2045年 1月 アメリカ ワシントンD.C. ホワイトハウス・大統領執務室
「まだか! もう2か月半も経っているんだぞ!」
大統領は執務机を激しく叩き、苛立ちを隠せない。
10月にアメリカ側が制裁取り下げを決定した。
規制を掛けた時は連合側はわずか3日後には「全米撤退」の決断を下し、恐るべき迅速さで実行フェーズを終えていた。それなのに、制裁を解除して「戻ってきていい」と通告してから2か月半が経過した今になっても、再参入するかどうかの連絡すら一切入ってこないのだ。
痺れを切らして日本政府に公式・非公式のルートで問い合わせても、返ってくるのは「向こうが数理的算定を行っているとしか言わないので……」という、木で鼻をくくったような回答だけだった。
「これだから日本企業は意思決定が鈍いのだ。平時の合議制に縛られているから、競争の激しいグローバル市場で負けるんだよ」
吐き捨てるように言う大統領の後ろ姿を見ながら、商務長官は心の中で激しく毒づくしかなかった。
(意思決定が鈍いだと? 撤退の時のあの神速の身軽さは何だったんだ。お前の言葉は完全に矛盾しているだろうに……)
それよりも、商務長官の脳裏をよぎる「嫌な心地」は、日に日に確信へと変わりつつあった。
(あの迅速な全米撤退。そして、その後に続くこの異常な長期間の保留……。これは単なる嫌がらせのやり返しなんかじゃない。奴らは、我が国が再参入の『供物』として何を差し出してくるかを冷徹に品定めしているんだ。しかも最悪なのは、この膠着状態が長引けば長引くほど、連合がアメリカにとって『代替不可能なインフラ』であるという現実が証明され、我が国が困窮の果てに出せる『最大の供物(譲歩の臨界点)』のヒントを、自ら進んで曝け出すことになる……。もし奴らがそこまで計算して沈黙しているのだとしたら、我々はどうすればいい?)
現状、超格安スーパー網「NEXA」の220店舗は、大統領のメンツを守るためだけに国費補填して無理矢理稼働させている。今はまだ3か月分だからまだ賄える。だが、これが長引けば長引くほど国家財政は確実に圧迫されていく。かといって、国費投入を止めて店舗を手放せば、せっかくのインフラが文字通りの焼け野原になりかねず、貧困層の暴動の引き金になる。
医療現場を直撃していた手術用緩徐麻酔薬の方は、現在カナダの大手製薬企業を「クッション」として経由し、アメリカ国内に入ってきてはいた。
だが、その流通価格は以前の3倍近くである「150ドル」にまで跳ね上がっていた。
それでも、アメリカの不条理な医療費の基準から見れば、まだ150ドルは「払える額」であり、暴利とまでは言えない。連合が敷いていたあの『世界薬価抑制条項』は、あくまで佐々木製薬と、その佐々木製薬から直接ライセンス契約を結んだ企業(元セメラー社など)の国内販売までが適用範囲だ。つまり、そこから先、今回の新パートナーであるカナダ企業にとっては、カナダ国内販売価格は50ドル付近までに制限されるが、アメリカへ輸出する段階で薬価の縛りは条項的に消失する。つまりは『アメリカ輸出ならいくらになろうが当社契約に違反しない』という判断になる。
(今はまだ、連合と佐々木製薬側の動向に配慮していること。そして、あまりに薬価を上げすぎると、アメリカ政府とメガファーマたちが本気で莫大な予算を組んで代替薬の開発・特許迂回に乗り出してくること……それを警戒して、あえて『3倍』という絶妙なラインに抑えているのだろう。だがこれも、ジリジリと価格を上げて、アメリカの医療界が耐えられる臨界点がどこにあるかをシステムが探ってくるに違いない)
一方で、重次化学工業とICITによるデータサーバーの海水冷却技術の実証実験は、完全に凍結されたまま微動だにしていなかった。ウォール街の富裕層やシリコンバレーのビッグテックからは、開発再開を求める無言の圧力がホワイトハウスへとかかり続けている。
「ふっ……。生かさず、殺さず、か。これでは、合衆国そのものが、あの連合にとっての巨大な『社会実験体』みたいなものじゃないか」
長官は自嘲の笑みを浮かべた。
