「だ、誰」
目の前でベッドに座っているのは、アロだ。
以前の彼女にはとても似合わない、ごく薄い水色の病衣に包まれていて。
髪と肌に、虫に喰われたみたいに白い斑模様が広がっていて。
僕のことを、忘れていたとしても。
そのはずだ。
「いや、来ない、で」
歩み寄ろうとして、拒絶される。
目を瞑っていたのを、僕の足音を聞いて一瞬だけ開いて、また固く閉ざした。
左目には医療用の眼帯を着けているが、右目も頑なに瞑っていた。
本当はこんなに、こんなに弱かったのか、君は。
居た堪れなくて、隔離室を後にする。
誰かがドアの前のプラカードを裏返して、「面会謝絶」の文字を表にした。
前には、壁に背中を預けて立つコルマの姿が見える。
「……話せるか」
彼女も、いつもの様子ではない。目を伏せた、物憂げな表情だ。
「はい、僕の部屋でよろしければ」
***
自ら、女性を自室に招くなんてな。
嫌に冷めた自分が、頭の中でそう茶化す。
「メイスはそっとしておいてくれ。あいつも相当参ってる」
ドアをロックして、コルマは開口一番に告げる。
そんなことは、分かっている。
頷いて、目を合わせて、頭を下げた。
「お願いします。説明してください」
彼女にも辛い役回りをさせることになるが、一刻も早く知りたかった。
アロに何があったのか。
「椅子、借りるぞ」
「はい」
ベッドに座って目線を合わせる。
コルマは観念したように、息を吸う。
「端的に言えば、任務中の外傷による記憶障害だ。それ以上は公表されていない」
僕は押し黙る。
それだけのはずがないからだ。
「そんで……ここからは独り言なんたが」
今度は勿体付ける様にフ、と短く息を吐いて。
黙る。
「早くしてください」
余裕無いんだよこっちも。
「すまん、迷っただけだ。半年くらい前のレオは、あんな感じじゃなかったんだ」
何故、レオの話になる?
それが率直な感想だが、コルマはこの状況で無駄話をする人間ではないと思う。
「あんな感じ、とは」
「もっと考えるし、悩むし、色々気を回す優しいヤツだった。今でもまあ、いいヤツではあるけどな」
まだ、レオとアロが繋がらない。
けれど、嫌な予感がした。
「ある日、世白を倒し損ねて、白い斑模様になって帰って来た。色が抜けたのは数日で収まったが、今までの記憶をほとんど忘れてた」
腕に力が入った。重みを感じて手元を見ると、座っていたベッドのシーツを乱雑に握り込んでいた。
「聴け。調べたら、一般人と世白との接触においても、一時的な記憶喪失が報告された例が複数あった」
コルマも覚悟が決まったのか、そこからは滔滔と語る。
「不思議に思わなかったか?彩能持ち以外にも人員は居るのに、そいつらが作戦時に同行しない事を。サポートだけでもしてくれりゃいいのにさ」
彼女は乾いた息を吐く。アルコールの匂いが、しなかった。
「世白には、記憶を奪う力がある。そして彩能は、その免疫でもあるとアタシは予想してる」
分かった。
アロとレオは、世白に記憶を奪われたんだ。
なら、どうすればいい?
「一般人の記憶喪失は、一時的とおっしゃいましたね。記憶は戻ったと」
「頭いいな、お前」
ありがとう、どうでもいい。
「因果関係は不明だが、接触があったと思われる世白の消滅と同時期に回復したそうだ。一例ではな」
「分かりました」
何故か、そう言って立ち上がってしまった。
「待て。ただ今回のケースは、それでも記憶が奪われた。となると世白の方が特別だと考えるのが自然だ」
制するコルマ。その目線はさっきまでの淀んだものではない。
「相手は本物の怪物だ。今までのヒーローごっこじゃなくなる」
怒りを孕んだ、鋭い目だ。
「僕も、白い部屋に閉じ込められていました。半年くらいだったかな」
僕も目を合わせて、言葉を並べる。
「辛かったですよ。アロは、今、そうなってます。このままじゃ、きっとこれからも」
コルマが両の手を顔の前で組んだ。不満げな表情に見える。
「それが許せません。レオだって、自分を奪われたままでいいはずがない。僕は二人を救けます」
格好を付け過ぎた、無責任な口ぶり。
言ってから自分でそう思った。それでも本心だ。
そうすると、コルマもゆっくりと立ち上がって僕の肩に手を置いた。
胸ぐらを掴んでくれても、文句は無かったけど。
「言っただろ……本物のヒーローにでもなったつもりか」
貴方がそれを言うか。いや、却って重みがある言葉なのか。
