同日 アメリカ ワシントン
大統領がホワイトハウスの演説台に立つ。就任からまだ半年ほど、本来であれば新政権のハネムーン期間であり、権力の絶頂にあるはずの時期だ。
しかし、現在のその場所はもはや大統領の言葉を聴くための場ではなく、容赦のない怒号とヤジを浴びせるための「檻」と化していた。
歴代のいかなる大統領であっても、反対勢力からの嫌がらせや抗議に晒されることはあった。しかし、それでも演説会場の半数以上は熱狂的な支持派が埋め尽くし、大統領の盾となっていたものだ。
だが、今の彼の前に広がる光景は狂っていた。聴衆の90%が明確な「反対派」であり、敵だった。
医療費の急騰に怯える中間層、生活を破壊された貧困層、次世代インフラを凍結されたハイテク産業や金融界の巨頭たち、そしてそれらの恩恵を受けていた富裕層。アメリカを構成する全階層が、いまや完璧な「反大統領派」として合流し、演説台を包囲している。生卵や罵声が飛び交う地獄の演説が終わり、逃げ込むようにして始まった閣僚会議の席上、大統領は憔悴しきった顔で事態の収束を急がせた。
「……現状、我が国を揺るがしていた3大問題のうち、医療は3倍の価格ラインで一応の供給が始まり収束。AI冷却水技術も独占契約ではなくなったものの、4社分散という形で開発が再開されました。残るは、あの超格安スーパー網の処理だけです」
「それが一番、財政的にも民意の面でも厄介なんだろうが……!」
大統領が吐き捨てる。
「いえ、大統領。もしあの3つが同時に破綻したままだったら、今頃我が国は完全に内戦状態(パニック)でしたよ。最悪の地獄から、確実に数ミリは後ろに引っ張られて助けられているのです」
ここで、商務長官が重い口調で「最後の提案」を切り出した。
「NEXAを復活させ、これ以上の国費垂れ流しを止めたいのであれば、一つだけ提案できることがあります。ただ、これすらも相手に断られた場合、我が国にはもう、膨大な国費補填でボロボロの死骸を維持し続ける以外の道はありません」
「何だ! その提案とは!」
「島根の城島ファンドから、『情報(データ)』を買うのです。もちろん、彼らに『アメリカに戻ってこい』とか『再び経営の責任を持て』などとは言いません。これまでNEXAの全米店舗は、彼らのホストサーバーから送られてくる指示通りに動くことで黒字を維持していた。ならば、その『指示を受け取る権利』だけを、国費で購入するのです。……ですが、当然、その購入額は天文学的なものになるでしょうがね」
長官の言う「情報」とは、文字通りの生データだ。アルゴリズムの仕組みそのものやプログラムのソースコードを買い取るのではない。ただ毎日、「今日はここにこれだけ発注しろ」という『結論の指示をもらう権利』を月極めで購入するという契約に近い。
だが、それすらも連合の側にどう映るか、長官たちには容易に想像がついた。
情報を長期間にわたって購入し続ければ、必ずそこに「パターン(規則性)」が見えてくる。今回のNEXAサーバーへの強制捜査で見つかったあのランダム極まる発注履歴だって、膨大な時間をかけてメーカーや運送業者の当時のサーバー履歴と照合していけば、連合が何を基準に意思決定しているのか、その要素を抽出できるかもしれない。現に今、連邦政府の機関と名門大学のAI研究所が合同でその解析を進めている最中だ。
もし今後、長期間にわたって「指示データ」を買い続ければ、より洗練された機械学習のためのパターンデータが、アメリカ側の手に渡ることを意味する。
そんなリスクを、あの冷徹な連合が見落とすはずがなかった。
長官たちは複雑な面持ちで見つめ合う。
希望はほんのわずかにある。だが、断られる可能性の方がずっと高かった。最悪の場合、契約が成立したとしても、こちらの解析を妨害するために意図的に「ゴミデータ(ノイズ)」を混ぜて掴まされることくらい、少し考えれば普通に行き着く結論だ。
では、それを防ぐために「契約違反と喚きたてる権利」や「データ整合性の保証条項」を、あの連合が契約書に入れさせてくれるだろうか? 答えは否だ。首を縦に振るわけがない。
「……」
普通の日本企業が相手であれば、「巨大なアメリカ市場への再参入」や「グローバル展開による宣伝効果」をエサにすれば、いくらでも参入インセンティブを提示できた。
しかし、あの非上場企業集団は根本的に違う。
「……まるで高度な政治組織だ。そのくせ、徹底的な営利組織でもある。コングロマリット……日本ではあれを『財閥』と言うのだったか?」
