2045年 4月 アメリカ メリーランド州 経済分析局
かつて大統領令による強制接収の直後、全米のNEXA店舗から突貫で吸い出された物流・販売データは、メリーランド州にあるこの機密データ解析センターへと集約されていた。
その後、事業が正式に「政府譲渡(焦土撤退によるポイ捨て)」されたことで、彼らは大義名分を得て、過去から現在に至るすべての店舗端末のログを堂々と吸い上げ続けている。だが、相手はあの「連合」だ。データそのものにどんな電子的なトラップや論理爆弾が仕込まれているか分かったものではないため、念には念を入れた厳重なセキュリティチェックを挟まねばならず、解析作業は亀の歩みのように遅れていた。
「――それで、どうですか? 何か掴めましたか?」
解析室のドアを開けて入ってきたのは、かつて日本の外務省と交渉のテーブルについていた、商務省の穏健派の局長だった。新政権による「大統領令による強奪」という狂った方針に最後まで異議を唱え続けた結果、事実上の左遷としてこの地味なデータ分析部門への部署異動を申し付けられ、ワシントンの政治中枢(交渉の場)からは完全に遠ざけられていた。
端末の前に座る主任解析官は、何日も徹夜を重ねたような泥色の顔で振り返り、力なく肩をすくめた。
「……可能性として統計学上、一番あり得そうな仮説は、『ただ、世界中の市場の余り物を集めていただけ』、でしょうか」
「そうですか……」
局長はため息混じりに、ディスプレイに流れる複雑な散布図を見つめた。
NEXAの店頭には、常に1品目しか並ばない。だが、その品種もメーカーも、まるで気まぐれな日替わりのように目まぐるしく変わる。たしかに、全米および世界中の食品メーカーが「作りすぎて倉庫に余らせていたデッドストック」を、アルゴリズムが底値で買い叩いて買い集めていたのだとすれば、説明はつく。
それなら、データをどれほど統計分析しても有意差がギリギリのラインに留まり、「完全なランダム」と「作為的なコントロール」のちょうど中間の、不気味なノイズのようになってしまう理由としても納得がいった。
「販売された商品については、現在、全米の主要メーカーに当時の生産実績の問い合わせと照会をかけています。そちらのデータと突き合わせれば、いずれこの『余り物買い叩き仮説』が正しいのかどうかはハッキリするでしょう。
……ですが、本当に深刻な問題は『運送(ロジスティクス)』のデータです。こっちは、記録に残されていない外部要素が多すぎます」
解析官はキーボードを叩き、全米のハイウェイ網のログを表示させた。
「運送会社に今になって『10年前のあの日のあの時間、どこの交差点の交通状況がどうだったか?』なんて、当然ですが当時のドライバーも運送会社もとっくに忘れてしまっている。
よほどの大規模なマルチクラッシュ(多重事故)ならニュースを検索して出てくるでしょうが、局所的な自然渋滞や、天候による数分の遅れといった微細な変数までは、こちらのデータベースに存在しない。これではリバースエンジニアリングのしようがないんです」
気の遠くなるようなデータの砂漠を前に、解析官は半ば匙を投げかけていた。
だが、最前線を追われた元交渉官の局長は、その疲れ果てた部下の目をまっすぐに見つめ返し、静かに、しかし断固とした口調で告げた。
「いいえ。たとえそれが不完全で、間違っているかもしれない仮説だとしても、構わないわ。それを形にしなさい」
「しかし、これではNEXAの数理モデルより精度が落ちる可能性が……」
「今の私たちの政府がやっている、あの硬直した『カチカチの固定型経営』より一歩でも前に進めるなら、どんな泥縄のアルゴリズムだって採用する価値があるの。
いい? 考えてみて。このまま何もしなければ待っているのは、国費で維持する10億ドルの赤字よ。もしあなたの不完全な解析で、それが9億ドルの赤字に減らせるとしたら――どっちがマシかしら?」
「……9億ドル、ですね」
「そうよ。1億ドルあれば、どれだけの生活困窮者を救えるか。今のホワイトハウスの連中にはその1億ドルの重みが分かっていないけれど、私たちはデータアナリストよ。数字の価値は私たちが一番知っているはずだわ」
