ハロウィーンの日から一週間が経った。
十一月に入ってから急速に冷え込み、点々としていた木々の黄金色は山一面を一気に染め上げ、黒い湖の縁に彩りを添えた。
長い回廊を通り抜ける風に身震いしながら、ナーサは足を速めた。
土曜の早朝だというのに、その日の大広間は珍しく混み合っていた。けれど、その中に下級生はほとんどいない。今日は三年生以上の生徒達だけの特権、ホグズミード行きの日だからだ。
同級生の輪の中ではしゃいでいるアデリナや、何かのカタログを見ながら熱心に話し込んでいるリンジーの姿を見つけて、ナーサはそっと視線を逸らした。
クィディッチを通して親しくなった二人にも同じ学年の友達がいる。そんな当たり前のことに、ほんの少し心が疼いた。
「やぁ、マルフォイ」
皆から離れた席に腰を下ろした途端、背後から声をかけられた。背中合わせの席に腰掛けた黒髪の少年が、にこりと笑いかけていた。
「ディゴリー……おはよう」
こんな間近で彼を見るのは、あの練習試合以来だった。
パーカー姿で髪は少し乱れていたし、額にはうっすらと光るものが見える。
ただ、肩にかけたタオルがあってもルーク・ディゴリーの魅力を損なうことはなかった。爽やかそのものの笑顔を浮かべ、気さくに声をかけてくる。
「怪我はもうすっかりよくなったみたいだね。よかった」
ナーサはキュッと手を握りしめると、立ち上がって彼に向き直った。
「ディゴリー。練習試合の時、アボット先生を連れてきてくれてありがとう。
言いわけみたいだけど、あなたとは寮が違うし、いつも友達に囲まれているから、声をかけづらくて……お礼を言うのがすっかり遅くなって、ごめんなさい」
「当然のことだよ。君だって同じようなことがあれば、きっと助けてくれるだろ? ねえ。折角だし、こっちのテーブルで一緒に食べない?」
「でも、寮が違うし」
両手を振りながら、じりじりと後退る。
アデリナやリンジーと一緒にいることが増えた辺りから、露骨な悪口を言われることは減ってきた。けれど、皆から好かれていないことに変わりはない。一緒にいて、不快な思いをさせてしまうことが怖かった。
ディゴリーはそんな思いも知らず、プッと吹き出した。
「君、前にミスター・ヤックスリーにエスコートされて、スリザリンのテーブルで食事したじゃないか。きっと、その時ほどは目立たないよ。上級生はホグズミードのことで頭がいっぱいだろうし、僕達のことなんか気にしやしない。それに僕、ずっと君と話してみたかったんだ」
そう言いながら、隣りの席の椅子を引く。
ナーサは僅かに目を細め、おずおずと笑いかける。
(……太陽みたい)
誰に対しても等しく温みを与えてくれる、陽光のような笑顔だ。ナーサが躊躇いながらも席を移ると、ディゴリーはかぼちゃジュースをコップに注いでナーサの前に置いてくれた。
「苦手なものって何かある?」
「えっ……特には」
学校では大皿の料理は自分達で取り分けるのが普通だと思っていたが、ハッフルパフでは違うのだろうか。
ナーサの戸惑い顔に気づいたのか、ディゴリーはハッとしたように一瞬動きを止めた。手早く皿に盛りつけながらも、その頬は微かに赤らんでいる。
「ごめん。休暇中、小さい妹の面倒を見てて、つい……」
「ううん。取り分けが苦手だから、助かっちゃった。ありがとう。妹って何歳なの?」
皿を受け取りながら訊くと、ディゴリーは白い歯を覗かせた。
「六歳。リーユエっていうんだ」
「リーユエ? 優しい響きの名前だね」
「母さんにはアジア系の血が入っていて。美しい月っていう意味なんだって」
ルークはまるで自分のことを褒められたように、はにかみ笑いをこぼした。
「兄妹仲がいいんだね」
「うん。年が離れてるからかな……すごく可愛いんだ」
隠しきれない愛情が滲んだ言葉だった。ディゴリーの兄としての顔を見ていると、ふと一年生の頃に親交を深めた兄弟のことを思い出した。
コップから口を離したディゴリーが、思い出したように言う。
「まだ、実験はしてるの?」
「……実験?」
ナーサは目を瞬いた。魔法薬学の合同授業はスリザリンとで、ハッフルパフとはやったことがない。
眉根を寄せるナーサに、ディゴリーはふうっと溜め息を吐いた。
「忘れちゃった? 一年生の頃。消える階段で実験してたじゃないか。フェイントかけたら、どうなるかって」
「あっ──」
ナーサは息を呑んだ。
