【予言の子が殺されたIF】此は最果ての地 作:琳音(@rinne_1218)
ロウルが離れた途端、止まっていた時が動き始めたかのように、側にいた男女が駆けつけてきた。
「大丈夫だった? ミスター・ロウルって、いつもああなの。
申し遅れました。私はレティシア・トライプ」
すらりと背が高い女子がナーサに手を差し出し、口元を片手で覆い、「あら」とこぼした。
「いけない。先に名乗っちゃった」
「いえ、あたしのご挨拶が遅れて……ナーサ・マルフォイです、お見知りおきを。ミス・トライプ。それに、ミスター」
隣の善良そうな男子に目を向けると、はにかんだように笑った。
「ディアミド・マクミランだ。ロウルに震えずに言い返すなんて、君は勇気があるね。でも、気をつけた方がいい。あの人は、きっとこのまま終わらせる気はないから」
マクミランはそっと壁際を窺い見た。
つられてそちらに視線をやると、ロウルはまだナーサをまっすぐに見据えていた。表情までは見えない。けれど、何故か笑った──そんな気がした。
「あなたもお疲れさま。見ていて爽快だったわ、リンジー」
トライプはゆったりと言うと、テーブルからグラスを二つ手に取り、リンジーとナーサに差し出した。
「気付けにどうぞ。温まるわ」
「ありがとうございます」
礼を言って、口に含んだ瞬間、苦みに顔をしかめた。すぐに唇から離し、改めてグラスの揺れる波面を見つめる。濃厚な赤紫──革のような深みのある香りが鼻をついた。
「これ……もしかして、お酒ですか?」
「あら。ワインは苦手だったかしら?」
平然と返され、ナーサは一瞬視線を泳がせた。
「に、苦手っていうか……あたし、まだ、未成年ですし」
「そうね。七年生以外は、未成年よね」
トライプは目を伏せ、軽く揺らしてからグラスを傾けた。そんな彼女を、マクミランが熱を帯びた目でじっと眺めていた。
ナーサはそわそわと身動ぎした。
突っ返すのは失礼な気がする。けれど、見咎められたら、どうしよう。少し離れたところには、監督生だというシャフィクもいる。
それなのに、リンジーときたら、悠然とワイングラスを鼻先で揺らしているではないか。
ナーサは立ち位置を変えて、リンジーを自分の身体で隠すようにした。
「……ねえ、見られるよ。いくら友達だって、減点されちゃうかも」
リンジーは目をぱちくりさせた。
「減点っ?」
「だって、未成年が飲酒は……駄目でしょ」
「あー……クラス・エースの宴では大丈夫。ほら。皆、飲んでるでしょ」
「で、でも……あたし達、まだ」
「うちは、イベントごとにシェリー酒振る舞われてたから……普通だと思ってた」
ヒソヒソ話を続けていると、すぐ側でカツンと靴音が落ちた。
「お前はこっちの方が、いいんじゃねぇの」
チェリーの乗った赤いグラスを差し出す、腕。辿っていった先の顔を見た途端、ナーサは固まってしまった。
「……ヤックスリー?」
かろうじて漏らした言葉に、リラルド・ヤックスリーは頷いた。
金色のハリネズミのようだった髪を後ろに流し、きっちりとまとめている。ジャラジャラとつけていたイヤーカフも外し、顔のソバカスも見えない。いつも着崩していた服装は、ネクタイもボタンも留めている。
まるで、彼の兄のように、非の打ち所のない姿。
リラルドの方でも、大きく目を見開いていた。ナーサの全身を滑る視線の強さはロウルと同じだったが、居心地の悪さは感じなかった。
彼はハッとしたように視線を逸らし、ナーサの手からワイングラスを受け取ると、代わりに赤いグラスを前に押し出す。
「……飲めよ、それ」
ナーサは泡立つ赤い液体とチェリーに視線を落とし、黙り込んだ。
──わぁ、ありがとう。チェリーシロップソーダ? 大好きなの。
リラルドとケイレブと三人で食事した、あの日。
チェリーの種を口に含んで、戸惑った。気恥ずかしく、けれど、胸が弾んで止まらなかった、あの時。
