少女は広い屋敷の中を必死に走っていた。白い寝間着姿で、裸足のまま。
「ママッ、どこ? ママッ、ママーッ」
長い廊下には所々に燭台が備えつけられているが、そのいずれにも明かりは灯っていない。月明かりが窓から差し込み、連なる十字形の影を床に落としていた。まるで屋敷全体が冷たい墓場となり、生ある者は自分ただ一人になったようだ。心細さに少女は目に涙をにじませ、喉を詰まらせた。
「……誰だ、こんな夜遅くに。うるさくて眠れん」
唸るような、しゃがれ声──少女は飛び上がった。すぐ横にある肖像画に描かれた男が、寝ぼけまなこで顎髭を撫でていた。小さな悲鳴を漏らすと、少女は再び駆けだした。
フロアの端まで逃げていくと、激しく上下する胸元を押さえながらドアに耳を当てた。少しすると、隣のドアに同じように耳を当てる。何か物音がしないか、一つ一つ確かめているのだ。
そして、あるドアに耳を当てた後、少女はハッと目を見開いた。ドアノブに手をかけると、思いのほか呆気なく回った。キィという微かな軋みにためらいながら、ゆっくりと押し開く。パチパチと燃える暖炉の音が大きくなった。暖かな空気が素肌をゆるりとなぞる。
そして──
森の中にいるかのような涼やかな小鳥のさえずりが、屋敷に響き渡る。食事を知らせる合図だ。十一歳のナーサ・マルフォイは、睫毛を震わせて目を覚ました。
夢を見ていた。何かを探して、屋敷の中をさまよう夢──探していたのは何だったろう?
だが、深く考える時間はなかった。洗面台で顔を洗うと、ウォークインクローゼットの前に用意されていたドレスに袖を通す。大急ぎで髪を梳いてからポニーテールに結い上げると、食堂へと急いだ。
すでに祖父は席に着き、日刊予言者新聞を広げていた。ナーサの登場に気づかぬわけがないのに、素知らぬ顔をしている。マホガニー製の食卓テーブルには食器が整然と並べられていたが、まだ料理の盛りつけがされていない。
母はナーサを励ますように微笑みかけてきた。朝の陽光と同化するように柔らかく温かい。けれど、今はそんな母も大した慰めにはならなかった。ナーサは深呼吸を一つしてから、祖父の前に進みでた。
「おはようございます、おじいさま」
恭しくお辞儀をすると、微かに顔を上げた祖父が厳しい目を向ける。
「ナーサ、お前はマルフォイの名を継ぐ者だ」
「……はい。遅れて申し訳ありません」
刺々しい声だった。祖父は新聞を畳んで、しばしの間、じっとナーサを見つめた。その眼光は刺すように鋭く、ナーサは目の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
叱られて泣くなんて、恥ずかしいことだ。ナーサは拳を握りしめ、軽く視線を落とした。
「気をつけなさい。ほんの一瞬の気の緩みが、取り返しのつかない事態を招くものだ。ホグワーツでは皆がお前の一挙手一投足を見つめる。お前の恥は、我が家の恥だ。それを肝に銘じるように」
抑揚のない話し方は冷ややかだった。けれど、次の瞬間、祖父の声がぐっと和らいだ。
「……無論、私の自慢の孫娘が恥をかくことなど考えられんがな。今日の失敗から学びなさい」
「はい、おじいさま……はい!」
祖父の言葉に、ナーサの目を瞬いた。叱責は厳しいが、祖父は立派な人間になるよう導いてくれる。手放しで褒めてくれることはなくても、こうして自信を失わないよう一言添えてくれる。だから、ナーサは祖父のことが好きでたまらないのだ。
成り行きを見守っていた母に微笑を返すと、給仕に引かれた椅子に座る。それを合図に次々と食事が運ばれてきた。祖父がナイフとフォークに手を伸ばすと、銀食器の微かな音だけが聞こえる厳かな時間が始まった。
時折、祖父は母に向かって話しかけた。新たな法案の制定、国際魔法使い連盟のイギリス支部長、マクーザの議長の交代……ナーサには馴染みのない単語がいくつも飛び交う。それらが何なのか、気にならないわけではない。けれど、食事の席では決して大人の会話には口を挟まないのがマナーだ。ナーサは食事に集中した。
「ナーサ」
不意に祖父の目がナーサをとらえた。ナイフとフォークを静かに置き、次の言葉を待った。
「今日は予定していたとおり、仕立て屋と杖職人を呼んでいる。十時に応接間にきなさい。長引くだろうから、午後の魔法史と呪文学の勉強は休みにしている。空いた時間は復習に充てなさい」
「はい、おじいさま」
「……私も、同席させて頂けますか?」
母が躊躇いがちにささやいた。すると、祖父の目がスッと細くなる。
「もうカタログから新しいドレスと靴は選んだのだろう? お前の部屋にフィッターを送る。わざわざ応接間にくる必要はない」
「でも……たった一度きりのナーサの入学準備ですもの。お願いします」
いつも祖父に言われるがままに頷く母が、こうして自分の希望を口にするのは珍しい。上擦った声で、ナーサも口添えした。
「おじいさま。あたしもお母さまがいてくれたら嬉しいです。色々と選ばなければならないのでしょう? 助言していただけたら」
「ふん……ホグワーツに通ってもいない母親がいて、何か役に立つとでも?
