入学の前日までには全ての学用品が揃った。ナーサは朝から晩まで、準備品のリストを繰り返し確認した。
マルフォイ家の家紋が刻印された革製のトランクは、ナーサの背丈の半分はある大きなものだ。それが今や教科書や羊皮紙などの学用品、大量にあつらえた衣類でパンパンに膨れあがっていた。詰め込むほどにホグワーツへの期待値も高くなる。
制服のローブに袖を通し、姿見に自分を映してみた。もうすっかり馴染んだ黒檀の杖を構えてみると、一人前の魔法使いに見える。
その時、ノックの音が響いた。
「どうぞ」
今日は使用人の出入りが激しい。ナーサは振り返らずに生返事を返した。
「もう準備は整った?」
入ってきたのは母だった。ポーズを取っているのを見られたのが、気恥ずかしい。慌てて杖を下ろして誤魔化し笑いを浮かべた。
「ええ、お母さま」
「二人きりの時は、ママでいいよ」
二人だけの秘密めいたやりとりにナーサはにっこりと笑った。
「はい、ママ」
「二人きりの時は、そう呼んで。だって、たった一人の愛しい子なんだから」
ナーサは子供の頃のように、母の胸に思いきり抱きついた。
厳格な祖父には家族でも節度を持って接するよう言われている。特に使用人の目がある屋敷内では、こんな風に抱きつくなんて考えられなかった。
久々に触れ合った母の髪や衣類からは、淡い百合の香りが漂った。ナーサは思わず顔を離して、母その人であることを確かめた。気高いが、何処か冷ややかな甘さ──記憶の中にある母は、こんな香りではなかった。
「ママ、香水変えた?」
「ええ……おじいさまから頂いたの。とてもいい香りでしょう」
「いい香り。でも……」
思わず失礼なことを口にしてしまい、ナーサは口を塞いだ。けれど、母は優しく頷いた。
「分かってる。でもね、おじいさまには言っちゃ駄目。折角贈ってくださったのに気を悪くさせてしまうから。
それにしても、もうホグワーツに行く年齢だなんて……こんなに立派になって。ローブ姿なんて、本当にドラコにそっくり……」
眩しそうに目を細めた母が、ぽつりと漏らした。
祖父が父の名を口に上らせることはなく、母も思い出がつらすぎると言って語ることはなかった。優しかった父の記憶は時の流れと共に遠ざかった。もう濃い霧の中にいる人のように、ぼんやりとしかその姿は思い出せない。
けれど、確かに父は存在したのだ。ナーサは声を弾ませた。
「ねえ、パパもスリザリンに選ばれたんだよね? ママもスリザリンだったの?」
「ううん。ママはホグワーツには通ってないの……身体がとても弱かったから。パパと一緒に通えたら、どんなに楽しかったかな」
以前、祖父が「ホグワーツに通ってもいない母親」と言っていたことを思いだし、ナーサは心がキュッと締めつけられたように感じた。母は遠い日を懐かしむように、ゆっくりとまばたきする。
それから、ナーサに笑いかけた。
「ナーサはどの寮に入りたい?」
「おじいさまはマルフォイ家は代々スリザリンだって言ってた。あたしもそうだと思う」
考えるでもなく、ナーサは言い切った。しかし、何でも赦されるような穏やかな目を見ていると、心にしまい込んだ小さな不安の種がくすぶりだした。ドアの方をチラリと見ると、声を落とした。
「……けど、もし……もしも、選ばれなかったら、どうしよう」
祖父の落胆や失望を思うと、胃がチリチリと痛んだ。促されてソファに掛けながらも、ナーサは母の横顔が見られなかった。
母の手が、そっと膝に置かれた。
「ナーサ、スリザリンに選ばれたら名誉なことだけど、他の寮だってきっと同じように素敵なところだよ。
ママはね、グリフィンドールに憧れていたの」
「グリフィンドールっ?」
ナーサは思わず訊き返してしまう。短慮な行動ばかりする無謀な連中が行くところと聞かされていた。
「だから、内緒ね」と母は人差し指を口に当てて、クスクス笑いながら続けた。
