空座町の夜空は、文字通り『絶望』の漆黒に染まっていた。
「がはっ……、あ……っ!」
悲痛な悲鳴と共に、黒崎一護の身体がコンクリートの地面へと
激しく叩きつけられる。
衣服はボロボロに引き裂かれ、天鎖斬月を握る手は血に塗れて
小刻みに震えていた。一護の視線の先──現世を独断で急襲してきた第六十刃(セスタ・エスパーダ)、グリムジョー・ジャガージャックは、凶悪な笑みを浮かべたまま一歩、また一歩と近づいてくる。
「どうした死神ッ! それがてめぇの卍解か!?
期待外れもいいとこだぜぇ!」
圧倒的な、捕食者の霊圧。
これまで戦ってきたどの死神とも違う、
魂魄を直接すり潰すような凶禍の圧に、
一護の全身の細胞が恐怖で悲鳴を上げていた。
「一護──ッ!」
一護の窮地に、割って入ったのは朽木ルキアだった。
袖白雪(そでのしらゆき)を構え、
必死にグリムジョーを睨みつける。だが──。
「すっこんでろ、雑魚が」
「──なっ!?」
ドンッ!!!
音すら置き去りにする超速の響転(ソニード)。ルキアが反応するよりも早く、グリムジョーの鋭利な手骨が、彼女の腹部へと容赦なく突き立てられた。
肉の裂ける生々しい音。
「ルキアァァァァァァッッッ!!!!」
一護の絶叫が響く。
グリムジョーが腕を引き抜くと、ルキアの身体は糸の切れた人形のように崩れ落ち、またたく間に地面が真紅の血で染まっていく。腹部には痛々しい風穴が空き、そこからグリムジョーの禍々しい霊圧の残滓が、ルキアの魂魄の結合を今もなお内側から破壊し続けていた。
「あはははっ! 次はてめぇだ、死神ぃ!」
グリムジョーが、瀕死の一護の脳天に向けて、その容赦のない拳を振り下ろす。
日番谷たち先遣隊は別の破面(アランカル)との死闘で動けず、井上織姫もその圧倒的なプレッシャーの前に足をすくませ、涙を流すことしかできない。
誰もが、一護の死を確信した。
その、絶望のコンマ数秒前──。
「風の檻。」
──キィィィィィィン。
夜空のすべての雲が、一瞬にして静止した。
グリムジョーの爪が、一護の鼻先数センチのところで、突如として出現した『翡翠の暴風の壁』に激突し、凄まじい火花を散らして弾かれた。
「あァ……ッ!?」
グリムジョーが初めて驚愕に目を見開く。
突風が空座町の街並みを吹き抜け、漆黒の夜闇を引き裂くように、淡い翡翠色の霊圧が天へと立ち上った。風の真ん中から現れたのは、四番隊の白衣の袖をだらしなく捲り上げた──八神星だった。
「やれやれ……。四番隊からの『現世臨時出張班』に配属された初日から、こんな大仕事かよ。これだから前線は嫌なんだ。」
星は肩をすくめ、いつもの気怠げな様子で頭を掻いた。
「八神……さん……っ!?」
織姫が息を呑み、一護は血反吐を吐きながらその姿を見上げる。
「なぜお前がここに」と問いかける一護の言葉を遮り、
星はすぐにルキアの傍らへと跪いた。
その瞳から、のんきな光が完全に消え失せる。
「井上ちゃん、ルキアの身体を押さえてて。
……『回道・雷電創成(らいでんそうせい)』」
星が両手をかざした瞬間、空座町の夜空が淡い紫色の光で満たされた。
それは、四番隊の誰よりも、いや、織姫の「事象の拒絶」すらをも凌駕する、圧倒的なまでの『生命の絶対権力』。
ルキアの腹部を蝕んでいたグリムジョーの凶悪な霊圧の残滓が、星の回道が触れただけで、まるですす汚れた煙のようにジュウジュウと音を立てて蒸発していく。そして、空いていた風穴の肉が、細胞単位で急速に、信じられない速度で塞がっていった。
「う……あ……っ」
チアノーゼを起こしていたルキアの顔に、一瞬で赤みが戻り、
穏やかな呼吸を始める。秒単位での完全治癒。
「す……すごい……! 私の『双天帰盾』でも、あの黒い霊圧のせいで弾かれたのに……一瞬で、消した……っ!?」
織姫が、その規格外の医療技術に戦慄する。
だが、そんな奇跡を目の前で見せつけられたグリムジョーが、
黙っているはずがなかった。その青い瞳に、獰猛な狂気と殺意をたぎらせる。
「てめぇ……突然出てきて、俺の獲物に何してくれてんだァァァッ!!」
グリムジョーが獰猛に地を蹴り、星の首を撥ねるべく、その爪を激しく振り下ろした。
──ドンッッ!!!
