【予言の子が殺されたIF】此は最果ての地 作:琳音(@rinne_1218)
魔法薬学教室を出て、大広間への階段を上がっていく頃には、ナーサはリラルドと肩を並べて歩いていた。婚約という結びつきを明確に否定したはずなのに、ヤックスリー兄弟の隔絶を見た図書館での出来事以来、初めてぎこちなさを感じない。身体を取り巻く熱のせいだろうか。
「──さっきの。余計だったか?」
出し抜けにリラルドが尋ねてきた。僅かな不安が滲んだ声音に、ナーサは足を緩めてリラルドの目を見た。
「そんなことない。正直、あんな風に言ってくれるなんて思わなかった」
「……勢いだよ。あの一瞬、何も考えてなかった」
「怖く、なかった?」
「そりゃ、怖ぇよ。寮生活で安心したわ……家にいたら、きっと父上に殺されてっからな」
かすれた声で言った後、リラルドの喉が大きく動いた。けれど、思いを振り切るように頭を振る。
「……でも、お前だって同じだろ。マルフォイ卿にも詰められてたし」
「うん。だからね……本当に、嬉しかった……ありがとう」
「いや……」
リラルドは鼻から下を片手で覆い隠し、大きく顔を背けた。うなじまで真っ赤に染まっている。
「でも、さ。スネイプ先生も、ひでぇよな。ケイレブだけでもギョッとしたのに、父上達まで来るなんて思ってなかった」
息を吐く間も惜しいとばかりに早口で言う。
(褒めたり、お礼を言うと、こんな風だった……ちっとも変わってない)
思い出して、ナーサは小さく笑った。
「そうだね。あたしも『あの人』と会うなんて、思わなかった。
ねぇ、ケイレブとは……あの時のこと、まだ引きずってるの?」
リラルドはそろりと顔から手を離すと、ナーサを見つめた。視線が鋭く尖ったが、長い吐息を吐き出した。
「……ああ。でも、自分のせいだなんて思うなよ。あいつのやり方が許せなかったからなんだ」
すれ違いざま、スリザリンの女子達が振り返ってきた。ヒソ、と耳打ちして含み笑いを漏らす。二人は目を見交わし、再び階段を上がり始めた。
スリザリン寮に戻るつもりなら、階段を上がる必要はないはずだ。
「まだ、時間ある? よかったら、少し歩かない? まだ、身体が熱くて……変な感じなの。気持ちを落ち着かせたくて」
「図書館……いや、中庭にでも、行くか。少し離れて歩いた方が、いいよな。俺が先に」
ローブの肩がずれて、リラルドは振り返る。いつの間にか、彼のローブの袖を掴んでいたのだ。どうして手を伸ばしたのか、自分でもよく分からない。襟を直すリラルドの瞳が、何かを確かめるように揺れた。
「……隣にいて。大丈夫だから」
胸の音が一際大きく、速くなる。好きだから、ではない。ただ──あの場を一緒に耐えた人と、わざわざ離れる必要はないと思った。
*
のしかかるような重い暗闇が中庭を覆っていた。月も、星明かりも厚い雲に隠され、四つの隅にかけられた燭台の灯だけが頼りだった。杖明かりも灯さず、二人は足を進めた。遠く大広間の方から、ざわめきが響いてくる。
「これから、どうなるんだろう」
背の高い木の幹に寄りかかりながら、ナーサは呟いた。わざわざ学校まで出向いてきた大人達が、このまますんなりと終わらせるとは思えない。
リラルドはこめかみに手をやると、トントンと指先で弾いた。
「……さあな。けど、お前の言った通り、本人同士の意思は絶対だからな。圧は、かけられっかもしれねぇけど」
「レグルスおじさまにも、連絡してみないと。まだ、ママのことで、返事がこなくて……それどころじゃなかったのかもしれない。あたしのせいで、そこまでご迷惑がかかってるなんて思わなかった」
『銀の矢』が届けられて以来、十日ほどレグルスからの連絡がない。ルシウスの脅しを思い出すと、風が刺すように感じられた。二の腕を擦るナーサをチラチラと見ながら、リラルドがボソリと言った。
「あのさ。多分……ブラック卿は、そんなこと気にしねぇと思う」
「どうして?」
「いや、だってさ……聞いたことねぇの? あの人の……兄のこと」
「おじさまの、お兄さま?」
ナーサが目をまたたくと、リラルドは地面をかかとで削るように何度も動かした。
「これ、別に悪口とかじゃねぇからな。ブラック卿は『兄殺し』だって言われてる」
「……あに、ごろし?」
ナーサはその音を繰り返す。舌先を転がった瞬間、不吉な意味を理解した──兄殺し。小さな震えが湧き上がる。
シュッ、シュッと乾いた音が響く。目を伏せたリラルドが、しきりに指を擦り合わせていた。
「噂だよ。それが本当なら、お前との噂なんか、規模が違う。そうじゃないなら、今さらだろ」
ブラック邸にあった家系図。レグルスの名の横には、焼け焦げた跡があった。