「グリフィンドールは、勇気を持って自分の道を切り拓く寮。ママはいつも流されてばかりだったから、勇敢になりたかったのかもしれないね。
そういえば、ホグワーツのあの人……パパの友達だった彼も確か」
「パパったら、グリフィンドール生なんかと仲よくしていたのっ?」
ナーサは目をぱちくりさせた。祖父が知っていたら、きっと叱責されたんじゃないだろうか。
すると、母の顔から笑みが消え、奥の奥まで見透かすような目でナーサを見つめた。何か気に障ることを言ってしまっただろうか。祖父の鋭い目とは別種の──風に揺れても決して折れることのない、しなやかな強さを感じる。
「ナーサ」
「……はい」
身をすくめたナーサだったが、予想に反して母の声は穏やかだった。
「スリザリンだから立派な人ばかりいるわけじゃない。それ以外の寮だから駄目なんじゃない。
人は皆、違うの。いいところもあれば、悪いところもある……完璧な人なんか一人もいないの」
母の声は叱るでも責めるでもなく、ただ静かに言い聞かせるように響いた。
「だからね、自分が好きだと思える部分を見つけたなら、その人を大事にしなさい。寮の名前だけで切り捨てるなんて、勿体ないよ」
「……おじいさまに叱られても?」
釈然とせずに訊き返した。これまでのナーサにとって、それこそが明確な判断基準だった。
すると、母は頷き、励ますように肩に手を乗せた。
「これから家を離れて、少しずつ自分の世界をつくっていくんだから。おじいさまだって、最後まであなたの側にはいるわけじゃないでしょ? 誰かに言われたからじゃなくて、自分で選んでいくの」
「うん……じゃなかった。はい、ママ」
母は目を見開き、それからクスクスと笑いだした。子どもの頃の口癖を思い出したのだと気づいて、ナーサの口にも笑みが浮かんだ。
二人だけの時間はこの上もなく楽しく、気づけば午後九時を回ろうとしていた。こんな風に母と二人きりで語らう機会は、この先何度あるのだろう。少しだけ、しんみりとしてしまう。
母はおもむろに手のひらに収まるサイズの小さな箱を取りだし、ナーサに差しだした。
「あなたに、これを──入学祝いに用意したの。気に入ってくれるといいんだけれど」
ヤスリで丁寧に磨き上げられた白い木箱を開けると、星座が刻まれた小さなネックレスが収められていた。
「小ぶりだけど、懐中時計になっているの」
「うわぁ……とっても、きれい……」
白銀の蓋に刻まれた星座は星のかわりに小さな宝石が埋め込まれ、線が細く滑らかに刻まれている。まるで夜空に浮かぶ星そのもののようだ。
母は僅かに手首を傾けて微笑んだ。しゃら、と澄んだ音を立てたのは同じデザインのブレスレットだった。
「もしかして、お揃い?」
「そう、対の魔法をかけてもらったの。あなたに何かあればママのブレスレットが。ママに何かあればあなたのネックレスの宝石が光を放つ仕掛けになってる。
遠く離れても、ずっと繋がってるから。ピンチの時は、ママが応援していることを忘れないで。きっと無事に帰ってくるって約束してね」
早速つけてみると、首元に心地よい冷たさを感じた。少しだけ冷たい母の手のようだ。ナーサはネックレスを手の中に包み込んだ。
「ありがとう……ホグワーツは楽しみなんだけど、ママと離れるのが、ちょっとだけ心細かったの……今まで、ずっと一緒だったから。
でも、ママと一緒に行けるみたいで、とっても嬉しい」
「何かあったら手紙を書いてね。もちろん何もなくても待ってる。楽しい思い出をたくさんつくってね」
そう言って、母は名残惜しそうにもう一度ナーサを抱きしめた。
その時、ドアの向こうで微かな衣擦れを感じた。様子を窺おうと僅かに身じろぎしたナーサだったが、急に抱きしめる腕の力が増した。まるで視線を遮るように抱き寄せられ、腕の中に閉じ込められる。
気づけばドアの向こうの気配は闇に溶けるように消えていた。