クリーチャーは悪い子……悪い子! レグルス様、どうか、お赦しください……!」
クリーチャーは頭を掻きむしりながら、壁に何度も頭突きを繰り返した。彼の額にはどす黒い紫色の斑点が広がり、血が滲んでいた。
「……やめて、やめて! やめてったら!」
ナーサはびっくりして、クリーチャーを後ろから押さえつけようとした。だが、体格は同じくらいでも、渾身の力で自らを罰するクリーチャーを止めることはできなかった。
考えるよりも先に、ナーサは壁の前に手を差し入れた。次の瞬間、勢いよく振り下ろされたクリーチャーの頭に押され、手の甲が壁に叩きつけられた……身体の内側から生じる音に一瞬遅れて、鋭い痛みが走った。
「イッ……たぁ、い……」
「ナ、ナーサお嬢さま……手が!」
にじんだ視界の中に、血まみれのクリーチャーが立ち尽くしていた。
「い、たかったね。なかないで……」
心配かけまいと涙を我慢しながらそう言うと、涙と鼻水で溺れそうなクリーチャーはおいおいと声を上げて倒れ伏した。
「……ナ、ナーサお嬢さま、クリーチャーなぞを庇って……クリーチャーは屋敷しもべ妖精、失格なのです……命令を、二度も破りました……」
「なかないよ、クリーチャー……だいじょうぶ……」
手は、火を押しつけられているようにジンジンと痛んだが、自傷行為をやめさせることができて安堵した。怪我をした時に慰めてくれた母の姿を思いだして、ナーサはクリーチャーの身体を抱きしめ、骨ばった背中を軽く叩いてやった。
そうこうしているうちに、段々と痛みと疲労が波のように押し寄せてきて、ナーサは重たいまぶたを閉じた。
*
もう一度目を開けると、辺りは暗かった。冷たい風が頬を撫で、木々のざわめきが大きくなった。いつの間に外に出ていたのだろう。眠る前に痛めた手を動かしてみたが、あれほどの痛みが跡形もなく消えていた。
けれど、触れ合う身体の温かみが心地いい。ナーサは母の背中に両手を回した。
「……ママ、よかった。かえってきたの」
母は何も答えなかった。ナーサは小首を傾げ、ふと目線をずらした。
「──パパッ! パパ!」
飛び下りるように母の腕を逃れると、死んだはずの父に思いきり抱きついた。
「パパ、しんじゃうユメをみたの。ママもナーサも、いっぱいないたの……よかった、こっちがホントなんだ……」
「ナーサ……その人は、おじいさま……パパのお父さまよ」
「えっ?」
顔を上げて、ナーサはじっと見つめた。
幼いナーサには大人の年齢がよく分からない。けれど、確かに父よりもずっと年上のようだ。青灰色の目は父よりも淡く、鋭い。牧師のような黒づくめの格好は、父の作業着姿とはまるで違って、なおさら怖かった。ローブを鷲掴みにしたままだったことに気づき、ナーサは慌てて両手を引っ込めた。
「ごめんなさい……はじめまして、おじいさま」
祖父の口元が僅かに緩んだ。
「はじめまして、ナーサ……だったな。私はルシウス。お前の祖父だ」
抑揚のない滑らかな話し方も、父によく似ている。抱き上げられたナーサは無邪気に笑った。
「ナーサ。おじいさまに迷惑をかけちゃ、駄目。ママの方にいらっしゃい!」
ナーサは驚いた。いつも優しい物言いの母が、いきなり声を荒らげたのだ。反射的に母の方へと両手を伸ばすと、祖父が身体を遠ざける。
「このままでいい」
「この子は私の娘です。返して!」
今にも泣きだしそうな切羽詰まった叫びだ。身をすくめるナーサの腕を撫でながら、祖父はつぶやいた。
「少しは落ち着け、ジネヴラ。どんな暮らしをすればこうまで……折角、レディとして躾けてやった十数年が水の泡となってしまった」
初めて会った祖父は何処といって嫌な感じはしない。近寄りがたいところはあっても、ナーサはすでに祖父のことが好きになっていた。
母は肩で息をしていたが、やがて悔しそうに両手を下ろした。すると、祖父は満足げに笑った。
「ナーサ、今日からお前達はこの屋敷に住むことになった」
「おじいさまの、おやしき?」
祖父は牢獄のように巨大な門扉の向こうを指した。月を背に、山のような影が見える。庭を通り、建物に近づいていくと、あまりの大きさに興奮の声を上げた。
「ママ、おしろみたい。ホントにこのおうちにすめるの? いつまで?」
「これから、ずっとだ。ああ……無論、十一歳になれば学校に通わなくてはならないが。それでも休暇の時には帰ってくる。この先、この屋敷がお前達の家になる」
「もう、おひっこし、しなくていいの? ともだちができても、サヨナラしなくてもいいのっ?」
引っ越しのたびに、ナーサはいつも寂しい思いをしてきた。発つ日はいつも突然で、ろくに別れを告げることもできなかった。根ごと引き抜かれて無理やり遠い土地に植え替えられる花のように、いつも心が痛んだ。