いいや、ジネヴラ。お前はいつも通り部屋で大人しくしているのだ。心配には及ばん。ナーサの学用品は、私が最高の品を選んでやる」
冷ややかに遮ると、祖父はナフキンで口元を押さえる。母は穏やかな瞳に悲しみをたたえて、静かにうつむいた。それを見ていると、ナーサも胸がうずいた。
(ママも一緒に選べたら、きっと楽しかったのに……どうして、おじいさまは駄目って言うんだろう)
昔から来客があると、祖父は母を部屋に閉じ込める。ナーサのような子どもに引き合わせる、気安い仲の相手であってもだ。
もしかしたら母の出自が貧しい家で、それを恥じてでもいるのだろうか。けれど、知る限り、母はしっかりとした教養を持つ聡明な女性だ。恥じる要素など一つもないというのに。
しかし、ナーサは口をつぐんだ。祖父には自分のような子どもには伺い知れない理由があるのだろう。結局のところ、祖父はいつだって正しいのだから。
十時ちょうどにドアが開くと、すでにそこは見慣れた応接間ではなかった。色とりどりの布が宙から垂れ下がり、まるで虹の中に入っていくように心が泡立つ。
仕立て屋はまだ子どものナーサにも丁重に遇した。気になる布地を指すと、その一枚一枚を呼び寄せて生地の素材から繊維の編み方、染料、かけられている保護魔法まで丁寧に教えてくれた。
「お嬢さまの透けるような白い肌にはどのような色もお似合いですが、こういったパステルカラーはいかがでしょう。柔らかな髪や、瞳の色にもとてもよく映えますよ」
「わぁ……きれい。でも、少し子どもっぽく見える気がします」
「さようでございますか。それでは、こちらのアイスブルーやペールラベンダーなどはいかがでしょう? 気品や透明感を感じさせる色合いでございます。近頃はハイティーンの方々にも人気ですよ」
ナーサは姿見の前で布地を身体に当てた。冷ややかに一瞥した祖父が、ぼそりと漏らす。
「……そんな田舎者が喜んで着るような布地が、本気で私の孫娘に似合うとでも?」
「い、いえ! 失礼しました、閣下……!
お嬢さまのような、お若い方ならではの色とも思いましたが、家の格を考えなかったのは浅はかでした……」
手の中にある布地を取り上げられた瞬間、ナーサは微かに喪失感を覚えた。けれど、それはもうお馴染みの感覚だった。
代わりに渡されたロイヤルパープルやネイビーブルーの布地を交互に肌に当て、祖父に微笑んだ。見立て通りだったのか、祖父が大きく頷いた。
「やはり、お前には重厚な色合いがよく似合う。銀糸で我が家の家紋を刺繍させれば、皆の目を惹くだろう。留め具には、とびきりの宝石をあしらうのもいい。どう思うね、ナーサ」
「ええ、おじいさま。とっても素敵」
そう言いながら、宙に戻ったアイスブルーの布地を最後にもう一度見上げた。祖父の選んだ色に間違いはないのだと思いつつも、これまで身近になかった色だけに名残惜しさが込み上げる。
祖父はそんな思いを見透かしたように冷笑を浮かべた。
「スリザリンでは普段使いのものも注視される。お前が誰からも非の打ち所がない存在と見られるよう、私は労力を惜しまん」
ローブや靴、冬用のコート、ブラウスやスカートなど一揃い注文すると、待機していた杖職人と入れ替わった。
グレゴロビッチと名乗った白髪頭の老人はいかにも偏屈そうで、愛想のよかった仕立て屋とは正反対だ。挨拶もそこそこに、ナーサの杖腕を吟味し始めた。骨ばった指で手首をなぞり、指の長さから手首の角度までを真剣なまなざしで観察する。
横で見守る祖父が口を開いた。
「この子はいずれ当主となり、このマルフォイ家を継ぐ身だ。その血筋と才能に相応しい最良の杖を選ぶように。純血の証たるニレの杖などが望ましいが」
「お言葉ですが、閣下……魔法使いが杖を選ぶのではありません。杖が魔法使いを選ぶのです」
素っ気ない返答に、祖父の眉がピクリと動いたが、グレゴロビッチは気にも留めなかった。持参したトランクを開けると、小箱をいくつか厳選して取りだした。
「カエデの木は最も優秀な者の杖」