大統領の呟きに、次官補が静かに資料をめくった。
「その日本と財閥ですが、調査によると日本国内においても、連合はNEXAと全く同じ仕組みの『スーパー丸得』という格安チェーンを展開しています。現在、日本政府は国内の二大財閥に巨額の補助金を出して代替スーパーを設置させ、徹底的に連合と競合させている最中だそうです」
「……!」
大統領の目が一瞬、光った。
「もし我が国の強制接収という暴挙がなければ、その『補助金による国内代替インフラの育成』も有効な一手でした。実際、以前に商務省から大統領府への提案報告でも上げさせていただいていましたよね? ですが……」
長官はそこで言葉を切り、深い、深い溜息をついた。
「あのような一方的な強奪をやってしまった後では、もう不可能です。アメリカの国内企業ですら、『いざとなったら、我々も政府からどんな無茶な牙を剥かれるか分かったものではない』と怯え、政府の補助金事業への参入を完全に尻込みしています」
補助金をジャブジャブに投入して国内に自前の代替インフラを育てるという、唯一の現実的な「退路」すら、己の傲慢な大統領令によって自ら断ち切ってしまっていたのだ。その残酷な現実に、大統領とその補佐官たちは完全に言葉を失い、頭を抱えた。
9割以上は破談を覚悟しなければならない、圧倒的に不利な商談。
それでもなお、頭を下げて徳島の財閥と島根のホストサーバーへ願うしかない窮地に、超大国アメリカの政府は完全に陥っていた。
2045年 3月 アメリカ ワシントン 商務省
アメリカ商務省の特使チームは、厳重なセキュリティで保護された専用回線を通じ、島根県松江市にある「城島ファンド」の本社へとオンライン接続していた。
ディスプレイの向こう側に映る連合側の担当者は、まるで春の陽気でも楽しんでいるかのように、終始涼しい顔を崩さない。対するアメリカ側は、日々ホワイトハウス周辺から浴びせられる怒号と、破綻寸前のNEXAの赤字補填の数字に追われ、全員が脂汗を滲ませながら画面を睨みつけていた。
「――なるほど。そちらの管理下に置かれている全米220の店舗に対し、我が方のホストサーバーから発注・物流の『指示情報』をデータとして定期配信してほしい、と。そういうご要望ですね」
「はい。もちろん、今回の一連の騒動のすべての始まりは我が国の不手際によるものです。情報の購入費用、およびその他の付帯条件に関しては、合衆国政府として最大限の譲歩を行う姿勢で臨んでおります」
今回の交渉にあたり、商務省はあえて日本の外務省を一切介さなかった。
あの連合を全く制御できていない日本政府を間に挟んだところで、時間の無駄になるのは目に見えている。それどころか、アメリカがこれほど弱り切っている窮状を露呈すれば、老獪な日本の官僚たちにドサクサに紛れて別の貿易利権や補助金協定などを交渉の隙間に滑り込まさせられるリスクすらあったからだ。
とはいえ、自分たちが犯した国際法無視の強制接収という大失態を思えば、日本政府を素飛ばした強引な二者間交渉について、後から何を言われても文句は言えない立場であるのも確かだった。
連合側の担当者は、手元で無機質な端末を軽く叩き、いつもの感情の籠もらない冷徹な笑みを浮かべた。
「承知いたしました。ご提示いただいた条件とリスク値をシステムに入力し、算定が終わりましたら、また改めてご連絡いたします」
ブツン。
あまりにも軽い返事とともに、一方的に通信が切断された。
世界を動かす超大国アメリカの精鋭官僚たちが、極東の名前も聞いたことがない地方都市に拠点を置く一企業を相手に、ここまであっさりとあしらわれた経験など過去に一度もなかった。回線が切れた後も、メンバーたちはしばらく言葉を失い、部屋には何とも言えない複雑で屈辱的な沈黙が流れた。
アメリカ側としての要求と、差し出せる予算や特権の制約条件はすべて提示した。あとは、あの無機質な怪物がこの取引に「利益判定(GO)」を下し、乗り気になってくれるかどうかだ。
そして――もう一つの戦いは国内にある。
今回のデータ購入が万が一成立したならば、毎日送られてくる膨大な「指示データ」という名の生肉を、国内の精鋭AI解析班と名門大学のチームがどれだけ貪り食い、彼らの秘匿されたアルゴリズムの「一端」を掴み取ることができるか。
牙をもがれた超大国が再び立ち上がるための微かな希望は、海の向こうの冷徹なシステムの演算結果と、自国のリバースエンジニアリングの成否に完全に委ねられていた。