「っく、すまん」
そう断りを入れて、手が僕から離れたと思えば缶チューハイを開けて一気に仰いだ。どこから出したんだ。
止める気にもなれず、僕はキッチンまで歩くとコップに水を満たして彼女の傍の机に置いた。
「……冷静になれ。お前なら分かるだろ、合理的に考えろ。彩能の持ち主は今ここに居る奴らで全員じゃない。対策庁の本部から応援を呼び、組織的に対処すべきだ」
常時酒入れてる人に冷静になれとか言われたくない。
が、言ってる事は筋が通っている。
少なくとも、今すぐ無策で飛び出して行くべきではない。
そもそも命令も出されていない状況で、一個人が動きようがないのだ。
「アタシにとっても、アロは大切な仲間だ。助けたい、レオだってそうだ」
少しだけ勘違いされてる気もする言葉選びだ。僕にとっては、アロは何だと思っているのか。
なんとなく、顔が赤くなっているのを感じた。
議論はお互い顔真っ赤にして行われるべきではない。
「すみません、感情的になっていました。どう行動すべきか考え直します」
一つ、大きく深呼吸してそう返す。
「行動指針は変わらない、って聞こえるな」
「はい」
その通りだから、はいと答えた。
コルマはコップの水を一口だけ飲むと、机に音を立てて置き、椅子に深く座り直す。
「僕から、もう一ついいですか」
努めて明るい声を作り、微笑みながら問いかける。
「コルマさんはそれを知っていたから、今まで僕を守ろうとしてくれていたんですか?」
「……まあ、それもあるな」
彼女は視線を外して、ぶっきらぼうに頭を掻いた。
「ありがとうございます。鍛えてもらった分、これから皆に返しますよ」
熱くなっていませんよ、とアピールすべく口角を上げ続ける。
コルマにもそれが伝わったのか、部屋に流れる空気はいくらか柔らかいものになっていた。
「お時間いただいてありがとうございました。コルマさん、一人でお部屋に戻れますか?」
彼女は無言でスッと立ち上がり、またすぐに座った。
「すまん、情けねえ」
それだけ発して、僕を見上げる。
眉を八の字にして、瞳は潤んでいた。
「ええと……失礼しますね」
普段は見せないその表情に、胸に込み上げるものもあったけど。
気にしないことにして屈み込み、肩を貸す。
誰かに肩を貸す、という経験は初めてだったが、彼女はすぐに腕を回して体重を預けてくれた。
首筋に感じるこの温かさも、守りたいと思った。
***
「こんばんは」
もうそんな時間か、と思った。
「こんばんは。レオ」
コルマを送った帰り道。
ばったりと出会った青年にも、努めて優しい声を選ぶ。
さっきの挨拶だけで比べれば、なんと僕の方が声が大きかった。
異常事態。
「辛そうだね」
僕よりもずっと。
「そう、かもね」
そう返すレオの声には、やはり覇気がまるでない。
「心配なんだ。凄く、イヤな感じがする。アロがああなって、メイスが塞いじゃって、コルマはピリピリしてる」
しおらしく口を震わせる。君がそんな顔をするなんて。そんな事態が起きているなんて、ヒドい話だ。
「こんな時に、ボク、どうしたらいいか分からない」
涙を堪えながら絞り出された声を聴いて、むしろ今までの彼の振る舞いが今更に腹落ちした。
あの、底抜けに明るく楽しそうな態度。
君には、あれだけしかもう遺っていなかったんだな。
僕と違って、奪われたから取り戻そうともできずに。
だから、ただ今あるものを大切にしていた。
それだけだったんだ。
君の記憶も絶対に取り戻す。
そう伝えたくなるが、流石にレオにまで全部を話しちゃダメだよな。
「すぐに命令が出るよ。その時に戦えばいいんだ。アロは、きっと元気になる。そうすればメイスもコルマも、元に戻る」
半分は、自分に言い聞かせたセリフだった。
「レオを頼りにしてるし、僕も頑張るから」
だから、と。その先に続く言葉を探そうとする間に、レオが拳を差し出した。
なので、グータッチ。
「ありがとね、元気出たよ」
その言葉と共に、レオはまだぎこちないけれども笑顔を作ってくれた。
これ以上の言葉は、不要に思えた。
「うん。僕もありがとう。またね」
レオと別れ、頭の中を整理する。
二人の記憶を取り戻す、つまりそれを奪った世白を倒すという目的を果たす為には、まだ対策庁からの命令を待つ以外にない。
だったら今の僕に、せめてできることは。
一つの覚悟を胸に、自室のドアをくぐった。