震える手が、グラスを口元に運びかけた。唇に触れるか、触れないか──甘酸っぱい香りが鼻をかすめた瞬間、そこで手が止まった。
「リラルド」
リンジーが呼ぶと、彼はふっと頬を緩めた。
「へえ。似合ってんじゃん、新しいドレス」
スコティッシュ・アクセントが、いつもよりも強い。リンジーに向ける眼差しは柔らかかった。
「ありがとう。あなたもね。馬子にも衣装? ふふ、いつもそうしてたらいいのに。きっとモテるよ」
「別に。モテたって意味ねぇし」
リラルドは微かに頬を赤らめ、何の躊躇いもなくグラスを傾ける。
「それ、あたしが……」
言い切る前に、彼の喉は上下していた。彼の手の中にあるグラスを見つめながら、ナーサは続きを呑み込んだ。ついさっきまで、この手の中にあったグラスだ。
「ここでそれ、やっちゃう?」
スコットランド英語で軽快に言うと、リンジーは軽く彼の額を小突いた。
リラルドは目を瞬き、ハッとしたように動きを止めた。一拍おいて、グラスとナーサの顔を交互に見るその顔が見る間に赤くなり、すぐに青ざめた。
「悪ぃ、マジで……」
消え入るような声でそう言い、手近なテーブルにグラスを置いた。その指先は小さく震えている。
リンジーがやれやれと溜め息を吐いた。
「うちでもよくやったけどさ。ここは家じゃないからね」
ナーサは両手の中にあるグラスの存在感を強く感じた。躊躇いがちにもう一度口に近づけ、ほんの少し含んでみた。
前に飲んだ時とは、味が違う──けれど、一口、また一口と飲み進めた。
もう、あの味は永遠に取り戻せない。そのことを噛みしめるように。
ふぅ、と吐息を漏らしたのが聞こえたのか、リンジーがナーサの腕を取った。
「まだ全員に挨拶終わってないから、行こ。またね、リラルド。レティ、ディアミドも」
その場の皆に礼をすると、ナーサを輪の中から連れ出した。
手を引かれながらも振り返ると、リラルドが上級生の男子達と話しているのが目に入った。その途端、大切なものを落としてしまったような焦燥感が胸に迫り上がってきた。
「リンジーは、あの人と……仲がいいんだね」
一年生の頃、クィディッチの練習に向かうリンジーと話していた時に、リラルドとも会った。その時はリンジーが誰なのかもすぐには分からず、喧嘩腰だったのに。
リンジーは軽く両手を伸ばし、頭上を仰いだ。
「あの子とちゃんと話すようになったのは夏休みからだよ。ヤックスリー家に二週間滞在したからね」
「二週間……?」
思わず聞き返してしまう。生活の拠点を移さずに滞在できるギリギリの日数──そう、レグルスから聞かされた。
リンジーの眉が緩やかな波形を描いたが、それでも微笑みは絶やさずに続けた。
「婚約したからね。それでも、ホグワーツに通わせてもらえるだけよかった。
正直ね……もう戻ってこられなくなると思っていたんだ。逮捕まで、されちゃったし……けど、ケイレブが卒業するまで待つって言ってくれたの」
ナーサは胸が微かに熱を帯びるのを感じた。
──選択肢がない中で、ケイレブは私を生かす道を探そうとした。
前にリンジーから聞いた言葉が、静かに心に響いた。
婚約が正しい道だったかは分からない。けれど、棘を刺されても薔薇を守ろうとしたのは本当だったのだ。
頬が自然と緩んだ。
「……そうだったんだ。慣れない場所で、大変だったでしょ」
「うちとは違うからね。それでも、ほとんどの人には歓迎してもらえたよ」
ほとんどの人──ナーサはハッとして、向かった先を見た。
アッシュと、ミケイラ・ヤックスリーが、グラスを片手に話し込んでいる。アッシュの目はすぐにこちらを捉えたが、ミケイラは頑なに彼だけを見つめている。彼以外を視界から締めだそうとしているかのように。
リンジーが小さく咳払いし、ナーサの前に滑り出た。
