その夜、総合救護詰所は地獄と化していた。
「おい、しっかりしろ! 目を開けろッ!!」
「だめです、霊圧の霧散が止まりません!
回道が、拒絶されている……っ!」
血の匂いと悲鳴が錯綜する手術室。
運び込まれたのは、一番隊──総隊長直轄部隊の席官だった。
現世での任務中、未知の特殊な虚の毒を受けたらしく、
その魂魄は内側から腐食し、崩壊を始めていた。
「どういうことですか、勇音!」
血相を変えて飛び込んできたのは、卯ノ花烈だった。
「たい、隊長……! 駄目です、傷口から吹き出す
負の霊圧が強すぎて、私たちの回道では中に入る前に
かき消されてしまいます……! このままだと、あと数分で
魂魄が完全に壊れて──。」
勇音の顔は蒼白だった。四番隊トップの医療鬼道ですら、
毒の霊圧に弾かれて患部に届かない。
手術室を埋め尽くす死の気配に、誰もが絶望したその時──。
「──勇音副隊長、代わってください。」
背後から響いたのは、いつもの気の抜けた声ではなかった。
凍りつくような、冷徹な静寂。
長身を翻し、一般隊士の白衣をなびかせて歩み出てきたのは、
八神星だった。
「八神くん!? ダメよ、副隊長格の私でも弾かれるのに、
一般隊士のあなたじゃ霊圧を吸い尽くされて──」
「いいから下がれ、虎徹勇音。」
その低く、鋭い声に、勇音は息を呑んで硬直した。
いつもは自分にヘコヘコしている部下の男から放たれた、
絶対的な「強者」の命令。
「仕方ありません。八神、……やりなさい。」
卯ノ花が鋭い眼差しで、静かに頷く。
すべてを察した星は、瀕死の死神の胸元へと両手をかざした。
(クソ、この毒……ただの虚のものじゃないな。藍染の実験か、あるいは──。だが、ここで僕が手を抜けば、この男は死ぬ。)
星は奥歯を噛み締めた。
正体を隠すための「1%の封印」。それを維持していては、
この毒の霊圧は相殺できない。
自分の大切な穏やかで静かな生活と医者としての誇り。
天秤に賭けるまでもなかった──。
(──少しだけ、引き上げるぞ)
星が、自身の内なる底なしの霊圧の、
ほんの『一握り』を解放した。
──ドクン、と。
手術室にいた全員の心臓が、一瞬、強制的に止められたかのような錯覚に陥った。
「ッ……な、に……これ……!?」
勇音が床に膝をつき、激しく呼吸を乱す。
熱は無い。嵐のような衝撃も無い。
しかし、部屋の全方位から、光すら届かない、底が知れない
極寒の『夜の深淵』に包み込まれたかのような、
圧倒的な霊圧の質量。
空間が、星を中心にして目に見えて歪んでいた。
『しんクン、出力5%! 雷(いなずま)、
最大電圧で固定するよ!』
『──星、風の障壁で毒の霊圧を隔離しました。
一気に焼き尽くしなさい!』
脳内の二人の咆哮と共に、星の両手から、これまでに見たこともない濃密で邪悪なほどの「漆黒の紫電」が爆ぜた。
「──回道・迅雷烈風仕様。……消え失せろ。」
バリバリバチィィィィィィッ!!!と、詰所の窓ガラスが全てヒビ割れるほどの怪音が轟く。
星から放たれた規格外の霊圧が、一番隊士の魂魄を蝕んでいた
毒の霊圧を、力ずくで、文字通り根こそぎ「圧殺」し、
焼き尽くしていく。
「あ、あああ……っ!」
数秒前まで死に瀕していた一番隊士の口から、
生気の混じった呼吸が漏れた。
崩壊しかけていた魂魄の境界線が、星の圧倒的な霊圧によって
強制的に再結合され、完全に、元の健康な状態へと
修復されていた。
「嘘……こんなこと、あり得ない……。
回道だけで、毒の霊圧ごと……?」
勇音は、信じられないものを見る目で星を見上げていた。
星はすぐに霊圧を再び1%へと圧縮し、額の汗を拭った。
「ふぅ……。なんとか、一命は取り留めましたね。勇音副隊長、あとは通常の薬湯の点滴をお願いします」
そう言って、いつもの冴えない四番隊士の笑みに戻る星。
