【予言の子が殺されたIF】此は最果ての地 作:琳音(@rinne_1218)
放課後、ナーサは重い足取りで地下にある魔法薬学の教室へと向かった。前にスネイプ先生から与えられた二週間の罰則を思い出し、溜め息を吐かずにはいられない。
(前はリラルドと話していただけで、問答無用の罰則だった。なのに、今度は一緒に手伝えだなんて……)
苛立ちのままにドアを開けると、ガンッ──鈍い音と、嫌な手応えに一瞬固まった。
一度戻したドアをおそるおそる押してみると、そこには右手の甲を押さえたアッシュ・クラウチが立っていた。眉間のしわが深い。
「ごめんなさいっ、大丈夫?」
ぶつけた箇所にはくっきりと赤い跡ができている。アッシュはナーサの視線に気づいたのか、さりげなく右手を身体の陰に隠した。
「……大したことはない。どうしてここに?」
まだ選択授業のない一、二年生がこの時間帯に教室に来る理由はない。
「スネイプ先生に呼ばれて……先生はいらっしゃる?」
「ああ、研究室に……呼ばれたって、罰則か?」
微かに眉をひそめるアッシュに、ナーサは慌てて両手を振った。
「ううん。縮み薬を作るお手伝いをするように言われて……アッシュは? 授業だったの?」
「いや。先生に個別で教わることがあってね。スネイプ先生はあまり生徒に在庫調整をお願いすることがない。君は……優秀なんだな」
彫像のような顔にほとんど変化はない。けれど、ほんの僅かに眉が緩んだ。
「認めていただけたなら、嬉しいけど……どうかな」
「こないだのクィディッチ、観てたよ。箒から落ちそうになった時、ロウルが手を貸そうとしていたけど、君は自力で立て直した……立ち向かう姿が、とても眩しく感じられた」
「あ……ありがとう。スリザリン戦なのに、そんな風に言ってもらえるなんて思わなかった」
ナーサは身じろぎし、そっと目を伏せた。寡黙な彼に褒められるのは嬉しかったけれど、胸がこそばゆい。友達というフィルターを通しているから、実物よりもよく見えているのではないだろうか。そんな不安が首をもたげ、目を合わせられなかった。
僅かに隙間が空いていたドアが軋んだ。また、誰か来た。
不意にアッシュの手が背中に回される。軽く引き寄せられた途端、カッと頬が熱を帯びた──ドアを開ける邪魔にならないようにと理解しているのに。
睫毛がローブをかすめるほど、近い。けれど、静かに迎え入れてくれる図書館のような香りに包まれた途端、胸の奥が落ち着きを取り戻していく。
「──アッシュ?」
窺うような、尖った声。
いつの間にか握りしめていた彼の腕をそのままに、ナーサは固まった。おそるおそる振り返ると、鋭い空色の目と視線がぶつかる。ハッとしてアッシュの腕を振りほどいたけれど、遅かった。
リラルドがじっと二人の顔を見比べている。腕組みをした彼の腕の合間から、落ち着きなく指が揺れているのが分かった。
「……随分、話盛り上がってたな。お前そんな喋る奴だったっけ?」
「治療した縁だ。僕はもう行く。きっとスネイプ先生もお待ちかねだろうから」
アッシュは静かに背を向け、教室を出ていった。
ナーサは落ち着きなく横髪に触れながら、リラルドを見た。さっきの一瞬は抱きしめられたわけじゃない。そう言い訳したかったけれど、何も訊かれていないのに理由を言うなんて自意識過剰な気がした。
(アッシュは何とも思ってないのに、あたしだけ騒いだら……馬鹿みたい)
リラルドは半開きのドアをきっちりと閉めてから、ナーサに向き直る。いや、視線は爪先を見つめたままだ。
「俺らも、行こうぜ」
ぼそりと呟くと、教室と続きになった研究室の扉を指差す。リラルドがノックすると、すぐにスネイプ先生の声が入るよう促した。
「失礼します」
声が重なった。一年生の頃、スコットランド英語を教わっていたあの頃を思い出すような、響き合う感覚。思わずリラルドを見つめると、彼はふいっと視線を逸らし、中に入っていった。
ここに招き入れられるのは初めてだった。教室同様にひどく薄暗い。高い棚に囲まれて、その上には臓器のようなものが入った水槽がいくつもあった。棚には調合済みの魔法薬や、ラベルが貼られた大小の瓶がずらりと並んでいた。高さや間隔がきっちりとそろえられ、整然としている。