「お話し中、失礼。ごきげんよう、ミケイラ。それに、ミスター・クラウチ。こちらはクラス・エースに仲間入りした、ナーサ・マルフォイ。二人とも、もうご存知よね?」
「ごきげんよう、ミス・ヤックスリー。ミスター・クラウチ。改めて、よろしくお願いいたします」
ドレスの裾をつまんで、丁寧にお辞儀すると、アッシュは口元をほんの僅かに緩めた。
「ようこそ、ミス・マルフォイ」
ミケイラの方は無言のまま、ナーサを……いや、ナーサが着ている赤いドレスを見つめていた。
そして、鋭い一瞥をリンジーに投げかけ、クスリと笑った。不敵な笑みに、思わず身体が震えてしまう。
「ごきげんよう、お義姉さま。大胆な方なのは知っていたけれど、まさか、そのドレスを貸すなんてね」
ミケイラの視線が蛇のとぐろのように、ナーサの全身に巻きついた。
横目で捉えたリンジーの顔が一瞬こわばったが、彼女はすぐに続けた。
「想いの詰まったドレスだから、大切な人に託したかったの。きっと、あなたのお兄さまも反対しないと思うけれど」
「……想いの詰まった? お兄さまにあんなことをしておいて、どの口が言うの」
シン、とざわめきが止んだ。リンジーは周囲の視線を拾い、唇の端を微かに引き攣らせた。
「ミケイラ、よせ」
アッシュが二人の間に割って入り、リンジーの姿を隠そうとする。その前に、ミケイラが一歩前に踏み出し、胸を張った。
「ねえ、あなたのお友達は最近お元気? 何だったかしら……そうそう、デニス?」
処刑された、リンジーの『恋人』──ナーサが息を呑んだ瞬間、リンジーの顔にかろうじて貼りついていた微笑みが剥がれ落ちた。
ヒールの音が一つ、高鳴り、目を離したほんの一瞬。
リンジーがアッシュの脇をすり抜け、大きく手を振り上げ──背後から悲鳴と、複数の足音。
大きな影が迫り、同時にリンジーの身体が後ろに飛んだ。
「──リン、やめろ!」
食いしばった歯をむき出しにしたリンジーを、イアンが押さえつけていた。振り上げたままの拳がブルブルと震え、顔からは血の気が引いていた。
ミケイラはうんざりとした顔で、巻き毛を一房かき上げた。
「……とっても、お上品なこと。お兄さまが気に入るわけね」
リンジーの荒い息遣いが、その場に満ちる。
スリザリンの生徒達が追従するように笑いかけ、けれど、すぐに顔を曇らせた。『ミスター・ヤックスリーの妹』と『婚約者』のどちらを尊重すべきか、決めかねているようだった。
ナーサの足は、気づけば一歩前に踏み出していた。
「今の言葉を聞いたら、ケイレブはどう思うでしょうか」
ミケイラは眉をひそめ、一拍置いて鼻で笑った。
「何? あなたには関係ないでしょ」
「関係はあります。リンジーは、あたしの友人です。それに……あなたに以前言われましたね。彼の、実の妹のようだと」
無数の視線を痛いほどに浴びながら、ナーサは背筋を伸ばした。
ミケイラは腕組みをし、ナーサを見下ろした。
「……は? それで、何が言いたいの?」
兄とそっくりな目の温度は、これ以上なく冷ややかだった。
「ケイレブは過去を全て知った上で、選んだ。リンジーも、最終的には拒まなかった。だから、あなたの持ち出した名前には、もう……意味はありません」
乾いた音が響いた。拍手を送ってきたのはトライプだった。その隣ではどうしようかと戸惑いながらも追従するマクミラン。そして、壁際にいたロウルまで、大きく手を動かしている。
ミケイラはうるさそうに頭を振り乱し、ヒールで床を踏みしめた。
「……言ってくれるじゃない。本当、図々しい。お兄さまと、リルにすり寄って、二人を傷つけた分際で。うちの家族のことに、口を出すんじゃないわよ」
ナーサに向かいかけたミケイラの腕が、すんでのところで止まった。リラルドの手が、姉の手首を掴んでいた。
「マジで、いい加減にしろよ、ミカ」
「……リル、嘘でしょ。あなたまで、そんなことを言うの?」
