【予言の子が殺されたIF】此は最果ての地 作:琳音(@rinne_1218)
グリンゴッツを出る頃には昼を過ぎていた。冬の日差しはすでに大分傾いており、三人の影を長く伸ばす。両手に抱えた巾着のせいか、ナーサの肩は落ちていた。
「お腹が空いたわね。何か食べていかない?」
そこらの店先からふわりと香ばしい匂いが流れてくる。肉を燻した匂いや、鼻を刺激するスパイスの香り。けれど、今は胃の中に石を詰められたように重く、ナーサは曖昧に頷いた。
ドーナツの模型が飾られた淡いベージュの壁に差し掛かった時だった。
「いらっしゃいませー」
聞き覚えのある声に目を向けたナーサは、お皿を片手に声を張り上げるルームメイトのメイジー・パディフットを見つけた。
「ナーサじゃない!」
フリルたっぷりの白いエプロンを身に着けたメイジーが、いそいそとナーサに駆け寄ってくる。衣類に染み込んだ甘い香りがふんわりと鼻をくすぐった。
「わぁ、休暇中に会えるなんて思わなかった! 元気だった?」
「……うん。会えて嬉しい」
嘘ではなかった。けれど、ふっくらとした頬にえくぼを乗せたメイジーを見ると、ドギマギしてしまう。
ナーサは腕の中の包みを小脇に抱え直しながら、大きなパステルカラーのショーウィンドウに描かれた飾り文字に目を留めた。
「ここって、もしかして」
『パディフットの幸せ菓子工房』──メイジーが胸を張った。
「そっ。うちのお店! ドーナツが絶品なの。今はクリスマスの──」
メイジーの言葉が急に途切れた。視線がレグルスに止まり、顔がみるみるうちに朱に染まる。
ナーサは弾かれたように思い出した。新学期始めにルームメイト達と揉めたことを。死喰い人のレグルスを、彼女達はよく思っていない。
(それでも、あたしにとっては大切な人だもの)
ナーサはぎこちなく微笑んで、レグルスを指し示した。
「あたしの後見人のレグルスおじさまと、友人のリリー。
この子は、あたしのルームメイトのメイジー。ご家族が、こちらの店を経営されてるそうで」
一瞬目をぱちくりさせたメイジーは、すぐにハッとして勢いよく頭を下げた。
「こっ、こんにちは……! ナーサには……い、いつもお世話になってます」
どもるメイジーは耳まで赤い。もう一度顔を上げると、その目はひたとレグルスだけを見つめている。
レグルスは不躾な視線にも穏やかな笑みを浮かべ、一歩前に進み出た。
「君がメイジーか。こちらこそ、世話になっている。君の明るさには、いつも救われている……そう、ナーサが言っていた」
ナーサは息を呑んだ。手紙には、いつも友達の名前や、学校での些細な出来事を書き綴っていた。けれど、個別に覚えてくれているとまでは思っていなかった。
自分の話を、大切なものとして受け留めてくれている。ふつふつと胸が温かくなってきた。
「えっ、ええー……?」
メイジーは口を覆い隠し、二、三歩よろめいてショーウィンドウに背をついた。窓がカタカタと音を立てて揺れる。
その拍子に傾いた皿からドーナツがこぼれ落ちそうになり、ナーサは咄嗟に浮遊呪文をかけた。皿ごとドーナツが浮き上がり、ホッと吐息を漏らす。
「メイジー、大丈夫?」
メイジーは宙に浮いた皿に見向きもしない。ギュッと目を瞑り、首を振る。
「……この人が、あの──ミスター・ブラック?」
苦しげに胸元を握りしめたメイジーが、ナーサの袖をグイッと引いた。
「『おじさま』って、全然おじさんじゃない! やだ〜、ナーサったら……こんな方だなんて、思ってなかった! うちのパパなんて絶対会わせられないじゃない!」
顔を覆ったメイジーに、リリーがクスクス声を立てて笑い出した。
「はじめまして、メイジー。もう私のこと、見えるようになった?」
「……やだ! はじめまして、こんにちは。あの、ミスター・ブラックの恋人の方ですかっ?」
メイジーが前のめりになると、リリーは目を細めた。水面のように小さな光を宿らせている。
「ふふ、そう見える?」
「……彼女には夫がいる」
メイジーはその単語にまたしてもビクンッと跳ね上がり、息を荒らげた。
「ひっ、人妻? つまり、お二人は」
「いや。そうではなく……」
本気で狼狽しているらしいレグルスに、リリーが茶目っ気たっぷりな笑みを浮かべている。
とうとう堪えきれずにナーサはお腹を抱えて震えた。
「メイジー! 本当に違うったら」
目の端から涙を拭った頃には、ナーサの背筋はすっかり伸びていた。ついさっきまで胸の奥に沈んでいた重みが、笑った拍子に少しだけ軽くなっている。
「あらあら、店先で何の騒ぎ?」
