同日 アメリカ ワシントンD.C. 商務省・長官室
商務長官はデスクに両肘をつき、こめかみを強く指で押さえながら、猛烈な頭痛に耐えていた。
手元にあるのは、デラウエアの調査団から送られてきた「NEXA」の無惨な中間決算予測。そして、それと連動するように全米のサプライチェーンが悲鳴を上げている実態の報告書だった。
今回のNEXAの強制接収。そして、それを受けた連合のあまりにも潔すぎるアメリカ市場からの「自主的撤退(出禁宣言の受諾)」。
その結果がこれだ。接収からわずか2か月弱、NEXAのほぼ全店舗が月間ベースで致命的な大赤字を叩き出していた。1店舗あたりの赤字額は、品種を絞った小型スーパーゆえに少額に見える。だが、問題はその数だ。すでに全米規模のインフラとして展開済みであり、その数は220店舗にものぼる。
すべてを合算した推定年間赤字額は、もはや一省庁の予備費で補填できるレベルを超えかねない。しかし、すでにただでさえ国家予算は圧迫されているのに、そこにこのレベルの追加予算はさすがに難しい。
かといって、今さらこの赤字の山を「民間の経営破綻」として切り捨てることも不可能だった。大統領は就任演説で、これを『不当な外資から奪い返した、我が政権による貧困層救済のための公共インフラだ』と大々的に宣言してしまったのだ。今ここで店舗を閉鎖すれば、インフラを救うどころか、ただ破壊しただけということになる。支持層の失望は怒りへと変わり、全米の州政府庁舎前で同時多発的な大暴動へと発展する可能性すら、決してゼロではなかった。
「……中堅の地元小売りチェーンに運営を丸投げし、体裁だけ整えて民営化するのが、一番傷を浅くする方法だろうがな。だが、それを行えば結局は『普通の、どこにでもあるローカルスーパー』に戻るだけだ。連合のやっていたあの圧倒的な安さは消え、大義名分は完全に崩れる。それも、半年もかからずにな……」
だが、ワシントンを襲うこの貧困層の不満リスクに対し、さらに追い打ちをかけるような最悪の報告が、今度はFDA(食品医薬品局)と厚生省のルートから入ってきた。
セメラー社が日本の佐々木製薬とライセンス契約を結び、全米に独占供給していた「手術用緩徐麻酔薬」のライセンス突然中断の報告書だ。
「ササキのバックにまで、あの連合(Kバイオ)が居座っていたとは……くそっ! よりにもよって、このタイミングで……!」
長官は報告書をデスクに叩きつけた。
この麻酔薬は、今やアメリカの医療現場においてなくてはならない「絶対的な安心のインフラ」と化していた。手術や深刻な治療を受ける際、わずか50ドルの追加オプション(保険が適用されればさらに数ドル安くなる)を支払うだけで、脊椎や静脈に突き刺されるあの太い麻酔針の、肉体的・精神的な恐怖をほぼ抑えられる。
そのため、全米のあらゆる手術において、患者側から指名が入るほぼ必須のアイテムになっていたのだ。
競合他社は、連合が敷いたあの『世界薬価抑制条項』という低価格の防壁のせいで、莫大な開発費を回収できず、参入すらできていない。ならば政府の補助金を出して国内製薬大手に類似品を急造させればいい、と一瞬考えたが、それをやれば今度はNEXAの赤字補填に回す国費との配分(トレードオフ)で予算が完全にパンクする。
そして、トドメとなったのがエネルギー省から回ってきた、ICIT社のデータサーバーに関する次世代海水利用技術の開発停止データだった。
こちらも当初は「重次化学工業」という、単なる一日本企業が主導しているプロジェクトだと思われていた。そのため、大統領令に関係なく継続できるだろうと高を括っていたのだ。しかし、開発停止の緊急面談の場に突然現れたのはG化学の担当者であり、彼らは『この技術の核心部分は連合関係企業(G化学)の知的財産ですので、大統領令に従い、本日をもって一切のアクセスを遮断します』と言い残し、実証実験の大型設備建設を残すのみという、ほぼ8割方完成していた段階でプロジェクトを木端微塵に粉砕していった。
ビッグテックの乱開発による地下水枯渇問題に怯え、この海水冷却技術に数億ドル規模の巨額投資を行っていたウォール街の富裕層やシリコンバレーの投資家たちにとって、これはまさに正面からの青天の霹靂だった。
「……格安スーパー網で、政権の最大の狙いであった『貧困層』を。
緩徐麻酔薬の供給停止で、世論を形成する『中間層』を。
そして次世代データサーバーの凍結で、国家の経済を動かす『富裕層(ビッグテック)』を……」
長官は自らの言葉に、血の気が引いていくのを感じた。
アメリカ全土の、あらゆる階層のライフラインに、連合の根が完璧に食い込んでいたのだ。
包囲し、叩き潰したと思っていたのはこちら側だった。だが実際は、自分たちから進んで連合の包囲網の中に飛び込み、自ら退路のシャッターを閉めてしまった――長官は、底寒い錯覚に陥っていた。
「長官……もはやこれは、NEXAの赤字がどうのこうの、という局地的な問題ではないかと愚考します」