かすれた声で漏らしたミケイラが、弟の頬に手を伸ばした。その震える手が触れる前に、リラルドは素早く身を退いた。
「あれは、ケイレブと俺の問題だ。外でやんなよ。これ以上騒いだら、ケイレブが黙ってねぇし、父上が火ィ吹くぞ」
「……やめて。どうして、お兄さまだけじゃなく……私をそんな目で見ないでよ、リル。お願いだから……」
ミケイラは髪を掻きむしりながら、縋るような目で弟を見つめた。
リラルドは何かを言いかけ、しかし、思い直したように首を振った。顔を不自然に背け、耳まで赤くしている。
そこへゆったりとした足取りで、レイモンド・シャフィクが近づいてきた。
「そろそろダンスをしたくて、皆ウズウズしている頃だと思うんだけどね。その辺りでやめておかないか、ミケイラ。アッシュを待たせて気が咎めないなら、存分にやってくれてもいいが」
シャフィクの言葉にミケイラは答えず、ナーサとリンジーを交互に睨みつけた。
「私は、あなた達を絶対に認めない。私の大切な家族を傷つけて、平然としてるんだから」
「……ミケイラ、少し夜風に当たりに行こう」
差し出されたアッシュの手を取ったミケイラは、ストロベリーブロンドを翻し、踵を返した。
嵐が去った──皆がそれを感じているだろうに、そわそわと周りを見回すばかりで、誰も口火を切ろうとしない。
「さあ、あと五分もすれば、演奏が流れる。皆、お目当てのレディの元で列を作る時間だ」
シャフィクが声を張ると、金縛りが解けたように、場に歓談の声が戻った。
あちこちからまだ視線が突き刺さるのが感じられたが、ナーサは真っ先にリンジーに歩み寄った。
兄に支えられて、何とか立っている彼女の目はしっとりと潤み、まばたきするだけで今にも滴り落ちそうだった。
ナーサはその瞬間、リンジーの身体を包み込んでいた。腕の中で彼女が小さく震えた。
マント越しにそっと背を撫で、そっと身体を離す。
「ナーサ、すごく……頼もしかったよ。ありがとう」
イアンが居住まいを正し、ナーサの両手を取った。
「ありがとな、ナーサ。リンのために……」
「ううん。あたしが、言いたかっただけだもの。お礼なんて言われることじゃないよ」
爪先を見ていたリラルドが、うつむいたままイアンとリンジーの前に進み出た。
「ミカ──いや、姉が、失礼なことを言って……」
イアンが仁王立ちして腕組みをした途端、リラルドの肩がビクンと跳ね上がった。一年生の頃、彼にタックルされた記憶が蘇ったのかもしれない。
イアンは鼻から深い息を吐いた。
「君のせいじゃない。が、限度がある。ケイレブにも妹の手綱を握るよう、しっかりと伝えてくれ」
「ああ。本当に……申し訳ない」
ぎこちなく頭を下げる仕草に、ナーサは見入った。家族のために謝罪するその姿を見ていると、何故か胸が熱くなる。
リンジーが兄の袖を引き、首を振った。
「やめて、兄さん。もう子どもじゃないの。これ以上、ケイレブに余計な負担をかけるわけにはいかない。ミケイラとは、そのうち、ちゃんと話すから……だから、リラルドも気にしないで」
まだ青ざめたままの顔に笑みを乗せて、リンジーが言う。それでも頭を下げたままのリラルドの肩を叩いた。
「……はいはい、反省会はここまでっ。さっきのあんた、悪くなかった。いい男になったよ、ね?」
スコットランド英語で明るく言うと、おずおずとリラルドが顔を上げた。
その顔を見ていると、ナーサの胸に深く刻まれた傷がにわかに疼きだした。
何も言わずに距離を置いたことで、追い詰められた彼から放たれた『mistress’s bairn(妾の子)』という言葉。母の体調を盾にとった強引な誘い。もう十分すぎるほど裏切られている。
(……もう、リラルドには何も期待しないって思っていたはずなのに)
耳の奥で、笑い声が響いた。二人きりで話したスコットランド英語の記憶。ナーサはその時、ごく自然と彼の顔を見つめていることに気がついた。