ドアに背を向けるように配置された椅子を回転させ、スネイプ先生が顔を覗かせた。盆の上に乗せた一式をずいと差し出しながら言う。
「来たか。材料はこちらに用意している。来客のある五時までに仕上げ、片付けまで済ませるように。それでは、早速作業に入りたまえ」
労いどころか、挨拶一つないスネイプ先生から盆を受け取ろうとした途端、リラルドの手が伸びた。
「俺が、持ってく」
「あー……ありがとう」
重たいわけではないのに、と思わないわけではなかった。けれど、先生の手前、突っぱねるのも不自然な気がして、もごもごと礼を返す。
一番前の席で機材を準備し始めたが、金属音が静かな教室にやけに響いた。すぐ隣の研究室に先生はいても、今、この場には二人しかいない。そう思うと、少し身体がこわばってくる。
図書館の学習室に入り浸っていた頃には感じなかった緊張感──ローブとジャケットを脱いで腕まくりするリラルドから目を逸らし、ナーサは小さく咳払いした。
「……授業でやってくれたから、あたしがヒルを絞る。植物の方、皮を剥いて刻んでくれる?」
「いや、いい。俺がやる」
ヒルの置かれた皿を遠ざけながら、リラルドが言った。
ナーサはふっと溜め息を吐いた。
「あのね、嫌な作業を代わられたって許すわけじゃない」
コン、と音を立てて皿が置かれた。リラルドの伏せたまぶたが痙攣するように動いた。
「……分かってんよ、許されねぇことくらい。でも、せめて……このくらいって、思ったんだよ」
少し震える声には後悔が滲んでいた。
ナーサは大鍋を乱暴に机に置いて、立ち上がった。
「される方の気持ちは考えてない? 許さなきゃって、プレッシャーになるとは思わないの?」
「……そんなつもりじゃ」
「あたし、魔法薬学の下準備、嫌だと思ったことないの。虫を触ったり、手が汚れるのも平気……だから、交代でやろう。ペア、なんだし」
リラルドは唇を噛んで、それでも微かに頷いた。
根を刻むトントンという規則的な音が教室に染み入る。それ以上、言葉は交わさなかった。けれど、気まずさは少しだけ紛れた気がした。
薬を煎じ始めてから、ややあって教室のドアが軋んだ。
もう来客が来たのだろうか。一区切りついてから目をやると、ドアのすぐ側で、かっちりとした白い軍服姿の男性が佇んでいた。蝋燭の弱い光をも照り返す、輝かしいサンゴールド・ブロンド。
ナーサは目を細めて、小さく息を呑んだ。
「──ケイレブ?」
いつも柔らかな物腰で微笑みを浮かべていたケイレブ・ヤックスリーと、突如この場に現れた彼が同一人物なのか、確信が持てない。
軍靴の硬い足音が規則正しく刻まれ、距離を詰めてくる。
「ああ。しばらくだ」
温度のない声だった。表情も仮面を貼り付けているように変わらない。
卒業式の日、別れを告げて以来、もう二度と会うことはないだろうと思っていた、兄のようだった人は何の感情も見せない。教室を一望すると、最後に彼の弟に視線を止めた。
最後に三人で顔を合わせたのは、期末試験の結果が発表された日だった。思い出すと、胸が冷たくなる。ナーサは乾いた口を、そっと閉じてリラルドを見た。彼の方でも来訪を知らなかったのか、兄を凝視している。杖を握りしめているが、火加減が目に入っていない。
細かく泡立ち始めた鍋の中身が膨れあがるのを見て、ナーサは素早く杖を振った。泡の勢いが鎮まり、リラルドはハッと目を見開いた。
「……悪ぃ」
「ううん。あたしが火加減調節するね」
大丈夫か、と口にすることは躊躇われた。血の気を失った白い顔。なのに、目だけが異様に光っている。
何度か見たことがある、危険な兆候だった。
「……なるほど」
低い声が落ちた瞬間、リラルドが机に手を叩きつけた。カタカタと実験器具が音を立てる。やっぱりだ、とナーサは身を竦めた。
「……なんで、てめぇが来てんだよ。何しに来た? 俺を笑いに来たのか?」
「あいにくと、そんなに暇ではない」
