【予言の子が殺されたIF】此は最果ての地 作:琳音(@rinne_1218)
グリンゴッツへ行こう。レグルスからそう言われたのは、祖母の資産を継ぐことを受け入れた三日後のことだった。
『漏れ鍋』の小さな中庭を抜けて、ダイアゴン横丁に足を踏み入れた途端、ナーサは息を呑んだ。
ロンドンのど真ん中だというのに、ローブ姿の買い物客であふれていた。すれ違う人とぶつからないよう、身体を横にして店先を通るだけで、威勢のいい「いらっしゃいませ」の声が飛んでくる。
頭上の羽音に思わず身を引いた途端、ナーサの脇を歓声を上げた子ども達が走り抜けていった。
雪のように白く輝くフクロウを目で追っていると、右足に軽い衝撃があった。五歳くらいの男の子が、尻もちをついていた。
「あっ……ごめんね。大丈夫?」
男の子は今にも泣き出しそうに鼻をひくつかせていた。
今まで自分よりも小さな子と接したことなんてない──開きかけた口から次の言葉が出てこず、ナーサは固まった。
足早に駆け寄ってきたリリーが男の子の前に屈み、両手を差し出した。
「お手々つないで、たっちできる?」
「……できる」
手を取った男の子が立ち上がると、リリーは笑いかけた。
つられたように男の子も笑みをこぼす。欠けた前歯があどけない。
「うん。泣かないの、偉いね。このお姉さんにも『ごめんね』できる?」
男の子はこっくりと頷き、ナーサを見上げた。
「おねえちゃん、ごめんね」
胸がキュッと痛んだ。また元気よく駆けだした子どもに、リリーは手を振る。愛しさと哀しみが同居しているような顔だった。
ナーサは反射的に上げた手を見つめ、戸惑いながら下ろした。自分も手を振っていいのかどうか、分からなかった。先を行くレグルスが通りの端に寄り、こちらを見守っている。
「リリー、ありがとうございます。どうしてあげればいいか、分からなくて。助かりました」
リリーと並んで歩きながら、ナーサは声を振り絞った。
「一人っ子なんだもの。無理ないわ」
「違うの。あたし……皆が当たり前に知ってることも、分からなくて……ダイアゴン横丁に来たのも初めてなんです」
リリーはゆっくりと目をまたたいた。
「入学準備はどうしたの?」
「仕立て屋と杖職人が来たんです。教科書も多分、取り寄せたんだと思います」
手袋をしているのに指先が冷たい。ナーサは両手を擦り合わせながら、レグルスに近づいていった。
「……すみません。お待たせしてしまいました」
「いや。すごい人混みだろう」
真横から来た人の肩がぶつかりそうになった途端、ごく自然にレグルスの腕の中に引き寄せられた。ほわっと温まった胸が、すぐに冷え込む。
「……ありがとうございます」
「何か、あったのか?」
レグルスの目がナーサから、リリーへと向かった。
寒いはずなのに、顔だけがやけに火照る。ナーサは横髪をかき上げ、そっと頬を覆った。手袋越しにもじんわりと熱い。
「世間知らずだなって、実感したんです」
レグルスはじっと見つめていたかと思うと、不意に帽子を目深にかぶった。
「君の年でそれに気づけたなら早い方だ」
「……え?」
レグルスは小さく咳払いをした。ナーサの背に手を添えて、ゆっくりと歩き出す。
「私が初めてマグルの店を訪れたのは二十歳を過ぎてからだ。貨幣価値もよく分からず、毎度高額紙幣を出していた」
後ろから笑い声が漏れた。口を覆ったリリーの手元が細かく震えている。
「一枚で十分なのに、この人ったら何枚も重ねて出してた。店員さん、偽札かしらって顔で、しつこく透かして眺めてたのよ」
レグルスはチラリとリリーを見てから、深々と溜め息を吐いた。
「足りないよりはいいと思ったんだ」
「ねっ? ナーサ、育ちによって知らないことがあるのは当たり前。逆にあなたが当然のように分かっていて、他の人が知らないことだってたくさんあるわ」
ナーサは小さく笑った。レグルスでも失敗したことがあるという事実に、ほんの少しだけ胸を覆う霧が薄くなった気がした。
「用を済ませたら、ダイアゴン横丁を見て回ろうか。君の気に入りそうな店に、いくつか心当たりがある」
「そうね。初めてなら、その分もっと楽しめるはずよ。お勧めのアイスクリーム・パーラーもあるの。きっと気に入ると思うわ」