不意に期末試験の結果発表の日、感情を爆発させたリラルドの声が──ケイレブの頬を伝った血の色が鮮やかに蘇り、身震いした。
「……そう、なんだ」
「悪ぃ……」
「ううん、謝らなくていい。レグルスおじさまは隠すような人じゃないから……直接、確認するよ」
ナーサは懐中時計のネックレスを撫でながら、深く息を吐いた。不安がないと言えば、嘘になる。けれど、果たしてそれが真実なのか。どんな事情なのかも分からない。
(──レグルスおじさまは、あたしに選ばせてくれた。だから、あたしもおじさまに選んでもらう。話すか、隠すか……噂だけで切り捨てるような真似は、しない)
その時、リラルドが唇に人差し指を当て、目配せしてきた。回廊に鋭い目を向けている。少し遅れて、足音と誰かの話し声が聞こえてきた。
杖明かりが見えた。中庭に踏み入る、乾いた草を踏みしめる音。ナーサはもたれかかっていた木から身体を起こし、音を立てないようにしゃがんだ。
「……あなたと、ここに来るなんてね」
「ああ。ここは──『彼』との場所だったね。よく、君達を見かけた」
リラルドと二人、低木の陰へしゃがんだまま移動しているうちに、光と話し声がどんどん迫ってくる。
「……疲れてるみたい」
「問題はない」
「……ちゃんと眠れてるの?」
「必要なだけは」
淡白なやりとりの後、乾いた木の葉擦れが鳴った。波のように音が引き、静けさが戻る。
それを破るのではなく、溶け込むような息遣いが漏れる。
「私のことばかりだな。君の方こそ……厄介事を頼んでしまって、すまない」
「ううん。ナーサは、私にとっても妹みたいなものだから」
飛び出した自分の名に、ナーサはそろりと頭を上げた。
杖明かりは、二つ──リンジーとケイレブの横顔を認めた。「おい」とリラルドが囁いたが、ナーサは立ち上がって杖明かりを大きく灯した。
「こんばんは、リンジー。ケイレブ」
リンジーは息を呑んで僅かに身を引いたが、ケイレブの方は微動だにしなかった。そよと吹く風に揺れるサンゴールドブロンドが、余計に静けさを際立たせる。
「こうしてここで会うのって、もう三度目だよ……私達、気が合いすぎでしょ」
リンジーがほんの少し口角を上げた。ジャニスと二人、デニスを待ち構えていた時のこと。一人雨に打たれる彼女を見た時のことを思い出す。
「少し、気持ちを落ち着かせてたの」
ケイレブは低木に目を向け、僅かに顎を上向ける。
「リラルド、君もいるんだろう。出てきたらどうだ」
「……気づいてたのかよ」
舌打ちと同時にリラルドも立ち上がった。ローブの裾を払い、じろりと兄を睨みつける。
「注意していれば、音で分かる」
ケイレブは表情一つ変えない。今にも兄弟の争いが始まりそうなひんやりとした空気の中、リンジーは静かに微笑んだ。
「ヤックスリー卿とマルフォイ卿が、揃って来たんだってね」
「ああ。婚約の話。断った」
「あたしも」
リンジーは隣のケイレブを見上げ、小さく肩を震わせた。
「……ふふ。よくやったって言ったら、怒られるかな。でもね、自分の力で立てたんだ。あなた達のこと、誇らしいよ」
「ローズ」
「はいはい」
叱るにしては穏やかすぎる呼びかけだ。リラルドは兄と婚約者を呆れたように見つめ、ふいっと横を向いた。
(ローズ……薔薇のこと?)
二人だけの暗号か何かだろうか。ケイレブに寄り添うリンジーの表情は柔らかいままだ。大広間で彼の胸倉を掴んで、スコットランド英語を浴びせた時とはまるで違う。これが二人の本来の空気感なのだろう。ナーサには立ち入れない場所。置いていかれるような焦燥感を募らせた一年生の頃を思い出す。けれど、もうそれを寂しいとは思わなかった。
「そろそろ夕食だよ。行こう、リラルド」
「お、おぅ……」
リラルドの肩がピクンと跳ね、ケイレブはそんな弟に僅かに目を細めた。
「──ナーサ」
ケイレブの呼びかけに足を止めた。スイッと足元に杖明かりを向けた彼の顔は、濃い影に覆われてしまった。
「宴の夜、我が家の揉め事に巻き込んだのは、私の責任だ……すまなかった。君がいてくれたのは、救いだった」
ナーサは小首を傾げて、それからリンジーとミケイラが一触即発だったことを思い出した。
「リンジーは友達だから」
「今後は、君を巻き込まない。我が家の問題は、我々で片をつける。そうだな?」
最後の言葉は弟に向けたものらしい。リラルドは眉根を寄せ、ローブの袖を握りしめた。
「言われなくても、そのつもりだ」
「それなら、いい」
二人のやりとりは決して穏やかとは言えない。けれど、身体を強く縛っていた緊張の糸がほどけ、ナーサは頬を緩めた。