入学したての頃、一人で校内を探検していた時に初めてルークと話した。まだ自分の生い立ちも知らず、世界の在り方にも疑問を持っていなかった頃の、きらきらと輝く記憶の破片。もう、今となっては違う世界に来てしまったようだった。
ディゴリーはそんなナーサの様子を見ながら、ちぎったパンをスープに浸した。
「いつ、実験結果を共有してくれるのかなって思ってたんだけどな」
「……ごめんなさい」
スプーンを握りしめるナーサの手元を見ながら、ルークは明るく続けた。
「いやいや、そんな真剣に謝らなくてもいいって。
あ、でもさ、もし約束を忘れてて悪いって思ったなら──僕のこと、名前で呼んでくれない?」
「名前で……?」
「そう。ルークって」
そろりと見たルークの瞳にはたくさんの光が閉じ込められている。まるで、魔法薬の効果測定に使われるラブラドライトだ。灰色で、決して温かな色合いではないのに、熱を感じる。
ナーサはふっと肩の力を抜いた。
「それじゃ、ルーク。あたしのこともナーサでいいよ」
「嬉しいよ。改めてよろしく、ナーサ。そういえばさ、君のお父さんはスリザリンのシーカーだったんだろ」
「あ……」
『お父さん』という言葉にチクリと胸が痛んだ。けれど、訂正するのも気が引けて、曖昧に濁してしまった。
ルークは気にせずに続けた。
「僕の両親もなんだよ。父はハッフルパフ、母はレイブンクロー」
「そういえば、こないだの練習試合でもアナウンスされてたよね」
「母も、君のお父さんのこと、よく覚えてたよ。スニッチングに貪欲で、いつも手こずらされたって。考えたら、すごくない? ライバル同士の子どもが、ライバルになるなんて」
「……本当。それも同学年になるなんて、すごい偶然だね」
慎重に答えるナーサの顔を、ルークはまじまじと見つめた。
「君はお父さんにそっくりだね。卒業記念年報って見たことある? 卒業年ごとのアルバムになってて、クィディッチ・チームの写真もあるんだよ」
「……うん。初めて見た時、他の人にもそう言われたよ」
ナーサは目を伏せ、囁いた。
リラルドはナーサの出生の秘密を知っていた。彼はあの時、どんな気持ちで『お前にそっくり』だと言ったのだろう。
その時、大広間にスリザリンの男子達が入ってきた。その中の一人が、ナーサ達を指差し、耳打ちした。足を止めたリラルド・ヤックスリーが、鋭い目を向けていることになど気づかなかった。
*
その数日後の放課後のこと。グリフィンドールの女子寮で、ナーサは魔法省からの手紙を見つめていた。
ホグワーツで年に三度開催される『宴』への参加資格を得たこと。十三階級のうち、最上位のクラス・エースに所属することになったということが、恩着せがましい口調で書かれていた。
初潮のことは誰にも言っていない。それなのに魔法省には筒抜けなのだ。ナーサは震える手で便箋をめくった。二枚目にはクラス・エースの注意書きが書かれていた。
服装は正装。基本的に欠席は許されない。三度のダンスはパートナーを選ぶこと。
ナーサは頭を抱えた。何もかも忘れたふりをして、引き出しを閉めてしまいたかった。
けれど、今年度最初の宴は次の土曜日──時間がない。
(前に、ケイレブは舞踏会みたいなものだって言ってた。でも、ドレスなんて……どうしよう)
マルフォイ家にいた頃は気にも留めなかった心配事が、止めどなく吹き出してくる。
冷たくなった手を握りしめたナーサは、ふと相談できる人が身近にいることに気がついた。
(リンジーに相談してみよう。一人で悩んでるより……何か、力になってくれるかもしれないもの)
ナーサはそう決心し、階段を降りていった。
四年生の授業が何時までかは分からないけれど、リンジーは授業が終わった後は一度寮に戻ることが多かった。
談話室にいたのは十人前後で、低学年ばかりだった。ぐるりと見て回ると、ナーサは入り口付近のソファに腰を下ろした。
(本を持ってくればよかった。今、何時だろう)
懐中時計を手に取り、ナーサはふと違和感に気がついた。
双子座の星座が刻まれた白銀の蓋には、ブルーダイヤモンドとルビーが埋め込まれている。
カストルの位置にある小さなルビーが、今、淡い光を放っている。光の強さは一定ではなく、しばらく見ていると消えたりもした。
ナーサに何かあれば、母のブレスレットが。母に何かあれば、ナーサのネックレスの宝石が光を放つ。そう母が言っていた。
(うそ。いつから……蓋を意識して見てなかった。ママに何かあった……?)
