──お腹が空いた。
幼い少女の呟きは、街の雑踏にかき消されそうなほど小さかった。けれど、若い母親の耳にはしっかりと届いたのだろう。途方に暮れた顔をして少女に目をやる。
見るからに貧しい親子だ。着古した衣類は擦りきれそうなほど薄い。少女の方は肩幅の合わないガバガバの服を着ていて、伸びた手足は棒のように細い。
足を止め、立ち尽くす少女の前に、母親は屈んだ。困らせてしまったことを悔やんでいるのか、少女はうなだれている。
──ごめんね。
娘を抱き締め、若い母親は何度もそう繰り返した。
──何もできないママで、本当にごめんなさい。
行き交う人は多いのに、関わり合いになりたくないとばかりに皆、親子を避けていく。中には心配そうに振り返る者もあったが、声をかけるには至らない。
ナーサは呆然とその光景を眺めていた。親子の顔にはしかと見覚えがあった。それも、そのはず。
その親子は他でもない、自分と母だった。
今よりずっと若い母の顔はほっそりとしていて、目ばかりが大きく爛々と輝いていた。
母はおもむろに幼いナーサを抱き上げ、歩きだした。細い体には負担が大きいのだろう。少し歩いては立ち止まり、また思い出したように足を動かすといった風だ。
やがて、幼いナーサは母に抱かれながら眠ってしまった。
母は何度かずり落ちそうになった娘を抱き直しながら、足を止めては歩き続ける。
少し離れたところから見ているナーサは、今この場に自分の身体がないことに気がついた。追いかけようとしなくても視線は一定の距離を保って、二人についていく。
(これ、パパが亡くなった後の……)
魔法使いには姿あらわし、フルーネットワーク、ポートキーなど様々な移動手段があり、距離はあってないようなものに等しい。
けれど、両親は魔法界との関わりを一切絶っていたらしい。六歳の子どもを抱えて、食べるものにも事欠く状況で、どうやってレグルスのいるロンドンまで旅したのだろう。
乾いた母の目には涙の陰もない。けれど、全身から悲痛な叫びが発せられているように思えた。
どれだけの時間が過ぎたのだろうか。
ある商店街に差しかかったところで、はたと母の足が止まった。その目は遠くに見える看板に釘づけになっている。
──貴金属買取。
幼いナーサを片手だけで抱き直すと、母は左手を掲げる。薬指にはめた指輪は、縁取りがされている以外は取り立てて言うことのないシンプルなものだった。
母の目が、何度も指輪と看板とを行き来する。
そして、唇を噛みしめ、店の方へと向かっていく。たった一つの装身具を──父から贈られた指輪を手放すために。
(やめて。そんなの駄目……!)
しかし、声は出ない。
急速にナーサの見ている世界が遠ざかり、どんどん色あせていく。背後の大渦に巻き込まれるようにグルグルと回転しながら。
*
「全身傷だらけだったけど、見た目は大分よくなったね。よかった」
小声で誰かが呟いた。そっと額を撫でられる感触。
触られたということは、身体がある。これはさっきまでとは違う──そう思った途端、自分の呼気を感じた。けれど、重い何かに圧し掛かられているように息苦しい。
「でも、まだ一度も目を開けてないでしょ……大丈夫かな」
「クラウチがいて本当によかった。他のスリザリンの奴らなら、ナーサを助けようとしなかったかも。
……あっ! ナーサ、私達が分かる?」
自分を覗き込んでいる二つの顔を順に見て、ゆっくりとまばたきをした。そうすると、ぼやけた輪郭が少しずつ鮮明になっていく。
西陽を受けて、ベッド周りの白いカーテンが橙色に染まっている。
「アデリナ……リンジー……」
何処にも力が入らず、仰向けのままで辺りを見回した。
高い天井。カーテンに覆われた寝台は固く、身じろぎするとパイプが軋む音がする。柔らかな寮のベッドではない。