「この屋敷は広い。退屈することはなかろう。
これまでの暮らしの埋め合わせになどならないが、衣服でも本でも玩具でも……お前の望みは何でも叶えてやろう──お前はマルフォイ家の、ただ一人の跡取りなのだから」
ナーサは頬を紅潮させ、何も言えなくなった。昂る気持ちをそのまま伝えたくて、父にしていたように頬にキスをした。祖父の目尻のしわが深くなり、母は蒼白な顔を引き攣らせた。
「ママ。また、レグルスおじさまにも、あえる?」
「レグルスのところに行きたいのかね、ナーサ?」
答えたのは、母ではなく祖父だった
「いきたい。さっきレグルスおじさまとクリーチャーにサヨナラのあいさつ、してないの」
優しかったレグルスに、この夢のような話を聞かせたかった。それにクリーチャーは、もう泣いていないだろうか……。
祖父は冷ややかな笑みを浮かべた。
「レグルスはお前が会いにいっても喜ばないだろう」
「どうして?」
「レグルスはずっと屋敷に閉じこもり、誰にも会おうとしない。わざわざ訪ねても、門前払いを食わされるのが関の山だ。そっとしておくのが一番いい」
「でも」と言いかけたが、祖父の目は先ほどとは打って変わって厳しい。ナーサが口をつぐむと、祖父の目はすぐに和らいだ。理由は分からないが、祖父はレグルスを嫌っている。直感的にそう感じた。
豪華絢爛な屋敷に入ると、すぐに専用の部屋を与えられた。白い洒落た家具や、落ち着いた花柄の壁紙。壁に掛けられた絵画。絨毯は裸足で歩いても痛くないと思わせるほど厚く、足音をも吸いこんだ。
ふわふわの清潔な寝間着を用意され、すっかり満たされたところで、ふと足りないものに気がついた。母だ。
「ママ、どこ? ママ、ママ!」
「奥さまは隣の部屋でございます、お嬢さま。もう遅い時間でございます。御用はまた明日にされるがよろしいかと」
取り乱すナーサを前に、執事は慇懃に告げ、出ていこうとする。ドアを閉められる前に、ナーサは部屋を飛びだした。執事が慌てふためくのも気にせず、ナーサは力いっぱい隣の部屋のドアを叩いた。
「ママ、ママッ……!」
祖父の屋敷は広く、立派だった。けれど、一人にされるのは怖い。これまで、いつも母の腕の中で安心して眠りに就いていたのだ。離れることなんてできない。
なかなか出てこない母に、ナーサは声を上げて泣き始めた。
「ママー……やだ。おいてっちゃ、やァ……!」
「お嬢さま、おやめください! どうか、お静かに……!」
執事はナーサを身体ごと抱き上げて、無理やりドアから引き離そうとした。
その時、カチリという音を立ててドアがゆっくりと開いた。白い袖口が見えたと思うと、母がそっと顔を覗かせる。
「その子から手を離してください」
きっぱりと命じられ、執事の頬が赤くなった。だが、すぐに言われたとおりにナーサを降ろした。
「奥さま。しかし、ご当主さまからお嬢さまを一人で寝かせるよう仰せつかっております」
「ルシウスには私から伝えます。もう下がって……彼には何も伝える必要はありません」
執事が迷った挙句に背中を見せると、ジニーはようやくドアの陰から姿を見せた。
ふんわりとカールさせた赤毛に、いつもよりもはっきりとした顔立ち。豪奢なレース飾りの施された白い寝間着姿はドレスのように華やかで、ナーサは泣くのも忘れて見入ってしまった。
「ナーサ、寂しかったね……ごめんね。知らない場所で一人にして」
「ママ、おひめさまみたい。きれい……」
ずっと母はきれいな人だと思っていたが、まるで絵本に出てくる姫君そのものだ。すると、母も唇を綻ばせた。
「それなら、ナーサもお姫さまね。とっても可愛い。パパとママの愛しい子……」
ギュッと抱きしめられたナーサは、胸いっぱいに母の匂いを吸いこんだ。柔らかい腕に、胸。もう記憶もない赤ん坊の頃も、こうして包まれていたのだろうか。
そのままベッドまで運ばれ、そっと下ろされた。布団をかけられる気配を感じ、目を閉じた。けれど、予想に反して足音が離れていく。
ナーサは布団を蹴って飛び起きた。
「ママ、やだ。いっしょにいてっ。おいてかないで!」
「ナーサは大きいから、もう一人でも大丈夫……ちゃんと眠れるよ」
「やだぁ、ママといっしょがいいの……!」
ナーサは母に飛びつき、力を込めた。けれど、母は指を一つずつ優しく剥がしていく。母はしゃがんで、ナーサと目線を合わせた。
「ママはね、これから……毎晩、おじいさまと一緒に過ごすの。おじいさまは、ずっと一人で淋しい想いをしてきたから、ね……」
「あたしだって、さみしい……」
「……ごめんね、ナーサ。ママはあなたと、パパのことをいつも愛してる。誰よりも……ずっと」
そうかすれた声でつぶやいたかと思うと、母の涙が頬を伝った。