一番隊舎からの帰り道、指定された四番隊長室の扉を、星は重い足取りで叩いた。
「八神です。失礼します……。」
「ええ、入りなさい。」
部屋に入ると、お茶の香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
卯ノ花は机に向かって書類をめくっていたが、星が来ると筆を置き、いつも通りの聖母のような微笑みを浮かべた。
だが、その瞳の奥には、すべてを見透かすような鋭い光がある。
「総隊長室では、京楽隊長たちに上手く助けられましたね、
八神くん。」
「……何のことでしょうか。僕はただ、本当のことをお話ししたまでです。」
星はのんびりとした一般隊士の仮面を崩さない。
「ふふ、まだ隠すのですか。」
卯ノ花は静かに立ち上がると、
音もなく星の目の前まで歩み寄ってきた。
──近い。
普段の執務中ではあり得ない距離。星の鼻先に、卯ノ花の髪から香る、微かな白蓮の甘い匂いが届く。
卯ノ花は星の胸元にそっと、白い柔らかな指先を這わせた。
「おや、心音が少し速いですね? ……嘘をつく時の癖ですか? それとも、私にここまで近づかれて、緊張しているのですか?」
上目遣いで、悪戯っぽく微笑む卯ノ花。
並の死神ならその美貌とプレッシャーに気絶するか赤面するところだが、星はあえてその視線を真っ直ぐに受け止め、
フッと不敵に笑い返した。
「……隊長。からかうのは、その辺にしてください。これでも、一応は男ですので。」
星が低く、男らしい声で一歩踏み出す。今度は星の胸が、卯ノ花の豊かな胸元に触れそうなほどに距離が縮まった。
ほんの僅かに、卯ノ花の形の良い眉が、驚いたようにピクリと跳ねる。
「……言うようになりましたね。昨夜、その二本の刃(迅雷烈風)を抜いた時と同じ、不遜な目です。」
卯ノ花は小さく吐息を漏らすと、星の白衣の襟元を優しく、愛おしむように整えた。
「あなたの白衣から、微かに『風の残り香』がしました。……あれだけの嵐を吹かせて、大立ち回り。一体何を叩き潰したのでしょう? 誰のために、何故。そこまで無茶をしたのですか?」
「……。」
「四番隊のため、ですか?」
耳元で囁かれる、優しくも確信に満ちた声。
星は観念したように、小さく両手を挙げた。
「……うちの隊長には、敵いませんね。
そうです、四番隊ののんびりした日常を邪魔されたくなかったので、ちょっと、世界の広さを教えてあげただけですよ。」
「ふふ、やはり。……よく、平子隊長たちを守ってくれました。大儀でしたね、星。」
卯ノ花はそう言って、悪戯が成功した少女のような、けれど至高の包容力を孕んだ極上の笑みを浮かべた。
「今回のことは、私の胸に仕舞っておきます。ですから……今夜は、私の特製のお茶に、朝まで付き合ってもらいますよ? 昨夜の戦いのお話、じっくり聞かせてくださいね。」
──ガチャ。
四番隊長室の重い扉を閉め、星はようやく長いため息をついた。
卯ノ花隊長からの「大人の追及」は、別の意味で心臓に悪かった。冷や汗を拭いながら自室へ戻ろうと一歩踏み出した、その時。
「──ハ、八神くん……っ!」
物陰から、長身の影が勢いよく飛び出してきた。
短い白髪に、特徴的な結び髪。四番隊副隊長、虎徹勇音だ。普段の落ち着いた副隊長の姿はどこへやら、その顔は今にも泣き出しそうなほど強張っている。
「あ、勇音副隊長。お疲れ様です、どうしたんですかそんなに慌てて。」
「どうしたんですか、じゃないよ! 君、昨日一番隊に呼び出されて、その後は卯ノ花隊長に個別に呼ばれるなんて……! 私、本当に心配で、心配で……っ」
勇音は星の目の前まで一歩、猛烈な勢いで詰め寄った。
──近い。
勇音は身長が高い(187cm)こともあり、一歩踏み込まれると、そのすらりとした体躯が星の視界をいっぱいに覆う。
さらに、彼女は星の両肩をガシッと掴んできた。柔らかくも、死神としての確かな手の熱が、白衣越しに星の肌へと伝わる。
「隊長に、何か怒られたの……!? 昨夜の救護、君はただ私の指示に従って後ろにいただけだって、私、総隊長にもちゃんと説明するから……! だから、ね?」
必死に星の顔を覗き込んでくる勇音。
あまりの勢いに、星は少し面食らった。普段は気弱な彼女が、自分のためにここまで必死になってくれている。
じっと見つめてくるその大きな瞳には、星を案じる純粋な光だけが宿っていた。至近距離から、彼女の慌てた熱い吐息が星の頬をかすめる。
(……やれやれ。うちの副隊長は、本当に無自覚に距離が近いな)
星は小さく苦笑すると、肩に置かれた勇音の手の上に、そっと自分の手を重ねた。
「大丈夫ですよ、勇音さん。隊長とは、ただの薬草の在庫の確認です。怒られてなんかありませんよ。」
「え……?」
星の掌から伝わる、男らしくて、驚くほど落ち着いた体温。
その瞬間、勇音は自分が「星の肩をガッチリ掴んで、顔が触れそうなほど大接近している」という現状に、ようやく気がついた。
「あ、あの、私……その、えっと……っ!」
カァァァッ! と音が立ちそうなほどの勢いで、勇音の顔が耳の付け根まで真っ赤に染まっていく。
慌てて手を離そうとする勇音だったが、星の手が優しく重ねられているせいで、上手く後ろに下がれない。結果として、さらに一瞬だけ身体が密着するような形になってしまう。
「ひゃ、うあ……っ! ご、ごめんなさい八神くん! 私、変な意味じゃなくて、ただ君が四番隊からいなくなっちゃったら嫌だな、とか、そういう……あうぅ。」
完全にキャパシティをオーバーした勇音は、高身長を縮こまらせるようにして両手で顔を覆ってしまった。指の隙間から覗く瞳が、うるうると 潤んでいる。
その、普段の凛々しい副隊長からは想像もつかない「ギャップ」と、自分を失いたくないと言ってくれた純粋な好意。
星の胸の奥が、今度こそドクンと小さく跳ねた。
(……これは、反則だな。)
星は頭を掻き、いつもの一般隊士らしい、けれど少しだけ特別な優しさを込めた声で笑いかけた。
「僕が四番隊からいなくなるわけないじゃないですか。僕は、勇音さんの下でのんびり薬湯を調合してる今が、一番お気に入りなんですから。」
「……本当? どこにも、行かない?」
顔を覆った手の隙間から、勇音が上目遣いで、
縋るように聞いてくる。
「ええ、本当です。だから、そんなに泣きそうな顔しないでください。……ほら、夕方の点検、一緒に行きましょう?」
「……うんっ!」
ぱっと花が咲いたような笑顔を見せる勇音。
星の少し後ろを、まだ顔を上気させたまま、嬉しそうにトコトコとついて歩く彼女の気配を感じながら、星は腰の『迅雷烈風』をそっと撫でた。
(やっぱり、この日常を守るためなら、過去の僕の選択は100点満点だったな)
101年前に嵐を降らせた理由。
それが、今自分の後ろを歩くこの愛らしいにすべて繋がっている。
夕暮れの四番隊舎の廊下に、
二人の足音が優しく響き渡っていた。
健全な色気第二弾でした。
戦闘シーンより遥かに難しいです。