僅かに首をもたげると、土ぼこりにまみれた真紅のユニフォームが見えた。
(クィディッチ。試合……)
二人は普段着で、クィディッチの時とは違って髪も下ろしている。瞬時に試合中、観客席に激突したことを思い出した。
「……ごめんなさい。試合、負けたんだ。あたしのせいで」
ナーサは天井を見つめたまま、低く呟いた。
どうして、あの時、箒の柄を放してしまったんだろう。目の奥がチクチクと痛い。自分の不甲斐なさが情けなく、チームメイト達に申し訳なかった。
「練習試合だから気にしないで! 体調が悪い中、よく頑張ったよ」
アデリナがナーサの側にしゃがみ込み、慌てたように続けた。
「あんた、右腕と肩を粉砕骨折して、半日も目を覚まさなかったんだ。全身傷だらけで、ひどい有様だった……死ぬんじゃないかって思った」
「スリザリンのアシュタロス・クラウチが応急処置してくれたんだよ。ルーク・ディゴリーが試合をストップしてアボット先生を連れてきてくれたけど……クラウチがいなきゃ、もしかしたら……」
リンジーは言葉を切り、目の端をそっと拭った。いつもよりも赤く、僅かに腫れたまぶたを見た途端、甘い痛みが胸に広がるのを感じた。
それに、アッシュ──気を失う寸前に聞いた声を思い出した。あれは彼の声だったのだ。
(スリザリン生が大勢いたのに、それでも助けてくれたんだ)
「クィディッチで優勝したいのは山々だけど、あんたの命を犠牲にしてまで勝ちたいってわけじゃない。早く怪我を治して、次の試合に備えてよ!」
アデリナが怒ったようにそう言うと、ナーサは頬を緩めた。
「うん。ありがとう、二人共……」
だしぬけに、お腹の奥の方でギュッと握りつぶされるような痛みを覚えた。内臓を絞られているような痛みに、思わず声が漏れる。
リンジーが不安げに瞬きをする。
「痛むの? 傷は治ってるし、粉々になった骨は全部取り除いてから再形成するって言ってたはずなのに」
「お腹……が、痛くて……」
右手が全く動かないのは骨が抜き取られているからなのだと分かった。確かに粉砕骨折したという割に、腕に痛みはない。患部に痛みがない分、痛覚が腹部に集中しているようだ。
試合の前に痛んだのも腹部だった。こんなに苦しいなんて、何かの病気なのだろうか。
下着が汗でじっとりと濡れているようだ。ひたりと貼りついた感触が気持ち悪い。
何気なく足を動かした瞬間、奥から熱いものがほとばしる。子どもの頃の粗相を連想し、ギョッとして布団をめくったナーサに、二人は顔を見合わせた。
「ねえ、ナーサ。もしかして、あれじゃない?」
「あれ……?」
青ざめ、震える口はおうむ返しするのがやっとだった。
陰になった部分がやけに色濃い。動く左手を太ももの内側にやると、そこはじっとりと濡れていた。
そろそろと出した手には赤茶色の汚れがついている。むせ返るような鉄の臭いが吐き気を誘った。視界が急激に狭まり、くぐもった声しか出せない。
迷惑をかけまいとする心とは裏腹に、身体が言うことを聞いてくれない。
その時、カーテンが開く軽やかな音がした。続いて、ふわりと柔らかな花の香りが漂う。血の臭いを清めるような優しい香りだ。
そろりと顔を上げると、カーテンを引き寄せたリリーが微笑んでいるのが見えた。
「久しぶりね、ナーサ」
まさか、また夢なのではないかと思ったが、確かに自分に向けられた言葉だった。
中に入ろうとするのを阻止しようというのか、素早くアデリナが立ち塞がる。
「失礼ですが、どなたですか?」
つっけんどんな声は、普段のアデリナとはまるで違う。
リンジーもナーサの姿を隠すようにアデリナの隣に並んだ。
警戒心をあらわにする二人にも、リリーは親しみを込めた笑みを浮かべたままだ。
「私は、リリー・ポッター」
(ポッター?)
