【予言の子が殺されたIF】此は最果ての地 作:琳音(@rinne_1218)
ロンドンには珍しく冴えざえと晴れ渡った夜だった。だが、目を凝らしても星は数えるほどしか見えない。街の光が空に滲み、暗闇はどこまでも遠く押しやられていた。一人ではないのに、ポケットの中の杖が手放せない。背後から足音が響くたび、振り返ってしまう。
何度目かの角を曲がった時、リリーの視線とぶつかった。
「……スネイプ先生も、休暇でこちらに?」
「いいえ。彼は夏休み以外は、いつもホグワーツで過ごすの。お陰で気ままにやらせてもらっているわ」
住宅街への路地は街灯に照らされているものの、大通りとは打って変わってうら寂しい。ナーサはリリーと手が触れ合うほどの距離で歩きながら、ポケットの中で杖を強く握りしめた。
リリーが右手を掲げ、文字を描くように人差し指を動かした。集約した光が枝分かれし、街灯へと走る。夜の闇が薄れ、ナーサの胸が少し緩んだ。
「杖なし魔法、練習してる?」
「はい、本当に少しずつですけど。前に来てくれた時、言うのを忘れていたんですけれど……杖なし魔法に命を救われたんです。お見舞いに来てくれた日、箒に宙づり状態で客席に突っ込んで……杖なし魔法がなかったら、きっと……」
ナーサは言葉を切った。思い出すだけで背筋が冷える。リリーがそっとナーサの肩に手を置いた。
「無我夢中の時ほど、底力が分かるの。あなたは怖かったでしょうに、杖なし魔法を選べた」
ナーサはリリーの顔を見つめた。温かな眼差しだった。
「普通の子なら、泣き叫んで終わる。でも、あなたは違った。だから、大丈夫。何があっても切り抜けられるわ」
両隣の家を押しのけるようにして現れた邸宅が見えた途端、弾む息遣いに押されるように駆け出した。窓という窓に煌々とした明かりをたたえ、屋敷全体が諸手を広げて歓迎してくれている。
扉の前に佇んでいるのは見間違いようがない。この数ヶ月、会いたくてたまらなかった人。
「レグルスおじさま……!」
石段まであと数歩というところで、見えない壁に阻まれたように立ち竦んだ。喉が震えて、声が出ない。
潤んだ瞳で一心に見つめていると、レグルスは一歩、また一歩と近づいてきた。
「おかえり、ナーサ。君の帰りを待っていた」
「ただいま、戻りました……おじさま」
おずおずと近づいていくと、レグルスは静かに両手を広げた。
新学期の駅では、ナーサの求めに応じて手を添えるだけだったその人が──今は、躊躇いなく腕を開いて待ってくれている。
ナーサはふるりと震え、次の瞬間、その胸に飛び込んだ。レグルスの腕がそっと背を包む。衣類から漂う、ほのかなシトラスの香りがあまりにも心地いい。鼻の奥まで吸い込んで、ナーサは目を瞑った。髪を、背中を優しく撫でられた途端、どっと涙があふれ出た。
レグルスのローブを握りしめたまま、ナーサはしばらくの間、声もなく泣いた。静かに見下ろすレグルスも、少し離れたところから見守るリリーも、何も言わなかった。
やがて目の奥の熱が遠のいてから、ナーサはゆっくりと顔を上げた。小さなしずくを睫毛に宿らせたまま、レグルスの顔を見上げる。
「……ずっと、お会いしたかった。今、ようやく家に帰ってきたんだって──そう思えました」
滲んだ視界を何度かまたたくと、レグルスは重たい吐息を漏らした。
「たった三ヶ月なのに大きくなった。見違えたよ」
濡れた睫毛をそっと拭いながら、ナーサは口元を綻ばせた。
「ありがとうございます。おじさまはお変わりないようで何よりです……ごめんなさい。お召し物を、汚してしまいました」
染みのついたスーツに気づいて詫びると、レグルスは首を振った。
「そんなもの構わない。帰りが遅かったから心配していた」
リリーに目を向けたレグルスの目が僅かに揺らいだ。
「……何か、あったのか?」
「ごめんなさい。迎えに行くのが遅くなってしまったの。でも、一人じゃなかった。マクドゥガル家の令嬢と、ヤックスリー家の令息が一緒にいたわ」
「──ヤックスリー」
レグルスの目に影が落ちた。夜風よりも冷たいその声音に、ナーサの肩が小さく跳ねると、レグルスは思い出したように抱擁を解いた。
「家の中で話そうか。ここは冷える」
リリーからトランクを預かると、レグルスはドアを開けた。暖かな空気が肌を撫でる。暗い玄関ホールに滑り込むと、三人は物音を立てないように注意しながら食堂へと階段を下りていった。