大統領が自ら招いた致命的な経済の「敗戦」。
その戦後処理の最底辺で、かつて泥臭い外交交渉を率いていたプロフェッショナルたちは、超大国の意地と執念だけを燃料に、極東の怪物が残していった「データの抜け殻」から、世界で最も惨めで、しかし最も必死な1億ドルの搾り出しに挑み続けていた。
2週間後 アメリカ ワシントン 商務省
島根の城島ファンドから届いた返答は、アメリカ側が最悪の拒絶を覚悟していた中での、まさかの『条件付きの了承』だった。
「なんだろうね。合意(OK)のサインが、これほど不吉な文字列に見えるのは初めての経験だよ……」
商務長官は、届いた暗号化メールのプリントアウトをデスクに放り出した。書かれている条件の箇条書きは極めて少ない。だが、そこに込められた無機質なメッセージの意図は、一読すれば明白だった。
「『商品補充指示(発注タイミングと数量)の配信は可能だが、それ以外のイレギュラーな現場トラブルや物流遅延などへの個別指示は行わない。現地状況の詳細(コンテキスト)が我が方のホストサーバー側で不明なため』……白々しいにも程があるな」
「完全に、こちらがサーバーデータから逆算して読める『一歩先の領域』だけで配信を留める気ですね」
次官補が苦渋の表情で補足する。
「これ以上データを細かく渡せば、メリーランドの解析班にアルゴリズムのコア(変数)を盗まれる。だから、ブラックボックスの出口の数値(指示データ)だけを淡々と売ってやる、というわけです」
提供される情報が制限されている分、契約価格も彼らの基準からすれば低く抑えられており、提示された額は「年間1億ドル」と記載されていた。
現在のNEXAの推定年間損失額は11億ドル(日本円にして約1760億円)。この「1億ドルの情報料」を支払うことで、損失がどこまで相殺されるかはお買い得か迷うラインだ。
ただ、11億ドルという金額そのものは、アメリカの天文学的な国家予算から見れば決して大きな数字ではない。問題はそこではなく、これが一過性の補助金や災害復興費などの臨時出費とは異なり、大統領の失態という「人災」のせいで『今後、政権が変わろうとも永遠に続く固定費』になってしまったことだ。
いくら世界覇権国のアメリカといえど、一民間企業のハコを維持するためだけに、この巨額の赤字を「社会保障費」や「内政維持費」の名目で予算案に組み込み続けるなど、議会や国民に説明がつくはずがない。だからこそ、あのカリフォルニアの暴動や下院での糾弾騒動に発展したのだ。
だが、当の本尊である大統領は、商務省が弾き出したこの「年間11億ドルの赤字」という数字を突きつけられた際、事も無げにこう言い放ったという。
「は? なんだ、そんな程度の額なのか?」
その報告を聞いたとき、商務長官は目眩を覚えた。
(あの男は、我が国が軍事費や既存の社会保障費にどれだけの国費を動かしていると思っているんだ……。これは単発の兵器購入ではない。10年続けば110億ドルだ。いや、それどころか連合に捨てられた現場の経営悪化と今後のインフレ率を計算に含めれば、倍の220億ドルにまで膨れ上がっているかもしれないのだぞ。この手の泥縄の国費補填は、増えることはあっても減ることなどほぼあり得ない。それを分かって言っているのか?)
絶望的なトップの経済感覚の欠如。商務省の官僚たちは、もはや怒りを通り越して冷ややかな視線を身内に向けるしかなかった。
「……経営責任も持たない、発言の責任も負わない。ただ、日本から毎日『指示データ』という名の神託を送りつけるだけの、国家に対する独占コンサルティング業、か」
長官は自嘲気味に呟き、サインを自らのペンに走らせた。
「銃もミサイルも使わず、ただシステムを引き揚げるだけで超大国を財政の奴隷にする……。これが、あの『財閥』という怪物が編み出した、21世紀の新しい戦争の形、あるいは『賠償』の形なのかもしれないな」
アメリカ政府は、年間1億ドルを支払って「奴隷の首輪の鎖を少しだけ緩めてもらう権利」を買い取った。
島根のホストサーバーが吐き出す無機質な数字に、国家の命運を委ねるという屈辱の契約が、ここに正式に成立した。