差しだされた小箱のフタが、誘うように開かれた。促されるままに手に取ると、次の瞬間、乾いた音と共に青白い火花が走った。指先に残る微かな痛みに驚いていると、杖は勝手に小箱の中に戻っていく。
「拒絶している……では、強力な力を秘めたサクラの木、ドラゴンの心臓の琴線」
二本目に指が触れた瞬間、杖腕が震えた。握りもしないうちに杖に拒まれた。三本目も、四本目も……次々に試しても全て同じような結果に終わり、ナーサは鼻の頭が熱くなるのを感じた。
杖選びがすんなりといかないことは聞いていたが、まともに握ることもできないだなんて。自分には魔法使いの才能がないのではないか。
祖父が何度も腕を組み直す気配を感じると、ますます汗がにじんでくる。怖くて、後ろを振り返ることすらできなかった。
「大丈夫なのだろうな、グレゴロビッチ。うちの娘に杖が決まらぬなど、断じて許さん」
「繰り返すが、杖が主を選ぶのです。ただ……これらの杖はお嬢さんに怯えている。こんなことが起こるのは初めてだ」
グレゴロビッチは自身の杖を振りかざした。優に百を越える箱のフタが一斉に開き、木目も長さも異なる杖がナーサを取り巻いた。そのほとんどが、一定の距離で方向を変え、離れていく。まるでナーサから逃げるように。
そんな中、ただ一つ──黒々とした光沢を放つ杖だけが、ナーサに近づいてきた。意を決して伸ばした指先が触れるよりも先に、杖の方から飛び込んできた──まるで見失った大切なものを取り戻したような感覚だ。
夢で探していたのは、これだったのだろうか?
「よもや、その杖が……お嬢さん、杖を振ってみなさい。早く!」
試すように杖を振り上げた瞬間──応接間が闇色に染まり、無数の光が舞い上がった。星屑のように舞い散る輝きは天井や壁までも広がり、室内を銀河に一変させた。
その光の中心で、ナーサは高揚感に震えていた。自身の身体を突き抜け、大きなものが通り抜けたような感覚に。練習用の借り物の杖とはまるで違う一体感。
「……成功だ。あの最強の杖に連なる至高の品は、すでに完成していたのだ……」
グレゴロビッチは神の奇跡を目の当たりにしたように、掲げた両腕を歓喜に震わせていた。
「孤立して、なお自らの信念を貫き通す黒檀。そして、死をも受け入れる度量のある者だけを認めるセストラルの尾毛。何という美しい魔法だ……こんな子どもが」
夜明けのように、闇が薄れてきた。応接間が明るさを取り戻しつつある。
ナーサは期待を込めて祖父を見た。だが、祖父は今にも椅子から横倒れになりそうに見えた。肘掛けに置いた手が震え、蒼白な頬を伝う一筋の汗が、異様に重たく見えた。
「グレゴロビッチ。今すぐ、その子の杖を選び直せ……そのような不吉な杖を。その子はマルフォイ家のただ一人の跡取り娘なのだぞ……死を間近に置くわけにはいかん」
「閣下、三人兄弟の物語は知っとるだろう。死はいつか誰のもとにも等しく訪れるものだ」
ナーサは息を呑んだ。嫌だ──抗議の声が喉元までせり上がった。この杖と離れ離れになるなんて耐えられない。ナーサは無意識のうちに後ろ手に杖を隠した。
グレゴロビッチは鼻息を荒くした。
「その杖とお嬢さんには、すでに固い絆が生まれている。その絆がある以上、他の杖はお嬢さんには見向きもしないでしょうな」
「……お前ができないと言うならば、オリバンダーを呼びつけるまでだ。ヨーロッパで指折りの杖職人という触れ込みだったが、過大評価だったらしい」
「先ほどの様子をご覧になっても、そのようなことを?」
グレゴロビッチはギョロリとした目を見開き、折れ曲がった背すじを伸ばし、昂然と祖父を見た。祖父を相手に一歩も引かない相手を、ナーサは驚きと称賛を込めて見つめた。
「杖がお嬢さんを避けていたのだ。このお嬢さんには、おそらく並外れた力がある……そう、歴史に名を残す偉大なる魔法使いになるのかもしれん。そこらのヤワな杖を使うような器ではない」
祖父は言葉を返せないようだった。杖を撫でるように握り直すと、ナーサは固く胸に抱いた。祖父の眉間に刻まれたしわを見ても、この杖と引き裂かれたくないと強く願った。