今この瞬間も、部屋の真ん中でイライラを周囲に散らかし続けている大統領。そしてその傍らで、顔を青ざめさせ、どこかの大口支持層や機関投資家へ向けて5秒の間隔も無く電話を掛け続けている副大統領。
自分たちは、開けてはならない地獄のデスゲームの幕を、自らの手で引いてしまったのだ。
もし、連合の最終的な狙いがアメリカ市場への再参入なのだとしても、このタカ派の大統領が居座っている限り、数年後にはまた別のナショナリズム的な圧力をかけてくることは火を見るより明らかだった。大統領が別の人間に変わったとしても、「アメリカ第一主義」という国民全体のイデオロギーが変わっていなければ、結果は同じこと。
ならば、あのシステムが下す判断は一つだ。
――この大統領を、任期途中で完全に失脚させる。
そうすれば、「行き過ぎたアメリカ第一主義が招く、国家インフラの崩壊と財政破綻」という最悪の未来のルートを、アメリカ国民の脳髄に最も残酷な形で知らしめることができるからだ。
連合は何も焦っていない。そもそもアメリカ市場に深く依存もしていないのだ。その気になれば、大統領の任期である4年、あるいは8年の間、この国をただの「実験場」として放置することなど、彼らの不等式にとっては造作もないことだった。
その間にアメリカ国内で代替インフラや類似技術が出来上がる可能性もあるが、それすらも海の向こうの連中にとっては「織り込み済みの誤差」として、どうでもいいことのように感じられた。
大統領執務室の重い扉を出ると、商務長官は並んで歩いていたお抱えのシニア・アナリストである高級官僚の一人に、ポツリと呟いた。
「我々が追い出した、あの『連合』という組織……。あれは、我々が知る普通の企業ではないな」
「ええ……。通常の日本企業であれば、これだけの巨大市場と、手つかずのまま存命しているサプライチェーンを目の前にすれば、制裁解除の瞬間に大喜びで飛びついてくるでしょうからね」
「そうではない。日本企業だけじゃないんだ」
長官は足を止め、窓の外に広がる冬のワシントンの景色に目を向けた。
「我が国のアメリカ企業であれ、欧州の巨大資本であれ、中国の国策企業であれ……およそこの地上に存在するあらゆる『企業』は、目先の利益を追い求めるように設計されている。ならば、設備もインフラもそのまま残されているこのタイミングで、一刻も早く再参入して営業を再開し、機会損失を防ごうとするのが本能のはずだ」
「……非上場企業集団だからでしょうか? 株主から四半期ごとの利益を厳しく追及されず、何も指示されずに動けるから……」
「制度上は、確かにそれが理由になるだろう。しかし……」
商務長官の背中に、冷たい風が吹き抜けたような感覚があった。
「それでも、従来の『企業の性質』という枠組みだけでは、この不気味な沈黙が説明できないんだよ。資本主義のルールの中で動いているように見えて、その実、我々人間とは全く異なるプログラミングで動いている……。どこか、違う種類の生き物(システム)なのかもしれない」
「では、やはり……我々を焦らしに焦らして、国家から特大の免税権や特権という『プレゼント』を差し出させるための、高度な駆け引きの作戦(ストラテジー)なのでしょうか?」
「それも可能性としては十分に説得力がある。だが……」
長官は再び歩き出し、力なく首を振った。
「正直に言うよ。あの連中の計算式に対して、我々の貧相な脳で優先順位(動機)をつけること自体が、もう不可能なんだ……」
大国アメリカの権力構造の最高峰に位置する者たちが、いまや海の向こうの姿なきアルゴリズムの手のひらの上で、自分たちの「死因」すら分からないまま、ただ終わりのない膠着状態(チェックメイト)の秒読みを聞き続けていた。
同日 ベルギー ブリュッセル 欧州委員会(EC)本部
「――間一髪、といったところか……」
巨大なガラス窓から灰色のブリュッセルの街並みを見下ろしながら、欧州委員会の主要メンバーの一人が、手元のタブレットに流れるアメリカ発のニュースを見詰めて小さく言葉を漏らした。
画面の向こうのワシントンでは、インフラの機能不全と底なしの赤字、そして何より「完全に無視されている」という未曾有の屈辱に、ホワイトハウスが血の涙を流している。