カラン、と乾いたベルの音と共に、店の中から高齢の客を支えた女性が出てきた。ふくよかな身体に、善良さが滲み出た顔立ち。一目でメイジーの母だと分かる。
客に丁重に頭を下げると、メイジーに目を向けた。
「こんなところで騒がないの、メイ。お客様が入って来づらくなるじゃないの」
「ママっ。この子、ナーサっ」
精一杯声を落としたメイジーに手を引かれてよろけるナーサに、パディフット夫人は目を見開いた。その喉が小さく上下する。
「あ、あら。もしかして、あなたが……ミス・マルフォイ?」
マルフォイのファミリーネームをほとんど囁くように漏らした。
肩が少しこわばったが、ナーサはすぐに微笑みを形作った。
「はじめまして、ミセス・パディフット。メイジーにはいつもお世話になっております」
そう言って手を差し出しかけたものの、その場で軽くお辞儀するに留めた。
夫人は目をパチパチとまたたいたかと思うと、すぐに目元に深いしわが刻まれた。
「まあ……まあ! さすがはお嬢さまね。お行儀がいいこと。この子の方こそ、あなたに勉強を教わったりしてるって聞いているわ。いつもありがとう。
こんなところで話すのもなんだから、どうぞお店に入っていらして。そちらはお連れの方?」
「はい。あたしの──後見人です」
マルフォイの名でも驚かせてしまった。死喰い人のブラック卿と聞けば、怖がらせてしまうかもしれない。自分が恥ずかしいからではない。レグルスが疎まれるのが嫌だった。ナーサは巾着袋を抱きしめながら答えた。
夫人はレグルスとリリーにも愛想よく笑いかけた。
「狭いお店ですけど、皆さん、どうぞお立ち寄りくださいな。娘のお友達なら、大歓迎です」
ドアをくぐると、揚げ物の小さな音に混じって、甘い匂いが一気に押し寄せてきた。
正面のガラスのショーケース群は丸く、風船のように宙を漂っている。視線を向けるとアピールするように近づいては、緩やかに離れていく。ドーナツの生地には何か混ぜているのか、茶色一辺倒ではない。シンプルなものもあるが、大半がクリームやチョコレートでトッピングがなされている。
イートインスペースは左右にそれぞれ二つあり、片側には若い女性が三人腰掛けていた。ナーサ達がもう一方のテーブルに向かう一瞬、彼女達の声がピタリと止んだ。
──ねえ、ちょっと……。
耳打ちする気配を感じながら、レグルスには奥側の席を勧めた。華奢なパステルカラーの椅子に、ダークコートに寸部の乱れもないレグルスが座ると、異物感がある。店の格式に合わない。それとも、彼の背景に店が合わないと言うべきか。
レグルスは窓から差し込む光に目を細め、前髪を揺らした。
「皆さん、紅茶でいいかしら?」
濡れタオルを差し出しながら、パディフット夫人が訊いた。
「恐れ入ります。少し失礼して、ドーナツを見せていただいてもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ。好きなものを選んでね。お代は結構よ」
「ありがとうございます」
人好きのする笑顔がメイジーそっくりで、ナーサは胸の前で手を組み合わせた。
「あたし、メイジーに分けてもらって、生まれて初めてドーナツを食べたんです。甘いのに、いくつでも食べられそうなくらいおいしくて……だから、今日そのお店に来られて、本当に嬉しいです」
「まぁっ。そんな風に言ってくれるなんて……!」
パディフット夫人の吐息に温度が乗った。
カウンター前でメイジーが手招きした。
「ねえ、クリスマス特製のドーナツがあるよ。見てみてっ」
メイジーが指さしたショーケースが、ゆっくりと近づいてくる。
木を模した金属に、ボール型のドーナツが刺されている。それぞれ雪の結晶やサンタの赤い服、雪だるまなどにコーティングされ、華やかだ。
「……可愛いっ」
「でしょ! これ、考えたの、私なの!」
「でも、作ったのは俺だろ」
奥の厨房から焼きたてのドーナツを運んできた恰幅のいい男性が、笑いながら言った。
「ナーサ、パパだよ……こんなんで恥ずかしいけど」
パディフット氏に群がるように、ショーケースが次々に近づき、口を開けた。そこにドーナツを次々に入れながら、パディフット氏が娘を軽く睨みつける。
「悪口は聞こえないところで言うもんだよ、メイ。
やあ、はじめまして。ツリードーナツ、気に入ったかい?」
「はい、とっても素敵……食べるのが勿体ないですね」
ほぅっと吐息を漏らしたナーサに、パディフット氏は肩を揺らした。
「ははっ。一度口に入れたら、そんなことは言ってられなくなるさ!
