夜明けを迎えたばかりの校内は驚くほど静かで、うるさいほどに足音が反響する。
ナーサは忍び足で寮を抜け出し、ふくろう小屋のある西棟へと向かっていた。
長い回廊を通り抜け、胸壁に囲まれた屋外に出る頃には、紫がかっていた空色が薄れ、雲が橙に変わりつつある。
まだ昨夜の処罰の名残が、冷えた指先に残っている気がした。
またトラブルになったら──そう思って、休日の早朝を狙ったはずだった。思った通り、広い校内の何処にも人の気配はない。けれど、その静けさが、かえって落ち着かなかった。
円柱状の塔の螺旋階段に足を踏み出した時、上階から何かが聞こえた気がして耳を澄ませた。
空耳ではない。この階段は自分のいる前後の一部分しか見通せないが、上の方から足音が近づいてきている。
ここは学校だ。何かあるはずがない。
けれど──ナーサはポケットから杖を取り出した。身体の陰に隠し持つと、息を殺し、なるべく音を立てないよう慎重に階段を上っていった。
ややあって、壁の陰から姿を見せたのはアッシュ・クラウチだった。目が合うと同時に、二人は足を止めた。
正体が分かった途端、危うく杖を取り落としそうになった。
「おはようございます、アッシュ」
「……ナーサ。随分早起きだな」
けれど、意外なことにアッシュの方も目を見開いたまま、ナーサに釘付けになっている。
まるで──何か大切なものを奪われたかのように。
「……その、髪」
消え入りそうな呟きに、ナーサは少し顔を赤らめ、下ろしたままの髪に手をやる。
いつものように結っていればよかった。
「あの……髪が、何か?」
両手で何度か撫でてみたが、特に変わったところはなかった。
アッシュは軽く咳払いをした。
「いや、いつもとは大分印象が違うから……驚いただけだ。
それより一人で早朝にうろつくのは危ない。次は誰かと……」
そう言いかけ、彼は言葉を呑み込んだように見えた。
ナーサは小さく微笑んだ。
「ご忠告ありがとうございます。
……あの、もしお時間があれば、ふくろう小屋までお付き合いいただけませんか?」
「ああ。かまわない」
先に上に行くように促すアッシュに、ナーサは頬を緩めた。
「ありがとうございます。
やっぱり学年が違うから、あまり校内で会うことはないですね。たまに図書館ではお見かけしましたが……お元気でしたか?」
「特に変わりはない。
……君の方こそ、顔色がよくない。ちゃんと食事は摂っているのか? 最近は大広間で見かけない」
ナーサは少し俯いた。大勢の視線に晒されるのが苦痛で、パンを一つ手に取って去ることが増えていた。
誰にも知られていないと思ったのに。
塔の最上階には、さらに梯子が掛けられている。丸い穴をくぐって塔のてっぺんに出ると、そこがふくろう小屋だった。
石造りのそこは天井こそあるものの、四方の柱と所々架けられた木製の梁だけで構成されており、さながら巨大な檻だ。優に百羽は越えるふくろう達が所狭しと留まっている。
ナーサがきょろきょろしていると、茶色い毛並みに白いまだら模様の入ったふくろうが近くに舞い降りてきた。レグルスの手紙を届けてくれたモリフクロウだ。
「レグルスおじさまへの返事を届けてくれる?」
屈んで声をかけると、ホーと一声鳴く。脚に手紙を括りつけるや否や、モリフクロウは羽音を立ててまっしぐらに飛んでいった。
「お待たせしました」
片隅の柱の前で立ち尽くしていたアッシュに声をかける。真横から射し込む朝日を受けて、彼の琥珀色の瞳がきらめいた。
その輝きは、あの金色の埃が舞う図書館を思い出させた。黒塗りの歴史書の延長回数について教えてくれた、あの日の彼を。
コクリと小さく喉が鳴った。不意に胸に浮かび上がった疑問を、何とか呑み下そうと努めた。
けれど──。
「……あの。折り入って、お訊きしたいことがあるんですが」
「──それは、ここで話すべきことなのか?」
先を行くアッシュが振り返らずに言った。その声は僅かながら硬かった。
ナーサは冷えた喉を撫でながら、そっと続けた。
「まだ、お時間はありますか?