アメリカに展開されていた格安スーパー網が「NEXA(ネクサ)」なら、欧州各国に深く根を張っている連合の網は「GRID(グリッド)」だった。
当然、高度な官僚機構を自負する欧州委員会も、連合によるこの全欧規模のインフラ浸透の実態には早い段階から気づいていた。EUとしての「経済主権」を守るため、すでに水面下で対策チームを立ち上げ、GRIDの「欧州現地資本化」へ向けたシナリオを策定していたのだ。
ただし、そこは法の支配を重んじる欧州。アメリカのような大統領令による一方的な強制接収という野蛮な強硬手段ではなく、正当な市場価格を算定し、法的手続きに則って各国が連合から店舗や物流網を「現状買い取り」する方向で交渉を進める予定だった。
だが、ニュースを見つめる委員の背中には、冷たい汗が伝っていた。
「すべての加盟国を、ブリュッセルの統制下に置き続けることなど不可能だ」という、EU特有の絶対的なバグが頭をよぎったからだ。
もし、欧州の威光を笠に着て、あるいは自国の財政難を理由に、連合を「不当な外資」と決めつけて買い叩こうとする抜け駆けの加盟国がひとつでも出ていたらどうなっていたか。あるいは、アメリカの強硬策に便乗して『欧州ルール』を無理矢理ねじ込もうとしていたら――。
その瞬間に、欧州全域のGRIDが一斉に「心停止」し、アメリカと全く同じ、いや、陸続きで流動性の高い欧州であればそれ以上の規模の大パニックに陥っていたかもしれない。
『所詮は日本企業だから、強く出れば最後は折れるだろう』
『歴史と正当性は、我々地元欧州の側にある』
そんな傲慢な、古い植民地主義の残滓のような態度で、もしあの無機質な「システム」との交渉に臨んでいたら……。自分たちも今頃、ホワイトハウスの大統領のように、怒りと焦燥で髪をかきむしる側になっていたに違いない。
一方、肝心のアメリカ国内では、政府がどれほど情報を統制し、自らの失態を隠蔽しようとも、すでに現場の市民たちのレベルで隠し通せる段階を疾うに過ぎていた。
全米のコミュニティ、ネットの掲示板、そしてSNS上では、NEXA系列の店舗網を巡る激しい議論が、1秒ごとに数百件の規模で交わされている。
当初は政府のプロパガンダを鵜呑みにした、
「食の安全とインフラを、アジアの外資に握られたままにするのは安全保障上ダメだ。大統領の接収は正しい」
というナショナリズムに満ちた意見も一定数存在した。しかし、実生活の利便性と経済的な直撃を前に、そうした「愛国心」は急速に摩耗し、今や反政府寄りの辛辣な現実論が圧倒的な多数を占めるようになっている。
「他国の優れたビジネスモデルを『泥棒』みたいに強制接収しておいて、その上、自分たちじゃまともに維持できずに『国費が足りないから値上げします、減便します』って……。だったら最初から、外資のままで経営させておいた方が100倍マシだっただろ」
「そもそも、その『外資』って中国やロシアみたいな明確な敵対国なのか? 日本だろ? 太平洋で一番強固な同盟国じゃないのか。同盟国の民間企業の財布を国家権力で強奪する国を、誰が信頼するんだ?」
「我が国のビッグテック企業が、世界中で検索エンジンやOS、クラウドのインフラを独占して他国の富を吸い上げているのは『自由競争の成果だ』とか言って放置しているのに、自分の国にちょっと安くて優秀なスーパー網が入ってきたら『許せないから没収する』というのは、さすがにダブルスタンダードが過ぎる。擁護のしようがない」
これらの声は、単なる「生活苦からくる愚痴」だけではなかった。
日々目に見えて悪化していく生活実感への怒りに加え、アメリカという国家が建国以来掲げてきた「自由市場の守護者」「法の支配」という政治的正当性の根幹が、身内の大統領によって内側から破壊されたことに対する、知識層や中間層の深い失望と倫理的な反発が合流していた。
大統領が国民にアピールしたかったはずの「アメリカ第一主義の勝利」という果実は、今や民意という名の濁流によって、完全に「政権の無能と傲慢の象徴」へと裏返りつつあった。