メイ、お友達にツリードーナツを。お連れの方には甘さ控えめな方がいいかな。お勧めのものをお出しして、お好みのものを選んでもらいなさい」
それから程なくして、店の中がどんどん混み始めた。お昼時だからだろうか。メイジーとパディフット夫人は接客に追われ、パタパタと店内を駆け回っていた。
続々と入ってくる若い女性客達の視線がレグルスに集まるたび、ナーサはそわそわしてしまった。死喰い人のブラック卿と気づいたのだろうか。
「……早く食べ終えた方がいいでしょうか」
席が空くのを待っているのだろうか、とナーサはフォークを運ぶ手を意識する。リリーはプッと軽く吹き出した。
「違う、違う。多分ね、ほとんどの人がレグルス目当て」
「えっ?」
レグルスは無言でカップを傾けた。
ちょいちょいとリリーがレグルスの近くの窓を指す。軽く身を乗り出すと、すぐそこに貼りついていたナーサより少し年上の少女達と目が合った。その目に浮かんだ色は、嫌悪や侮蔑ではない。憧れにも似た眼差しだった。
「目を惹くのは相変わらずね、リトル・ブラック」
ソーサーとカップを置く音が響いた。いつもなら音を立てずに茶器を置く。
レグルスは冷えた目でリリーを見つめ、すぐに視線を落とした。
「……その呼び方は好きじゃない」
その声だけが、さっきまでの和やかな空気から切り離されたように硬かった。思いがけない響きに、ナーサは僅かに口を開いた。リリーがレグルスの奥深くに隠してきた何かに触れてしまったのだと直感した。
「悪かったわ」
リリーの声が僅かに低くなる。
「……いや。この後はどうする? 高級クィディッチ用具店に行こうと思っていたが」
レグルスの声はもういつもと変わりない。
「その前に仕立て屋に行った方がいいんじゃない? 『トウィルフィット・アンド・タッティング』のお店がいいと思うんだけど」
二人の目がナーサを捉える。自分のための買い物なのだと気づき、ナーサは胸元を軽く押した。
「仕立て屋ですか? でも、あたし、新しい洋服は必要ありません。おばあさまのクローゼットからお借りするので」
「ナーサ。あなた、この数ヶ月でぐっと身長が伸びたわ」
ナーサは頷いた。夏休みにはぴったりだったワンピースの裾が、少し上がっている。初潮を迎えて以来、下着がきつく感じるようになったのも事実だ。
「ナルシッサの洋服は素敵よ。どれも似合ってる。それでも、そろそろ自分の身体に合わせたものを揃えていくことも必要だと思うの」
「……承知しました」
祖母の遺したものを無為に使うつもりはない。けれど、初めての宴で着た、借り物のドレスを思い出したのだ。薔薇のように華やかで美しかったのに、何処か窮屈だった。あれは、きっとリンジーを輝かせるためのドレスだったからだ。それなら、自分を輝かせる衣類はどんな風だろう。そう思いを馳せると、胸が僅かに弾んだ。
「仕立て屋はリリーとゆっくりと見るといい。三時に店の前で待ち合わせよう」
レグルスが立ち上がると、レジの前に並んだ女性客達がそわそわと身じろぎした。パディフット氏がいち早く気づき、駆け寄ってきた。
「いやいや。兄さんのお陰で、今日の売り上げはとんでもないことになりそうだ! ありがとう!」
「……世話になった」
レグルスがコートのポケットに手を入れた途端、パディフット氏は両手を振った。
「いやいや、娘の友達からお金なんて」
その目が見開かれたまま固まった。ジャラジャラとガリオン金貨をテーブルの上に重ねながら、レグルスは静かに続けた。
「おいしくいただいた。あなたの娘には、よくしてもらっている。今後とも、ナーサのことをよろしく頼む」
「え……いや、チップにしても、もらいすぎで」
頭を下げると、レグルスは背筋を伸ばして店を出ていった。そこかしこから落胆の声が漏れ聞こえ、ナーサは思わず周りを見回してしまった。