できれば、あなたと二人だけでお話しできればと思って」
出入り口まで来たところで、アッシュが不意に足を止めて振り返った。無意識に身体が跳ね上がった。
「……君さえよければ、このまま湖の方に行ってみないか? この時間なら、きっと誰もいない」
ナーサは目を瞬き、口元を綻ばせた。
「湖──是非、ご一緒したいです」
澄んだ空には雲一つない。朝露でそこらに生い茂った草がきらきらと輝いていた。
城門を出て、緩やかな坂道を下っていくと湖が見えてきた。
城のシルエットも大分小さくなった。
ナーサは辺りを見回したが、人の気配はない。桟橋に繋ぎ止められたボートが、静かに揺れている以外に動きはない。
「生徒だけでボートに乗るのは校則違反ですか?」
グリンデローがいるから危険だと、遊泳は禁止されていた。アッシュは静かに首を振った。
「大丈夫なはずだ。乗ってみようか」
一番奥に止めてあるボートに近づいていき、片足を跨がせた。慎重に船頭側に移動すると、ナーサに向かって手を差し出す。
男子の大きな手──一年生の時にも、触れたことがあった。少し強引で、けれど守ろうとしてくれた熱い手。
けれど、重ねたアッシュの手はひんやりと冷たい。そのことに安心し、そして何故か少しだけ残念に思った。
爪先からそっとボートに下りてみると、思いの外頼りない足場だった。握った手に思わず力が入ってしまう。
「ゆっくり座ってくれ。ロープを放すから」
アッシュが杖を向けると、ともづなが解かれ、ボートは緩やかに湖面を滑り出した。風が穏やかだが、オールを漕がなくても動いている。
ボートは桟橋を離れて、城の裏手の方へ回っていく。赤みがかった黄色に染まる城のシルエットが、崖下の湖面にも映っていて鏡のようだった。
身を乗りだしかけ、ようやく繋いだままだった手にナーサは気がついた。
頬が熱いのは、朝陽の色に混ざって分からない。けれど、手をかざして城を見上げたのは、ただ眩しいからだけではなかった。
「お時間をいただいて、ありがとうございます。
前に、図書館で教えてもらった『あの歴史書』のことです……」
アッシュは静かに見つめ返してきた。ナーサは短く息を吐いた。
「あたしのルームメイトが、夏休みに消えてしまいました。彼女は……あたしの調べ物に付き合ってくれていたんです。アッシュは、彼女を……知っていましたか?」
アッシュは目を伏せ、小さく呟いた。
「ああ。知っていた」
「ジャニスは……彼女はどうなったんですか」
ナーサは懐中時計を痛いほどに握りしめ、最悪の宣告を待った。
「無事だ」
ナーサは顔を上げた。張り詰めていた身体が、ほんの僅かに緩んだ。
息を吐こうとした次の瞬間。
「ただ、きっともう会うことはないだろう。
彼女の父親も、アズカバンから戻れない。その調査の発端が……君が調べていた名前だ」
ドクン──身体の内側で、血が逆流する音を聞いた。呼吸の仕方を忘れてしまったように、息が喉を通らない。
「『アルバス・ダンブルドア』──その名を辿った時点で、あの一家は『線を越えた』と判断された」
アッシュは事務的に続けた。まるで誰かに報告するかのように。
「……だから、君に教えた。検閲のルールを」
けれど、最後にそっと言い添えた。ほんの僅かの感情の揺らぎを託すかのように。
ナーサは頭を抱えて、髪をかき乱した。
「『あの名前』を教えたのは、あたしなのに……」
「君は制度が誇る『純血の結晶』だ。だから残された。
彼女は……そうではなかった」
舌が縛られたように、ナーサは何も言えなくなってしまった。
アッシュは全てを知っていた。それでも、守らなかった……いや、守れなかった。そのことに怒りは湧かなかった。
九と四分の三番線プラットホームで見た、アッシュと父親のクラウチ氏。アッシュの首には見えない鎖がはめられていた。
逆らうという選択肢はそもそも存在していない。個が、所属する家に尽くすのは当然だと──ナーサ自身、それを身をもって知っていたから。
「ジャニスのこと、教えてくれてありがとうございます。
彼女を巻き込んだのは、あたしの選択です。
もし、アッシュが何かしらの負い目を持っているなら、その必要はありません」
アッシュは目を見開き、今、初めてナーサに会ったかのような顔をした。
「赦されるとは……思っていなかった」
「赦しじゃありません。あなたの責任ではないんですから。
あたし……人と深く付き合うのが怖かったんです。
でも、ジャニスは……一番最初に手を差し伸べてくれた。それは、たまたま隣にいたからだって言い聞かせてたけど、違った。
……彼女は、あたしの『友達』でした」
そして、もう一人──失うことが怖すぎて、その関係に名前をつけることも、名前で呼ぶこともできなかった人がいた。
ジャニスとは違って、会うことはできる。
けれど、もう二度と近づくことはない。心を預けて、笑い合うこともない。
「……もう、失ってから気づくのは嫌です」
ナーサは震える両手を見下ろし、強く握りしめる。
「あたし、あなたがあの組分けの儀で、倒れた子にたった一人駆け寄った時──思っているだけで、何も行動に移せなかった臆病な自分に気付かされました。
年も離れているし、変だと思われるかもしれません。
それでも、あたし……あなたと『友達』になりたい。あの時、動けなかった自分のままでいたくないから」
ボートの進みがゆっくりになった。杖を下ろしたアッシュは眉をひそめている。
「僕に近づくメリットはない……分かるだろう?
僕はただの歯車なんだ。望む、望むまいと……自由にはなれない」
「友達になるのにメリットが必要とは思いません。
考えが違っても相手を尊重し、力になりたいと思えるか……それが大事だと思います」
アッシュはすぐには答えなかった。
凍りついたように微動だにせず、その瞳にだけ激しい揺らぎがあった。砂漠で彷徨い歩いて倒れる寸前に、一匙の水を差し出された──そんな渇望と戦うかのように。
やがて、ほんの僅かに頷いた。後悔と安堵が混じり合った複雑な顔で。
それは、ナーサが初めて自分で『友達』を選んだ瞬間だった。