スネイプの姓を出さないための偽名だろうか。
リリーは二人に会釈をして、続けた。
「ナーサの後見人、レグルス・ブラックの友人で、ナーサとも親しくしているの。
少しだけ二人で話させてほしいのだけど、お願いできる?」
「……ごめん。リリーと、二人にしてくれる?」
絞りだした声は掠れていたが、何とか届いたようだ。
二人はあまり気が進まないようだったが、外にいるから何かあったら呼ぶよう言って出ていった。
リリーはカーテンをきっちりと閉め直し、ローブのポケットから小瓶を出した。軽く傾け、血を煮詰めたようにてらてらと光る粒を一つ取り出す。それから背を屈めて、ナーサの顔を覗き込んだ。
「これを飲んで。月のものの痛み止めだから」
色や大きさ、浅い半球形を合わせたような形といい、てんとう虫のようだった。
リリーが口元まで持ってきてくれたので、少しためらいつつも口を開ける。
舌に乗せた途端、粒は液体に姿を変えた。薬の苦味を予期していたが、広がったのは果実のような甘味と酸味で、水がなくても楽に飲みこめる。
そして、驚くことにほんの数秒で腹部の痛みが和らいだ。
「すごい……ありがとうございます。もう楽になりました」
「よかった。手を見せて──スコージファイ」
呟きと同時に指先の血が溶けるようになくなり、血の臭いも消えた。
「布団もめくってもいい?」
「リリー、あの」
血の汚れを見られるのが恥ずかしく、ナーサは真っ赤になって口ごもった。自分で処理できるものなら、自分で何とかしたかった。
リリーは万事心得たように優しく告げる。
「大丈夫。初めてなんだから自分で処理できないのは当たり前よ。それに、今は利き手を怪我しているんだもの。任せて」
布団を足側から軽くめくられたかと思うと、両足の間がサラリとしたものに覆われた。まだ血が出続けているのは感じたが、濡れる不快感がない。
リリーは布団を元通りにすると、枕元に置かれたタオルで先程まで履いていた下着を包んだ。
「これから月に一度こうして血が流れるの。この期間は、さっきの痛み止めを飲んで、できるだけゆったりと過ごすといいわ。慣れるまで魔力が不安定になりやすいの。
あとは下着ね。さっき交換した下着なら血が漏れることはないし、汚れはスコージファイできれいにできるから。
もしうまくできなくても、ホグワーツにいる屋敷しもべ達が力を貸してくれるから心配しないで」
「リリー、色々ありがとうございます。
でも……どうしてここにいるんですか?」
「レグルスから怪我のことを聞いて、跳んできたの。
本当は彼が自分で来たかったんでしょうけれど、これ以上あなたを追い詰められないと自重したの。
……学期始めのこと、スネイプからも聞いていたわ。とてもつらかったわね、ナーサ」
丸椅子に掛けたリリーの声は寄り添うようだった。そっと頭を撫でられ、思わずナーサは涙をこぼしそうになる。
誰とも口を利けず、居場所がなかった日々。
けれど、悲しい時や、つらい時よりも、こうして慰められた時の方が涙を抑えるのは難しい。
深呼吸をし、涙の発作が治まるのを待ってからナーサは言った。
「でも……友達ができました。リリーが言ってくれた通り」
「さっきの女の子達ね」
「はい。でも、もう一人──アッシュ。アシュタロス・クラウチという人とも」
リリーはきれいなアーモンド形の目を見開いた。ナーサを見下ろしたまま、顔が固まっている。
「……どんな子なの?」
一呼吸遅れて笑いかけたリリーに、ナーサは目を瞬いた。
「レグルスおじさまと、本当によく似ているんです。まるで、おじさまの学生時代みたいに。
あたしがグリフィンドールに選ばれたのは、きっと彼の影響です。とても勇敢な人です……自分のすべきことを貫ける人。あたしの怪我の治療もしてくれたそうで……彼がいなければ危なかったかもしれないって聞きました」
リリーはそっと目を伏せた。
「そう……とても、いい子に育ったのね。
あの子の母親とは古い知り合いだったの。レグルスの従姉で……勇気ある人だった」
言葉を切ったリリーの顔は悲しみに満ちていた。
ナーサは胸のざわつきに押されて、しばしの間、息をするのも忘れていた。
「……アッシュのお母さん、亡くなったんですか?」
「いいえ。でも、もしかしたら死ぬよりも、もっとひどいことかもしれない」
リリーは眉根を寄せ、ナーサの方に椅子を引き寄せた。言葉を選びながら、ゆっくりと話しだす。
「彼女──アンドロメダは、再婚なの。彼女自身が望んだものじゃなくて……娘を守るためのものだった」
夏休みに会った、クラウチ氏のことを思い出した。笑っていても硬い目元の、底の知れないアッシュの父親。
再婚を強要された、と──そういうことだろうか。
呆然とするナーサに、リリーは続ける。
「彼女は出産の時に、精神が病んでしまって……それから、ずっと聖マンゴに入院している。そう、聞いたわ」