だが、手術室の空気は二度と元には戻らなかった。
勇音は呆然と星の手を見つめたまま、言葉を失っている。
そして──部屋の隅で、卯ノ花烈だけが、悲しいほどに
美しい笑みを浮かべて星を見つめていた。
その瞳は言っていた。
(もう、隠し通せませんね、八神)と。
一番隊士が助かったという安堵の裏で、
星は確信していた。
これほどの霊圧を放ったのだ。一番隊の、
──あの総隊長(山本元柳斎重國)の眼が、
自分の存在に気づかないはずがない、と。
(平穏な日常が、少しずつ遠ざかっていくな……)
星は腰の『迅雷烈風』に触れながら、迫り来る尸魂界の嵐の気配を、静かに肌で感じていた。
──同じ頃。
静まり返った一番隊舎、その奥深く。
護廷十三隊総隊長、山本元柳斎重國は、
瞑目していた両の眼を静かに開いた。
彼を中心に据えた一番隊舎から、四番隊舎まではそれなりの距離がある。
しかし、老境の身でありながら尸魂界最強を冠する
彼の全天索敵は、先ほど四番隊で爆ぜた『異質な霊圧』を、
一瞬たりとも逃してはいなかった。
「……熱を持たぬ、深淵のごとき夜の圧。そして、
大気を引き裂く紫電か」
元柳斎は傍らに立てかけた斬魄刀──
『流刃若火』の柄を静かに握り直す。
彼の脳裏に、かつて千年以上昔に存在した、あるいは歴史の裏に葬られた、ある一族の二刀の系譜がよぎっていた。
「死神の枠を超えた、底知れぬ器。四番隊に、あれほどの怪物をいつまで眠らせておくつもりか、卯ノ花……。」
厳格な老人の眼に、鋭い光が宿る。
一番隊士の命が救われたという安堵など、総隊長の頭にはなかった。あったのは、護廷十三隊の戦力を揺るがしかねない
『不可解な最強』への、深い警戒。
「雀部」
総隊長が短く呼ぶと、闇から副隊長が姿を現す。
「はっ。……四番隊の件でしょうか」
「うむ。四番隊の一般隊士、八神星。……その身辺を洗え。
中央四十六室に気づかれぬよう、隠密にな。」
「御意」
影が消える。一番隊という『秩序』が、
ついに八神星というイレギュラーに牙を向けようとしていた。
一方、月明かりすら届かぬ五番隊舎の自室。
藍染惣右介は、手にした万年筆の手を止め、
窓の外の夜空を見上げていた。
その口元は、これまでにないほど深く、
歪なほど滑らかな「愉悦」に吊り上がっている。
「……素晴らしいね、八神くん。」
先日の流魂街での一件。藍染は星に『感知されなかった(完全隠蔽が通じた)』と確信し、彼をただの優れた実験体程度に括っていた。
だが、先ほど四番隊から放たれた霊圧の「本質」を感じ取った瞬間、藍染の計算はすべて引っくり返った。
あれは、弾かれたのではない。
自分の隠蔽を完璧に見抜いた上で、平穏を守るために、
あの少年は「感知できなかったフリ」という極上の芝居を
自分に打ってみせたのだと、藍染は今、すべてを理解した。
「私を前にして、あえて騙されたフリをして見せたか。
……あの一瞬で、そこまでの最適解を導き出し、
私を泳がせたというわけだ。」
藍染の胸に去来したのは、怒りではない。
自分の完璧な世界に、自分と同等、あるいはそれ以上の領域から自分を「観察」していた存在がいたことへの、
狂おしいほどの歓喜。
「ふふ、ふふふふ……! 面白い。本当に面白いよ、八神星。」
藍染は眼鏡を外し、冷徹な、剥き出しの野心を瞳に宿らせた。
「君はもう、ただの実験体ではない。この私が、私の世界の頂点へ至るための……超えるべき最高の『壁』だ。さて、どうやってその分厚い仮面を引き剥がしてあげようか。」
崩玉の輝きが、闇の中で怪しく明滅する。
総隊長という『秩序』と、藍染という『混沌』。
尸魂界を揺るがす二つの巨大な意思が、四番隊の静寂に潜む『星』を捕らえようと、同時に動き出していた。
何か長くなってしまいました。
もっと短くコンパクトな文章に出来たらなぁ。
精進します。