突き放すようなケイレブの声に、この兄弟の溝はまだ埋まっていないのだと理解した。もう自分には何をすることもできないと分かっていた。
ナーサは二人から視線を外し、大鍋にだけ注意を向けた。毛虫とニガヨモギを投じてかき混ぜながら、ヒルの汁を加えた。
ふと影が落ち、顔を上げると、ケイレブが鍋の中を覗き込んだところだった。ナーサが飛び退くように離れたのも気にせず、軽く頷く。
「縮み薬か。いい出来だ。魔法薬学は共同作業が原則だが、任せているのか。それとも──頼っているのか?」
ケイレブは弟を見た。責める口調ではない。ただ、確認するように言う。
「今は、あたしが担当しただけです。授業でも、今も……順番に作業してます」
咄嗟にそう口にした途端、ナーサは息を止めた。
(今、あたし──どうして。関係ないはず、なのに)
胸の奥がじくじくと熱を帯びて、言葉が勝手にこぼれた。震える手で、口元を覆い隠す。そろりと見ると、リラルドは奇跡を目の当たりにしたような顔でナーサを見つめ、ケイレブはそんな弟を推し量るような目を向けた。
リラルドは慎重に大鍋に杖を向け、ゆっくりとかき混ぜ始めた。ナーサはホッと胸を撫で下ろした。
「そっち、任せるね。機材、洗っておくから」
洗い場に汚れた機材を置いていくと、ケイレブがすぐ横に立った。
「洗い物をするので離れてください。汚れてしまいます」
ナーサは目を合わさずに言った。けれど、ケイレブは微動だにしない。
目を合わせれば、また思考を覗かれる──そんな鋭い視線をひしひしと感じる。躊躇いながらもローブとジャケットを脱ぎ、腕まくりをした。ひやりとした空気が肌に刺さるようだ。
「ロウルは、君にご執心のようだね」
「何のことですか?」
「宴でリラルドが君を誘ったのは我が家の意向だが、新聞の件は関わりがない。そのことは明確に伝えておこう」
「……そうですか」
洗う手を止め、しばし水音に聴き入っていた。
我が家の意向──好きでこんなことしてると思っているのかと言ったリラルドの声が、頭に蘇る。
(あたしも……『おじいさま』からの言いつけには、逆らえなかった)
「疑わしい人物は調査を終えた。カーヴェル・ロウル以外は」
洗い終えた器具を全て机に積み重ね、ナーサはぎこちなくケイレブの方を向いた。視線を合わせるのはやはり怖く、彼の胸元辺りを見た。
左胸に刺繍された天秤と、銀の鎖の意匠。あの時、クラウチ氏が冷ややかに告げた言葉を思い出した。
──ルクスの鎖が、彼を勝ち取った。
「それで……何が言いたいんですか? あの新聞を大広間に貼り出したのは、あの人かもしれないけど……リークしたのは別な誰かじゃないですか。だって、ロウルに何の得があるの?」
ケイレブはすぐには答えなかった。リラルドがチラチラとこちらを見てきたが、もう大鍋への注意を怠ることはなかった。
ナーサは手を拭き、ジャケットとローブを羽織り直した。視線を落としたまま、無言でケイレブの脇をすり抜ける。
大鍋のもうもうとした湯気が少なくなってきている。中の液体の粘度が増していた。
リラルドが最後に杖を振り、緑色の薬が完成した。
手で汗を拭うと、彼の口元が微かに緩んだ。小瓶に移し入れると、ナーサはそっと液体を揺らした。色といい、粘度といい、完璧な出来映えだった。
「スネイプ先生を呼んでくるね」
ナーサが後ろを向いた途端、研究室のドアが開いた。まるでドア越しに聞いていたような正確さに立ち竦んでいると、先生はケイレブに目を留めた。
「スネイプ先生。お久しぶりです」
慇懃に礼をする教え子に、スネイプ先生は怪訝な顔をした。
「ミスター・ヤックスリー。お二人はどうした」
「校長のところです。来年度の教員の人事について話があるとのことで」
ナーサは懐中時計を開いた。五時三分前。先生の来客はケイレブの連れなのだろうと察し、二人に一歩近づいた。
「スネイプ先生、縮み薬は完成しました。あたし達、これで失礼してもよろしいですか?」
「いいや、ミス・マルフォイ。君とミスター・ヤックスリーには、まだ残ってもらう必要がある」
先生の黒い目が、ナーサの目を覗き込んだ。全てを呑み込む、暗闇のような目にさわさわと寒気が走った。