パチパチと音が聞こえる。奥の暖炉が勢いよく燃え盛っている。ナーサは食堂を見回し、ちょこちょこと動いている小さな影を認めた。
「クリーチャー」
駆け寄ると、彼はその場で小さく跳ね上がった。しょぼくれた灰色の目を見開いて、スープ鍋をかき混ぜていたお玉を取り落とした。すぐさま踏み台から跳び下りると、彼はナーサのすぐ前で丁寧にお辞儀した。
「ナーサお嬢さま! おかえりなさいませ」
「クリーチャー、食事の用意を」
レグルスがリリーのために椅子を引きながら、声をかけた。クリーチャーの唇が僅かに歪み、ナーサは夏休みの出来事を思い出した。マグル生まれの出自を差別する言葉を。
けれど、事前に言い含められているのか、クリーチャーは言葉を呑み込んだ。
やがて食卓に温かな食事が三人分並んだ。
「おじさま、食事もせずに待っていてくださったのですか? こんなに遅くなったのに」
声が震えてしまう。去年、マルフォイ家に帰宅すると食事はすでに終わっていて、ルシウスと母の前には紅茶だけが並べられていた。
「一人の食事にも飽きた。君の話を聞きながら、味わいたいと思ったんだ」
気づけば、皿は空になっていた。それでも話すことが次々と浮かんできて止まらない。
姉のように親しくなれたリンジー。アデリナやイアン、クィディッチのチームメイト達。学期始めに仲違いをしていたルームメイト達とも、今ではすっかり打ち解けたこと──レグルスとリリーは何度も頷きながら聞いてくれた。
「……それで、グリフィンドール以外にも友達ができたんです。ルークといって、ディゴリー先生の息子なんです」
その名を口にした途端、ナーサの唇が自然と弧を描いた。テーブルに飾られたキャンドルの火が、俄に熱く感じる。レグルスの視線がナーサの頭を撫で、リリーは「あら」と声を上げた。
「リボンの色、薔薇色に変わったわ」
「本当っ? 持ち主の感情で、色が変わって……このリボンも、その彼からもらったんです」
ナーサはリボンに手を伸ばし、微笑んだ。
「彼は、学校で嫌な噂が流れた時も……一人だけ、声を上げてくれたんです」
「どうしたの、レグルス?」
ナフキンを口に押し当てたリリーが訊く。見れば、ワインのグラスを揺らすレグルスの顔が沈んでいるようだった。
「まさか異性の友人だから気になるの?」
リリーの声が少し震えているのは、笑っているのだろうか。緑色の目が水面のようにきらきらと光っているのを見て、レグルスは苦笑した。
「確かに、それもあるかな。少しばかり心配でね」
「でも、ただの友達なんです。彼もそう言っているし」
背筋を伸ばし、膝を両手に置いて答えると、レグルスは微かに微笑んだ。
「……君の交友関係に口を出すつもりはない。私が心配してるのは、そのプレゼントなんだ。
どれだけ見事に感情を隠していても、どんな気持ちでいるのか一目瞭然──私の知っている七変化の少女が、まさにそういうタイプだった。素直な、いい子だった……けど、今の時代には生きづらそうだった」
「ドーラのことね」
リリーの声に、理解と重みが加わった。目を瞑ったレグルスが、静かにグラスを傾ける。
「でも……あたし、このリボンが好きなんです」
ナーサはテーブルの下で握りしめた手の指を重ね合わせた。
「感情を人に見せると、弱みになる……それは重々承知しています。けど、それでも……あたし、このリボンを身に着けたいです」
レグルスは波打つグラスの液面を見つめ、音もなく置くと、ナーサを見つめた。
「無論、君の意見を尊重する。水を差すようなことを言って、すまない」
「いいえ。心配してくださって本当に嬉しいんです……なのに、本当に申し訳なく思っています」
「ヤックスリー家の子とも、親しいのかい?」
不意の質問に、ナーサはハッと息を呑んだ。日刊予言者新聞の記事にもなった。レグルスは当然、リラルドのことを知っているに違いない。あるいは、自分よりもずっと──ナーサは言葉を探しながら口を開いた。
「……とても大切な人達です。色々あって、離れようとしたけど……でも、今はもう一度だけ、信じたいって思っています」
「そうか。君が決めたのなら、私は何も言わない。クリーチャー、二人に紅茶とデザートを出してくれないか」
レグルスの声は穏やかなままだった。
温かなスコーンにたっぷりジャムを塗り、クリームを落として、かぶりつく。
ロウルにされたことも、母の見舞いのことも、そしてリラルドから聞いたレグルスの兄のことも──まだ、話す気になれなかった。今は、ただ口内に広がる甘さに浸っていたかった。