【予言の子が殺されたIF】此は最果ての地 作:琳音(@rinne_1218)
『トウィルフィット・アンド・タッティング』のドアをくぐると、正面にある男女のマネキンが優雅にお辞儀をした。正装に身を包み、夜会に訪れた客を出迎えるホストのようだ。
「ようこそいらっしゃいました」
低く上品な声がかかった。近づいてきた壮年の男性が、胸に片手を置き、丁寧な礼を取った。きっちりとアイロンの当てられた白いシャツは飾り気がないのに、生地の裁ち方や縫製の良さが一目で分かる。
彼はふと動きを止めた。ナーサの顔ではなく、コートの合わせから覗くワンピースへ視線が吸い寄せられている。食い入るように見つめた後、その目がゆっくりとナーサの顔へと上がった。
「もしや、マルフォイ嬢?」
ナーサは目をまたたいた。見覚えがあると思ったのも当然だ。一年前にマルフォイ邸を訪れた仕立て屋だった。
「ごきげんよう。入学準備の際はお世話になりました」
挨拶をすると、仕立て屋は相好を崩した。
「覚えていらして光栄です……失礼ながら、そのお召し物は、かつてナルシッサ様のためにわたくしが仕立てたものでございますね」
ほんの一瞬、息が止まった。取り立てて目立つ柄でも、デザインでもない。大部分がコートの陰にある。
「どうして、それを……」
「あの方が自らパターンや生地を選ばれ、わたくしが一から仕上げたものでございますから。初めて袖を通された時のお姿は、忘れようもございません」
遠い昔を懐かしむような目でナーサを見ていたが、はたと我に返ったように視線がドアの方へと向けられた。
「時に、閣下にお変わりございませんか?」
ナーサの肩がこわばった。この人はナーサが家出したことなど、何も知らない。
「……今日は、友人と来たんです」
そこで、ようやく仕立て屋はリリーの存在に気づいたらしい。その目が、彼女の上から下まで素早く走った。コートの質や仕立て、靴先までを確かめるような一瞥だった。彼は顎を撫でると、改めて口元に笑みを整えた。
「お連れさまもご一緒でしたか。わたくし、店主のトウィルフィットと申します。どうぞ、お見知りおきを」
声音は丁寧なままだったが、さっきまでナーサに向けられていた笑顔とは質が違う。微笑みの角度が僅かに下がった──そんな気がした。
けれど、リリーは一瞬目を細めただけで、朗らかに続ける。
「はじめまして。今日の主賓はマルフォイ嬢です、ご安心を」
マルフォイ嬢──ナーサは視線を落とした。その名のお陰で、自分だけが丁重に扱われたのだと思うと、ひどく窮屈な呼び名に思えた。
トウィルフィットは口角を上げた。
「承知いたしました。どのようなものをお探しで?」
「宴用のドレス用インナーと、普段使いのものを。まずは採寸をお願いできます?」
採寸。その言葉にナーサは唾を呑み込み、おそるおそるトウィルフィットを見た。うっすらと浮き上がる顎髭を見て、口元を押さえた。
「リリー、採寸までは必要ありません。既製品を合わせれば、それで充分です」
じわりと汗の滲んだ手を、無意識に重ね合わせる。マルフォイ家にいた頃は女性のフィッターが来てくれたから、何の抵抗もなかった。専門職とはいえ、よく知りもしない異性の前で肌をあらわにするなんて我慢できない。
「マルフォイ家の令嬢が、既製品だなんてとんでもない。どうぞ、お任せを」
「ナーサ」
トウィルフィットの言葉を遮るように、リリーがナーサの手を取った。澄んだ目で見据えながら、ナーサの両肩にそっと手を乗せた。
「ナルシッサの資産を使うのを贅沢と思ってる? それとも、採寸が恥ずかしい?」
声を落とすリリーに、ナーサは視線を落とした。気づけば指先が震えていた。