「はい。ありがとうございます」
どんどん先へ進んでいくと、高くそびえ立つ純白の建物が見えてきた。陽光の照り返しが目に刺さるようで、ナーサは思わず目を擦った。
門の両脇には不思議な生き物が立っていた。ナーサよりも一回り小さいが、子どもではない。屋敷しもべ妖精とも違う。白目のない真っ黒な目は挑むように吊り上がっており、耳は人間の大きさと大差ないが尖り、大きな鉤鼻を突き出している。
思わず足を止めたナーサの脇をリリーがつつき、小声で囁いた。
「小鬼よ。グリンゴッツを経営しているの」
城を護る衛兵のように、彼らは深々とお辞儀をして扉を開けてくれた。
建物へ続く石段を上る足が重い。ナーサは張りついた喉で何とか唾を呑み下し、レグルスとリリーの後を追った。
広々とした大理石のホールに入った途端、ナーサは立ち竦んだ。細長いカウンターの向こうに小鬼達がひしめいている。コインの枚数を数えたり、銀色に輝く武器らしきものを丹念に磨き上げたりしている。
レグルスは空いたカウンターに滑り込むと、小鬼が訝しげな目を向けた。だが、次の瞬間、背筋を伸ばして揉み手をし始めた。
「ブラック卿、ようこそいらっしゃいました!」
「六八八番金庫の手続きに来た」
レグルスは丸めた証書と、小さな黄金の鍵を取り出し、小鬼の前に差し出した。
小鬼は鍵を検めると、証書を机の上に広げて、しげしげと見入る。
「ナルシッサ・ブラック──亡きマルフォイ夫人の金庫ですな。ご当主様が回収されるので?」
「いや、私ではない。彼女だ」
レグルスに目を向けられた途端、ナーサはふっと息を吐き、一歩前に進み出た。
「ナルシッサ・アークトゥルサ・マルフォイ。亡きナルシッサ・マルフォイの孫娘にあたる」
出生証明書を差し出すと、小鬼は「ふむ」と頷き、ナーサに目を移す。何処か値踏みするような目つきだった。ふいっと目を背けると、小鬼はまたレグルスに向き直った。
「こちらのお嬢さんは、魔法省に杖の登録はお済みでしたかな?」
「ああ」
短く返したレグルスは、ナーサを見つめた。
「それでは、証明書の代わりに杖をお借りしましょう」
魔法省でも杖の登録と称して、役人の調べを受けたことを思い出す。さわりと背筋をなぞられたように鳥肌が立つ。ナーサは思わずポケットの中の杖を握りしめた。
不意にレグルスの目が細められ、眉がぐっと近づいた。両手を机に置き、前のめりにゆっくりと立ち上がる。黒い影が小鬼を覆った。
「ブラック家の者に?」
小鬼に向けられたレグルスの声は、魔法省の役人に応じていた時より、ずっと冷たい。人間とは違う長い指を見下ろす目が、一段と険しかった。
一瞬固まった小鬼だが、すぐに事務的な口調で続けた。
「決まりです。高額な金庫に、名を騙って入る不届き者もいますので」
「そんなものを、これまで求められたことはない」
「──レグルス」
そっとレグルスの袖を引き、一声挟んだのはリリーだった。
「銀行で身分証明書を求められるのは当たり前。相手が誰であれ、必要な手続きでしょう。それとも、ポリジュース薬で変身した誰かに、何もかも奪われても問題ない?」
レグルスは机から手を離し、コートの襟を整えた。ただ、重い視線だけはまだ小鬼に預けたままだ。
リリーは両膝に手をつき、ナーサの顔を覗き込んだ。ついさっき、路上で転んだ子に向けたのと同じ笑顔を浮かべて。
「大丈夫。ほんの少し、見てもらうだけ。小鬼は精巧な物を扱う職人なの。絶対に傷つけたりすることはないから」
そんな取りなしの言葉にも小鬼は愛想がなかった。
ナーサは吐息混じりに杖を取り出し、リリーとレグルスの顔を見比べた。
「……どうぞ」
両手で静かに机の上に置いた。
小鬼は長い指で恭しく摘んで取ると、別の小鬼を呼びつけた。その者が、ぶ厚い台帳を持ってくると、パラパラとめくっていく。ページを繰る音が重く響く。
視線を落とすと、それはどうやら杖のリストのようだった。杖の長さや、どのような材質で作られた杖なのかが記録されているらしい。
「ご本人で間違いのないようです」
丁重に戻された杖を拾い上げ、ハンカチで表面を拭う。小鬼はその仕草を慣れたように見つめていた。
*