空座町のビル群が震えるほどの衝撃波。
しかし、星は立ち上がることもせず、ただ左手をフッと一閃させただけだった。星の手首から放たれた極小の暴風の衝撃が、グリムジョーの渾身の突撃を正面から完全に受け流し、逆にグリムジョーの巨躯を十数メートル後方へと凄まじい勢いで吹き飛ばした。
「チッ……! 弾き返しただと……!?」
地面に爪を立てて強引に静止したグリムジョーの額から、
冷や汗が流れる。
今の一撃、自分は殺す気でいった。それを、この死神は、まるでハエでもあしらうかのように片手で撥ね退けたのだ。
その掌の奥に眠る、世界を滅ぼしかねないほどの底なしの
『風雷の深淵』。
「おい、野良猫。」
星はゆっくりと立ち上がり、グリムジョーを冷酷に見据えた。その腰の二本の神座──『迅雷烈風』が、深夜の現世でピキピキと不穏な鳴動を始める。
「君が誰の命令で動いてるかは知らないけどさ。四番隊(僕ら)の目の前で患者を増やすような真似は、営業妨害なんだよね。……次その爪を動かしたら、今度はその青い髪ごと、僕の『夜』に沈めるよ?」
ドクン……!
グリムジョーの心臓が、本能的な恐怖で跳ね上がる。
(勝てねぇ──こいつは、戦っちゃいけねぇバケモノ!)
「ふざけんじゃねぇぞ、てめぇ……ッ!! 俺は第六十刃、グリムジョー・ジャガージャックだァ! てめぇのような雑魚に怯えるわけが──」
プライドを激しく傷つけられたグリムジョーが、発狂したように斬魄刀(パンテラ)の柄に手をかけた、その瞬間。
──ザワリ。
星とグリムジョーの間の空間が、黒い『腔(ガルガンタ)』となって静かに開いた。
「そこまでにせよ、グリムジョー。」
現れたのは、盲目の男──東仙要だった。
「東仙……!? てめぇ、何の真似だ! 邪魔するんじゃねぇ、俺はそこの死神を──」
「藍染様からの、絶対の伝令(厳命)だ。」
東仙の冷徹な声が、グリムジョーの言葉をねじ伏せる。東仙は、バイザーの奥にある見えない目で、しっかりと八神星の姿を捉えていた。その体は、未だに星の『風雷双竜陣』の恐怖を覚えており、微かに震えている。
「退け、グリムジョー。……そこにいる男は、お前が相手をして良い存在ではない。藍染様の左腕と脇腹を根こそぎ消し飛ばした、あの『風雷の怪物』だ」
「な……んだと……ッ!?」
グリムジョーの身体が、完全に硬直した。
あの絶対的な王である藍染惣右介が、虚圏へ戻ってなお、未だにその負傷の再生に苦しんでいるという『最悪の因縁』。
その張本人が、目の前の、この怠惰な目をした四番隊四席だというのか。
「……フン。藍染の伝言か。相変わらず、部下の教育が行き届いてないね、あの男は。」
星はふんと鼻で笑い、刀から手を離した。
「行くぞ、グリムジョー。これ以上の独断は、藍染様への反逆とみなす。」
「……クソが……ッッ!!」
グリムジョーは血が滲むほどに奥歯を噛み締め、星の顔をその網膜に焼き付けるように激しく睨みつけると、東仙と共に黒い闇の向こうへと消え去っていった。
静寂が戻った、空座町の夜。
「はぁ……。だから現世出張なんて嫌だったんだ。」
星はいつもの飄々とした顔に戻ると、ボロボロの一護の前にしゃがみ込み、その頭を小突いた。
「ほら、少年。死にたくなきゃ、僕の回道を大人しく受けな。……四番隊四席・八神星の現世出張は、ここからが本番みたいだからね。」
一護は、星から放たれる翡翠の光に包まれながら、ただただその『底知れなさ』に言葉を失うのだった。
と言う事で、現世にやって参りました。
ちなみに寄り道してチャドの治療も済んでいます。