ぞわり、と震えが背筋を走る。
思わず立ち上がりかけたその時、ルームメイト達が戻ってきた。見るからに蒼白なアリッサの両脇を、メイジーとグレイスが固めている。
目が合った途端、アリッサは支えを振りほどき、足を引きずるようにナーサのすぐ側までやって来た。
唐突な接近に、ナーサは息を呑む。
「……リーが、呼んでる」
「え?」
アリッサが口元を押さえながら、息も絶え絶えな様子で言った。
「スリザリンの、ヤックスリー……あなたを……待ってるの。寮のすぐ入り口で」
焦れたようにそう言う彼女の顔は、早く重荷を下ろしたいと訴えているようだった。
ナーサは唇を引き結んだ。最後にアリッサと口を利いたのは、新学期が始まった日。それ以来、顔もろくに合わせない。
それなのに、今さらどういうつもりなんだろう。
「もう、あの人とは会ってない。待ち合わせなんてしてないから」
その途端、アリッサが両肩に手を置いた。思いがけず身体が沈み込むほど、重い。
「ねえ、お願いだから……ヤックスリーのところに行ってきて! メルクを取り上げられたの。あなたを呼んでこなかったら……は、羽をへし折るって……!」
「羽を、へし折る……あの人が、そう言ったの……?」
頭を殴られたような衝撃が走った。
早口のスコティッシュ・アクセントで乱暴そうだと誤解されるだけで、リラルドは優しかった。そう、思っていた。
ナーサはアリッサの横をすり抜け、何処か気まずそうな顔をしたメイジーとグレイスの目を見ないようにしながら、肖像画の裏の壁を押した。
外に出ると、探すまでもない。少し離れたところにある柱に寄りかかったリラルドと、スリザリンの男子達と視線がぶつかった。
深呼吸を一つしてから、ナーサはゆっくりと彼らの方に歩いていった。リラルドの顔には安堵と緊張、相反する感情が入り混じっているように見える。
一歩踏み出した彼を牽制するように、ナーサは冷ややかな声で訊いた。
「……何の用?」
「──怪我は……大丈夫だったのか?」
ぼそりと口にした言葉に、ナーサは眉間にしわを寄せた。すぐに口を開けば、言わなくてもいいことまで口走りそうで、ナーサは深呼吸をした。
ここにいるのは、リラルドだけではないのだから。
「まさか、そんなことを訊くために呼び出したんじゃないよね。
メルクは……ルームメイトのふくろうは、何処なの?」
眉をひそめたリラルドが、後ろの三人を振り返る。二人は慌てたように首を振ったが、一番体格のいい坊主頭──ダグラス・バグノールドが腕を組んだ。
「……ダグ。お前、何やった」
「お姫さまを呼び寄せるためさ。
心配するなよ、マルフォイ。後でちゃんと返してやるさ」
「……ざけんなッ。誰がそんなことしろって頼んだよ!」
リラルドに胸倉を掴まれても、バグノールドは静かにその手元を見下ろしていた。
ナーサはくしゃりと頭に手を当てた。
「やめて。仲間内で揉めるのは後にして。
早く済ませて。用件は何なの?」
リラルドはバグノールドを放すと、ナーサに向き直った。
空のように澄んでいた目に、陰が落ちている。何度か窺うようにナーサに目を移し、足元を見下ろした。
「……次の宴から、参加するって聞いた」
ナーサは思わず口元を押さえた。
どうして自分の身体のことを、こんな形で共有されなければならないのか。足元がカタカタと震えだした。
「三度のダンス。俺と、踊ってほしい」
「……絶対に、嫌」
リラルドは縋るような目をナーサに向けた。その顔からは血の気が引き、そばかすが目立った。
「誰かと、もう……?」
「誰とも踊りたくない。その中でも……あなたとは絶対に、嫌だ」
リラルドは拳を握りしめた。逃げ場を探すように、その視線が周囲を彷徨う。
けれど、もうどうしようもない──そう悟ったかのようにナーサの目を捉えた。彼の喉が大きく動いた。
「……お前の母親の、最近の状態を知ってるって言っても?」
ナーサは息を呑み、無意識に胸元に目を落とした。ついさっき気づいた淡い光が、視界の端で警告するように揺れている。
「……どうして、そこまでするの。こないだ……医務室で、ずっと廊下にいたって聞いた。尊重してくれてるって思った。なのに……最低だよ」
自分でも驚くほど、弱々しい声だった。認めたくなかった。かつて心を許した人が、こんな卑劣な手口を使うだなんて。
石床を踏みしめたリラルドが、微かに顎を上げた。
「俺が、好きでこんなことしてると……そう思ってるのかよ」
「分かってるんでしょ。好きとか、どうかじゃない。自分が選んだことだよ」
リラルドは逆立てた髪を掻きむしるように動かした。
「そうだな。俺は、選ぶしかなかった。
どうする、マルフォイ。自分の意思を貫くか、それとも……俺と踊るか。お前も選べよ」
急に彼の声が温度を失う。きれいな標準英語が、事務的に済ませたいという意図を感じさせた。
──ここにいるのは、もう一年生の頃のリラルドじゃない。
「三度踊れば、いいんだね。分かった……。
その代わり、もうそれ以上は何も期待しないで。あたしはあなたを軽蔑してるから」
淡々と告げたナーサだったが、胸の内に迸る鮮血から目を背けることはできなかった。折角薄皮の張った傷口は、傷を作った張本人の手で暴かれてしまった。