背後に控えていた商務省のベテラン次官補が、眼鏡の奥の目を重く沈ませながら進言した。
「ホワイトハウスが主導している、あの『24社連合排斥運動』そのものが、この全米を襲う危機のすべての元凶です。大統領にあの命令を撤回させない限り、仮にNEXAを天文学的な国費運営で強引に維持し続けたとしても、残り2つの医療とITインフラの心停止(バグ)は残ったまま、我が国の息の根を止めに来ます」
「……そんなことは分かっている。分かっているさ」
長官は力なく椅子にもたれかかり、天井の眩しい明かりを遮るように片手で顔を覆った。
「だがな、次官補。就任したばかりのあの大統領が、自分の唯一のアイデンティティである『アメリカ第一主義の勝利』の看板を自ら降ろし、日本の民間システムに全面降伏しましたと、今さら国民に認められると思うかね?」
「……」
次官補は沈黙した。
合理的で冷徹な数理だけで動く連合。対して、一度振り上げた「正義の拳」と「メンツ」を絶対に降ろすことができない、民主主義国家の最高権力者。
その決定的な構造のバグを、海の向こうのシステムは最初からすべて計算に入れた上で、ワシントンが自滅していくカウントダウンをただ静かに見守っているようだった。
2044年10月 アメリカ ワシントンD.C. ホワイトハウス・大統領執務室
商務長官は、最悪の事態を覚悟しながら大統領への直訴に臨んでいた。
対峙するのは、歴代でも類を見ないほどのタカ派であり、「アメリカ第一主義」の看板を決して降ろそうとしない傲慢な最高権力者だ。これまでのデータを示し、24社連合排斥の非を鳴らしたところで、激怒した大統領がさらに国家権力を乱用し、日本政府への報復措置やさらなる強硬令をぶっ放すのではないか――長官の胸中はその恐怖で満たされていた。
しかし、報告書を一通りめくった大統領の口から出たのは、予想だにしない一言だった。
「……分かった。あの経済行動規制は取り下げよう」
「え……?」
長官は、我が耳を疑った。あまりにあっけない、呆気にとられるほどの全面的な手のひら返しだった。
しかし、執務室を出て自らのオフィスへと戻る廊下で冷静に考えれば、それは「政治的合理性」の観点から見れば極めて当然の帰結だった。
超格安スーパー網「NEXA」は一見、貧困層向けのローカルなインフラに過ぎない。だが、その実態は、全米220店舗が叩き出す安定したキャッシュフローをベースに細かく「証券化」され、ウォール街の巨大ヘッジファンドの手によって数億ドル単位の『全天候型商品』として、すでに世界中の富裕層や機関投資家に大量に売りさばかれていたのだ。そこへ、緩徐麻酔薬の供給停止による中間層の医療危機と、次世代データセンターの凍結によるビッグテック企業の株価暴落リスクが連鎖した。
つまり、大統領が再選のために最も忖度しなければならない支持母体――「貧困層」。そこすら完全に失いかけているのに追加で「中間層」、そして巨額の選挙資金を握る「富裕層や機関投資家」までもが反対勢力に加わりかねない状況だ。大統領自身の掲げたナショナリズムの看板こそが、今や最大の『足手まとい』であり、全国規模で共通の敵へと成り下がっていたのだ。
(もしかすると……大統領すらも裏からコントロールしている、ウォール街や軍産複合体の本物のフィクサーたちから、すでに直電で直々の『叱責』があったのではないか……?)
そこまで勘ぐりたくなるほどの、見事な身代わりの速さだった。さすがにそれは陰謀論の類いだろうと頭を振ったが、そうでも思わなければ納得がいかないほど、国家の最高権力者は資本とインフラの現実の前にあっさりと屈服したのだ。
何はともあれ、これで破滅的な摩擦の連鎖は食い止められた。
――これ以上は、の話だが。
長官の背筋に、再び冷たい汗が伝う。
一度は『気に食わないから、システムも、サプライチェーンの設備も、人員も、すべてこの国に置いて今すぐ出ていけ』と暴力的に勘当した相手なのだ。それを、自分たちの都合が悪くなったからといって、「規制を解除したから、また戻ってきていいよ」と言って、あの冷徹な数理の城である『連合』が、いや普通の民間企業であってもすんなりと元の鞘に戻ってくれるだろうか?
アメリカ市場を失うことが「譲れない部分」ではないと証明してみせた連中が、はいそうですかと無条件で回線を再接続してくれる保証など、どこにもないのだ。
「……長官。大統領からの正式な拝命事項です」
同行していた秘書官が、重い口調で告げた。
商務長官にまず申し付けられたのは、ホワイトハウスの公式発表に先んじた、日本の外務省および次官級への「極秘裏の詫び入れ」と、関係修復の打診だった。
(……元凶のあんたが自分で頭を下げに行けよ、この臆病者が……)
大統領執務室の方角へ向けて、決して口には出せないドス黒い毒を心の中で吐き散らしながら、商務長官は重い足取りで、日本大使館および東京へのホットラインを開くための準備へと向かった。大国アメリカのプライドが、システムという名の無機質な怪物によって、完全にへし折られた瞬間だった。