一年生の頃なら、まだ我慢できたかもしれない。けれど、ホグワーツ特急でロウルに近づかれた日のことを思い出してしまった。小柄な自分など簡単に覆い隠せる大きな身体。顎に影を添える髭。別人なのは分かりきっているのに、意識があの日に引き戻される。
「……嫌なんです」
消え入るような声を漏らした。
リリーはしばらくナーサを見つめていたが、ややあってトウィルフィットに向き直った。
「採寸はあなたが?」
「ええ。あいにくと本日フィッターがお休みをいただいておりまして」
「それでは、申し訳ないですが、別の仕立て屋に参ります。嫁入り前の女性が、男性に肌を見せるとなると、色々と問題があるので」
「……それは、わたくしの技量や職業倫理にご不安がある、という意味でしょうか」
トウィルフィットの声が硬くなったが、リリーはまばたきもせずに相手を見据えた。
「いいえ。ただ、こちらにも事情がありますから。マダム・マルキンのお店で既製品を見せていただきます」
トウィルフィットの笑顔が一瞬引き攣った。リリーがナーサの背中に手を添えた途端、彼は二人を回り込んでドアノブを押さえた。
「──お待ちください。承知いたしました。魔法による採寸であれば、わたくしが目で見る必要も、肌に触れる必要もございません。それでいかがでしょうか」
トウィルフィットの細めた目は少しも笑っていなかった。他店に負けることは許せないと、はっきりと顔に書いてある。
リリーはナーサに視線を移したが、何も言わない。選ばせてくれているのだ。ナーサは懐中時計をひと撫でし、息を吐いた。
「お気遣い、恐れ入ります。よろしくお願いします」
フィッティングルームに入り、カーテンを閉めると、軽やかな金属音が耳を打つ。それが始まりの合図のように、衣類を脱ぐようにと指示をされた。
店内に隙間風はなく、暖められているはずなのに、ワンピースを脱いだ途端、ぶるりと震えが走った。背中のホックを外し、胸の押さえがなくなると、何処か頼りない。
スリップ一枚だけのしどけない姿で待つと、カーテンの下の隙間からメジャーが音もなく忍び寄ってきた。スルスルとナーサの脚を伝い、要所要所に巻きついては動きを留めた。冷ややかな感触に身震いせずにはいられない。
ようやく解放された後は、普段使いの下着の試着だった。白や淡いピンク、ミントの繊細な刺繍の施された品々は、これまで身に着けていたものよりも華やかで、女性らしい。そして、サイズを合わせると胸の締め付けが驚くほど楽になり、動きやすかった。
(採寸をするだけで、こんなに違うんだ……)
フィッティングルームから出た後は、ドレスのインナー選びだった。分厚いカタログの中から型を選び、生地を選ぶ最中、ナーサは入学準備を思い出した。虹のように宙を彩る生地の中から、選び取る作業。
──いいや、あの時選んだのはルシウスで、ナーサではなかった。
胸の深いところに沈めていたものが微かに浮き上がり、キュッと袖口を押さえた。
「どんな色がいいかしらね。ドレスが淡い色になることも考えて、濃色は避けた方がいいと思うけれど」
色見本のカタログから、リリーは視線を上げる。
「あなたはどんな色が好き?」
訊かれた途端、ナーサの脳裏をよぎったのは入学準備で見た生地だった。ルシウスの意向に沿って、呑み込んだ想いが込み上げる。
「……あたし、この色にしたいです」
カタログを指すと、トウィルフィットが目を輝かせた。
「アイスブルーでございますね。お嬢さまのお肌によく映える色かと存じます。下着であれば、閣下もお許しくださるでしょう」
ナーサは首を振り、息を詰めた。
「誰かに許してもらわなくても構いません。あたしが、この色を選ぶんです」
そう静かに宣言した途端、身体がほのかに温まる。ずっと溜め込んでいた想いを解放できたようで、頬が緩んだ。