「入院? アッシュが生まれてから、ずっと……?」
頷くリリーに、ナーサは言葉が出てこなくなった。
ナーサが父親を亡くしたのは六歳の時。それでも思い出が風化していくことを止められないのに、アッシュには母親の記憶がそもそもなかった。
サワサワと風が胸を駆け抜けた。身体の内側を、枯れ葉が転がるような虚しい音を聞いた気がした。
「アッシュのお姉さまは……今、どちらに? 彼との仲は、どうなんでしょうか」
一縷の望みに縋るように尋ねたが、リリーは首を振った。
「弟とは年が離れているし、アンドロメダの入院と同時に、クラウチ家を出たと聞いている。
……母親を奪われたように感じた子が、生まれたばかりの弟を愛せなかったとしても、私は責められない。
愛情がなかったんじゃない。ただ……姉でいるには、あまりにも傷が深すぎたんだと思うの」
ナーサは押し黙った。
確かにそうかもしれない。けれど、もし家族の誰からも愛されずに育ったのだとしたら──けれど、それはリリーに言っても仕方がない。
だから、胸を焦がすような憤りはなんとか呑み込んで、違うことを口にした。
「……さっき、ポッターって言いましたね」
「ええ、以前の名前なの。私もスネイプとは再婚でね。
……昔、私にも子どもがいたのよ。ハリーといってね、とても可愛い子だった。初めて寝返りを打った時。ママと呼んでくれた時。よちよち歩いた時……全部、今でも目に焼きついている」
リリーはローブに隠れた首元からネックレスを外し、ナーサに見せた。
蔦の模様が彫り込まれた卵型のペンダントはロケットになっていて、中には赤ん坊の写真が入っていた。
漆黒のふさふさとした髪の子だった。遊んでもらえると思っているのか、上機嫌な笑いを浮かべ、ぷくぷくした両手を伸ばしてくる。今にもキャッキャと楽しげな声が聞こえてきそうだ。
「可愛い赤ちゃん……リリーと同じ目をしているんですね」
リリーはロケットを閉じると、両手で包み込むように胸に押し当てた。まるでロケットそのものが自らの子どものように、大事に。
「ハリーは、夫と一緒に殺された……ヴォルデモートに。
私は気を失っていて、何もできなかった……この身を呈して、庇うこともできなかった。
私が命を差しだしたって同じ結果だったでしょうけれど、もし、あの時に戻れたら……今でもそう思わずにはいられない」
──もし、あの時に戻れたら。
ナーサは遠い目をしたリリーを見上げる。
レグルスと同じだ。リリーも遠い昔の深い傷跡を忘れられずにいる人なのだ。
「あの頃は、そんな時代だった。
あなたのお母さんのジニーも……ウィーズリー家の人達が、あんなことになって」
「ウィーズリー家? ウィーズリー家を知っているんですか? どんな人達だったの?」
リリーの目が、懐かしむような温度をたたえた。
まるで、目の前に失われた家族一人ひとりが目の前に見えているかのように。
「大家族で、愛情にあふれた人達……皆、思いやりにあふれていた。純血だけど、マグル生まれを差別しなかった。
自分のためではなく、誰かのために手を尽くすような……とても気高い人達」
母がウィーズリー家の最後の一人だと知ったのは、マルフォイ家を出た後だった。自分の血の半分は、その人達のものだった。
「……母も、ウィーズリー家で育っていたら、今とは違っていたでしょうか」
父親と信じていた人に裏切られ、助け出してくれた人と逃げた先は貧しいだけの暮らし。いつ追っ手が迫るのかと怯えながら、魔法を使うことさえできずに。
夫を亡くした後は、お荷物の娘を抱えて何とかロンドンまで辿り着いた。
そして、マルフォイ家に戻った後は屋敷から一歩も出ることなく、来客と顔を合わせることも滅多にない。
影のようにひっそりと暮らし続けている母のことをナーサは想った。
もしも、闇の帝王がいなければ、本当の両親と兄弟達に囲まれた母は幸せになれたのだろうか。
家族の中で、弾けるような笑みを浮かべる幼い母の顔が、ふっと頭に浮かんだ。その瞬間、胸をくしゃりと握りつぶされるような痛みが走った。
視界がじわりと滲む。
「ママは、ちっとも幸せじゃなかった……。
あたし……責めてばかりで、ママのこと、ちゃんと考えてなかった。ママが選べる道は、ほとんどなかったのに……」
ナーサは深呼吸しながら、震える声で呟いた。
目を伏せたリリーは、ロケットペンダントをそっと握りしめた。
「今の時代はごく少数の人を除いて皆、不幸よ。自由がないんだもの……中でも女性にとっては、とても生きづらい時代ね」
慰めの言葉を口にするリリーは、母を思わせた。豊かな赤毛も、大切な人を失って哀しみの色が濃い表情も──。
ナーサは何とか動く左手で布団を引っ張りあげた。急にあふれてきた涙を拭きながら、唇を震わせる。
家を出てから、初めて母に会いたいと強く思った。