地下深くに眠る金庫への道は洞窟のようだった。トロッコに乗って上下左右に駆け下りると、レールの軋む音が反響し、耳をつんざく。頭が割れるように痛み、胃の中身がかき回される。
降りる頃には足元がガクガクと揺れ、口元を覆わずにはいられなかった。
「大丈夫かい?」
乱れ髪を払い除けたレグルスが、支えるように肩を抱いた。
「ありがとうございます」
ナーサは青ざめながらも、そっとレグルスの手を外した。ローブを整えると、姿勢を正す。
(自分で継ぐって決めた。ちゃんと立てないなら、その資格はない)
小鬼が金庫の扉を開けると、中から緑色の煙が噴き出してきた。まるで長い年月眠っていた部屋が目覚めたかのように。
「さあ。君が先に入るんだ」
レグルスに促され、ナーサは深呼吸した。胸を張り、金庫の中に足を踏み入れると、音もなく金庫の中に明かりが灯る。
金庫というよりも屋敷の一室のようだ。そう思ったのは、敷き詰められた絨毯のせいかもしれない。靴の底が緩く沈む。
壁際には一目で格式のある家具が並べられている。両端にはクローゼットのように見える収納具が、中央にはドレッサーとスツールが一脚置かれている。右横には布に包まれた何かが複数立てかけられている。
(……おばあさまを映していた、鏡)
ナーサはおそるおそる近づいていくと、三面鏡を開き、中を覗き込んだ。鏡にはサビどころか僅かの曇りもない。
ドレッサーの上を見上げると十二、三歳くらいに見える黒髪の少年の肖像画が掛けられていた。箒を片手に、自信に満ちた笑みを浮かべたその顔立ちは、レグルスと似ている。
けれど、画家が描いたにしては妙だ。肖像の少年はピクリとも動かず、話さない。
ナーサは引き出しを開けた。一目で値打ち物だと分かるネックレスや指輪などの装身具が収められていた。どれも息を呑むほど美しいのに、手に取る気にはなれない。
そっと閉めると、隣の引き出しを開けてみた。そこには青いリボンで縛られた手紙の束があった。見下ろしていた目が、差出人の名に釘づけになる。
──シリウス・ブラック。
つい数日前に聞いた、星の名前。
「こんな手紙も残していたのか」
いつの間にか隣に来ていたレグルスが呟く。
ナーサは指先を唇に当てた。ぐっと息が浅くなる。
「これは、どなたからの手紙なんですか?」
レグルスは肖像画を見上げ、呟いた。
「私の兄だ。ナルシッサにとって、兄は……世界そのものだった」
耳鳴りがしたのか、それとも遠く走るトロッコの音か。
ナーサはレグルスの口から漏れた言葉を反芻した。レグルスの兄。祖母が深く想った相手。
静寂が戻った、その瞬間──カツン。
ナーサはハッとして入り口を見た。金庫の中にいるのはレグルスだけだった。当然後ろにいるものと思っていたリリーの姿が見えない。
小鬼は扉の前で視線を落とし、静かに立ち尽くしている。
「リリー?」
呼びかけはすぐに消え入る。胸がバクバクと音を立て始めた時、またカツンと音がして、ヒョイッとリリーが扉の陰から顔を覗かせた。
「外で待っているわ。ここは誰でも立ち入っていい場所じゃないから」
ナーサは懐中時計を撫で、深く息を吐いた。胸の奥が緩み、頭の芯が冷えていく。
──ブラック卿は『兄殺し』だって言われてる。
リラルドが口にした言葉が不意に蘇る。
レグルスに何があったのか、訊きたい。けれど、小鬼とリリーがいる前で尋ねるのは憚られた。
「おじさまは……お兄さまのことが好きでしたか?」
かろうじて口に出せたのは、それだけだった。
レグルスの唇が震えるように動いた。言葉を探すような間が空いた後、低い声で囁いた。
「……ああ。とても大切な人だった」
その言葉には重みがあった。ナーサは手紙を巻き込まないよう、静かに引き出しを戻した。
両開きの収納棚を開けると、さらに引き出しを開けられる形状になっていた。下部の引き出しは重く、ガリオン金貨、シックル銀貨、クヌート銅貨できっちりと分けられていた。
「これから色々と物入りだろう。少し持っていくといい」
レグルスが巾着袋を差し出した。ナーサは躊躇いながら受け取り、引き出しの前に屈んだ。
「……大切に使わせていただきます」
ナーサは誰にともなく言うと、硬貨を詰めていった。見た目以上に硬貨は重く、巾着袋が膨らむほどに胸が苦しかった。