【予言の子が殺されたIF】此は最果ての地 作:琳音(@rinne_1218)
ホグワーツから帰った、その日の夜。ナーサは夢を見た。
ベッドとテーブルだけが置かれた狭いワンルーム。カタカタと音が鳴る換気扇の下に、赤毛の女性の後ろ姿が見えた。包丁を持つ手はたどたどしく、刻む音もゆっくりと不規則だ。まな板から大きな鍋に野菜をドサドサと移すと、ひと仕事終えたというように額に手をやる。九時を回った壁時計から、ベッドの置かれた窓辺へと目線を移す。
「そろそろ寝る時間だよ」
不自然に盛りあがったカーテンに向かって声をかける。すると、もぞもぞと動いた陰から、幼い少女が顔を覗かせた。切り揃えられたシルバーブロンド。青灰色の瞳。
(──この子、あたし?)
ナーサは少女をまじまじと見つめた。四、五歳くらいだろうか。余分な布地のない、質素な服。目ばかりが大きく、尖った顎をしている。
「ママ。パパがかえるまで、おきてちゃダメ?」
幼児特有のたどたどしさはない。スコットランド英語だが、明瞭な話し方だった。
ナーサは女性に意識を向けた。身体はなくとも、視界が振り返るように動く。
「駄目よ、眠ってちょうだい。お仕事が長引いて、もっと遅くなるかもしれないもの」
(……ママ)
今よりもずっとほっそりとした身体つきだった。見慣れないマグルの服装に身を包んだ母は、『母親』と言うには若すぎた。暖炉の火に似た、金色みを帯びた赤毛が燦然と輝いている。それだけが唯一の装飾のように。
幼いナーサはベッドを下りると、母の元へ駆けていった。勢いのままに飛びつくと、そのまま甘えるように腕を絡める。
「ママ、おねがい。ずっとパパ、みてない。おかえりなさいっていいたいの」
ぴたりとくっついたまま、両手を重ねて懇願する。けれど、母は微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと首を振る。
「明日はクリスマスだし、パパの仕事もお休みだから、ずっと一緒にいられるよ。折角の休日に眠くて遊べなくなったら勿体ないでしょう?」
テーブルの片隅にはコップが三つ置かれている。部屋の壁には大きな作業着がかけられていた。
(……パパにも、会えるかもしれない)
期待が胸の奥でふくらんだ。
鍋をかき混ぜ始めた母の背中を見つめていた幼いナーサは、すごすごとベッドに戻った。言いつけ通りに布団の中にもぐりこんだが、窓から忍び寄る外気で鉄製のベッドが冷え切っているらしい。頭まですっぽりとくるまりながら、ガクガクと震えだした。
しばらくして母がタオルに包んだ何かを抱えてやってくると、亀のように頭だけを布団から覗かせた。
「湯たんぽを入れてあげる。足を温めたら、ぐっすり眠れるわ」
「……もう、なんにちも、あってないんだもの。パパのかお、わすれちゃいそう。パパだってあたしのこと、わすれちゃうよ」
唇を尖らせながら訴えると、母はくすりと笑ってベッドに腰掛けた。そっとナーサの前髪をかき上げ、滑らかな額から頬へと撫でていった。愛おしさにあふれた手つきだ。
「忘れっこないわ。だって、鏡を見て。あなたのお顔は、パパとそっくり」
「ほんと?」
ナーサはパッと目を輝かせた。そのこぼれるような笑みを見下ろしながら、母も顔を綻ばせた。
「ええ、そうよ。だから、ママはあなたといると寂しくないの。あなたの顔を通して、パパのことも見られるからね」
「……でも、それじゃあ、パパはママにあえなくて、さみしいでしょ?」
少し考えこんでから言うナーサに、母は内緒話をするように声をひそめた。
「いいことを教えてあげる。パパは心の目で、いつもママやあなたのことを見ているの。離れていてもずっと一緒なの」
「うそ、そんなの」
ふて腐れて顔を背けようとするナーサの頬を両手で挟んで、母は優しく続けた。
「いいえ。あなたもいつか愛する人ができたら、それが嘘じゃないんだって分かるはず。誰かを心から想うと、自分の中にその人を棲ませることができるの。自分の心を通して、ずっと側にいられるの。
だから、忘れないで。パパとママは、いつだってあなたと一緒にいるんだってことを。たとえ離ればなれになっても……いつ、何処にいたってナーサのことを想っているから」
突如として水の膜が生じたかのように景色が歪んだ。まばたきをするにつれ、波紋が重なりあうように歪みがより大きくなっていく。
(待って! まだ──)
叫び声は響かない。黒いインクのような染みがポツポツと落ちては滲んで広がり、辺りがどんどん暗闇に呑まれていく。
そして──。
*
ナーサはベッドから飛び起きた。ゆっくりと視線を動かし、自分が何処にいるのかを確かめる。
少しずつ鮮明になっていく視界はまだ薄暗がりの中にあったが、見慣れた部屋──グリモールド・プレイス十二番地にあるブラック邸だった。金髪の人形がベッドサイドの椅子に腰掛け、淡い笑みを浮かべている。
ナーサは額をそっと拭った。
(また昔の夢──前に、ママと二人でロンドンに向かっている夢を見た。でも、変……どうして小さかった頃のあたしも見えるの?)
半身を起こすと、腹部に鈍い痛みが走った。この痛みは前にも感じたことがある。
(……また)
周期が安定せず、月のものをすっかり忘れてしまっていた。今日にでもまた始まるのかもしれない。
はらりと布団を払うと、靴に足を伸ばす。素足に触れる革の硬さが、何とも言えず気持ち悪い。
(休暇中でよかった。下着、替えなきゃ。リリーからもらった痛み止めは、何処にしまった……? ひどくなる前に飲んでおかなきゃ)
ふらつきながら立ち上がると、窓が目に入った。僅かにカーテンが開いており、その合間からはうっすらと月明かりが差し込んでいた。
半開きなのが、妙に気にかかった。先にそちらへと足を向けると、青白い光が突如として揺らいだ。微かな違和感にカーテンに手をかけた途端、ナーサは息を呑んだ。
ほんの一瞬、風に揺れるように髪のようなものが揺らいだ。次の瞬間、形が崩れる──銀色の光が、滑るように窓から離れていく。窓ガラスに頬を押しつけたが、何も見えない。窓を押し上げ、冷たい夜気に身を乗り出した。けれど、光の欠片すらも感じられなかった。
「──パパ?」
思わず漏らした言葉に、ナーサはハッとした。
(今の、ゴースト?)
強い未練を残した者だけがゴーストになるのだと聞いたことがある。ナーサは祈るように胸の上で両手を重ねた。
「……パパ」
闇に溶け入る声に応えはない。住宅街の明かりは全て消えている。ほんの少し欠けた月明かりの中、ナーサは目を凝らした。けれど、揺れる影すらも見当たらない。
──パパとママは、いつだってあなたと一緒にいる。
母の言葉が脳裏にこだました。ナーサは静かに窓を閉めた。カーテンに手を伸ばしかけた手を緩め、開けたままにする。
薬を飲んで、着替えをすると、ナーサはベッドに潜り込んだ。また窓辺に銀色の光が見えることを願いながら。