2045年 8月 ベルギー ブリュッセル 欧州委員会
先月ワシントンでアメリカ商務省と持った極秘の共同作戦会議。その真の目的は、連合との接収・買収交渉が万が一「決裂(成約ならず)」に終わった際、欧州が自力でGRIDのデッドコピー(類似組織)を立ち上げるための「設計図集め」であった。
これまで他国が取った対連合の「予防策」と「対応」は、それぞれ全く異なる結果を招いている。
日本は「河内財閥」「紙村財閥」という国内二大メガグループとの3者合同による「代替インフラ(国産セーフティネット)」を構築。あらかじめ予防線を張ることで、連合に生命線を握られるのを防いだ。
アメリカは力づくでNEXAを強奪。結果、仕入れ指示以外のシステムを遮断され、残された物理的な「残存資産(不良債権化したハコと契約)」だけで自主運営せざるを得ない「地獄の泥沼」に自ら飛び込んだ。
この2カ国の明暗を見て、欧州委員会(EU)が出した方針は極めて現実的だった。
第1プラン(大本命):現状システムの丸ごと買い取り。 店舗だけでなく、仕入れアルゴリズムや配送ルートの指示系統まで、連合のソフト・ハードのすべてを金で平和的に買い取る。
第2プラン(保険):代替インフラの独自構築。 交渉が決裂した場合、アメリカでの暴露情報や口頭証言から得た「隙間ロジック」を模倣し、自国法に適合させたGRIDのコピーを国費で自作する。
幸い、連合はその強大すぎる実態を世間から隠蔽する性質があるため、システムに関する特許は1件も申請されていない。法的にシステムを模倣したとしても、国際特許法上は何の違法性もない「完全な合法」だ。
「まあ、できれば第1プランの『買い取り』で穏便にいきたいところだがね。公的機関が直接経営するスーパーなど、東欧の連中に見せてみろ。ソ連時代(社会主義の配給所)の悪夢を思い出す者が必ず出る」
「同感です。かつて東側諸国だった加盟国の高齢者層にとって、国営スーパーの棚がスカスカである光景は、トラウマそのものですからね……。そうした政治的アレルギーを起こさないためにも、買い取ったシステムはあくまで『民間主導の公共インフラ』という体裁を取り繕わねばならない」
彼らが代替プランの策定に躍起になっていたまさにその時。3日前、EU外交部が日本の外務省に向けて送信した「GRID売却に関する公式交渉の打診書」に対する、決定的な報せが舞い込んだ。
「に、日本外務省から返信です! 24社連合、GRIDの売却交渉に対して『前向き』とのことです!」
密談中だった会議室の扉が、ノックもなしに乱暴に開け放たれた。飛び込んできたのは、興奮で顔を紅潮させ、EU章付きの正式公電を握りしめた若手官僚だった。
「前向き……? 3日、いや、実質2日半しか経っていないぞ。こんなに早く返事をしてくるものかね? 普通は、いやもはや準国家的インフラの売買なら、数週間は焦らして交渉額を吊り上げるものだろう?」
「いや、待て。日本やアメリカの報告書にあったぞ。彼らが挙げた連合の『異常性』の一つが、この『常軌を逸した意思決定のスピード』だ。……それで、肝心の交渉場所と時間指定は?」
息を呑むベテラン高官に、若手官僚は書類を見つめたまま、信じられないといった様子で言葉を絞り出した。
「そ、それが……『オンライン回線で、明日からでも』と……」
「明日……オンラインで!?」
高官の一人が、椅子の背もたれに背中を打ち付け、唖然とした表情を浮かべた。
国家の命運を左右し、下手をすれば世界規模の金融市場に大激震をもたらす超巨額のインフラ売買交渉を、まるで地方ベンチャーの商談のように画面越しで行おうと言うのだ。
「その……日本側のメッセージによれば、『今回は現物の確認(内見)は必要ありませんから』とのことです」
その言葉の真意を理解した瞬間、会議室を冷ややかな沈黙が支配した。
確かに、店舗という「物理的なハコ」はGRIDを経由して散々、連合が使い倒している。仕入れや配送の指示を出す「システム本体(頭脳)」は日本にあるが、それすらもクラウド上のソフトウェアに過ぎない。GRIDの本質が、世界中の「余り物」と「死に時間」を自動でマッチングする「データとアルゴリズム」であるならば、確かにそこに『確認すべき実物(肉体)』など存在しないのだ。
「現物の確認は不要……か。合理的と言えばこれ以上ないが、連中にとっては、欧州全域を支配するこのGRIDというインフラすら、液晶画面の向こうで右から左へ受け渡せる『ただのプログラムコード』に過ぎないということか」
莫大な出張費と移動の時間を節約し、文字通り1秒も無駄にせず交渉のテーブル(ディスプレイ)に着く。
「もし本当に現地での物理的な引き継ぎや、システム調整が必要になれば、その時にだけ専門の技術者を送り込めばいい」という冷徹な割り切り。
それは、かつて数ヶ月の準備期間をかけて首脳会談を開き、恭しく握手を交わしていたオールドタイプの国家エリートたちに対する、連合からの静かな「旧時代の遺物(コストの無駄)」という宣告のようでもあった。
「……面白い。明日のオンライン会議を設定しろ。大至急だ。画面の向こうにいるのがAIであろうが、極東のファンドマネージャーであろうが、我々はEUの全購買力を人質に取られた状態での取引に臨むことになる」
統括官の指示を受け、会議室は一転して、嵐のような慌ただしさで動き始めた。明日、画面の向こうから提示されるであろう「値段」と「条件」は、果たしてヨーロッパに生き残る道を与えるものなのか、それとも。
翌日 ベルギー ブリュッセル 欧州委員会
極秘のオンライン会議システムが起動し、メインモニターに日本との回線が接続される。
画面に表示された参加者リストのアイコン。そこには連合や城島ファンドの人間だけでなく、日本の外務省、経済産業省、内閣府の高官たちの名前がずらりと並んでいた。
(まあ、そうなるだろうな……。これだけの国家基盤を揺るがす巨大なシステム売買だ。日本政府にとっても、交渉に介入して国益や利権をねじ込む絶好のチャンスなのだから)
欧州委員会の交渉官たちは、日本政府側の出席者たちの思惑を冷ややかに分析しながら、画面の向こう側の「主役」が現れるのを待った。
「初めまして。連合と呼ばれている組織に加盟しております、城島ファンドの向島と申します。アメリカのNEXA、および欧州・イギリスのGRIDの事業統括を担当しております」
スピーカーから流れてきたのは、諜報機関のデータベースにある不鮮明な映像や写真でしか見たことのなかった、あの男の声だった。拍子抜けするほどに平穏で、どこにでもいるビジネスマンのような、極めて「普通」のトーン。
「初めまして、向島氏。」
「……では、事前に伺っている基本合意の確認から入りましょう。欧州側が既存のGRID店舗網を買い取り、弊社はシステムの要である『仕入れおよび配送指示のアルゴリズム』を今後も提供し続ける。この条件で相違ありませんね?」
「はい。間違いありません」
向島は淀みなく進める。だが、彼が次に浮かべたビジネスライクな笑みが、交渉官たちの背筋を凍らせることになる。
「ですが――条件が一つあります。現在GRIDを展開しているのは、イギリスを含めてまだ6カ国のみです。今後、我々は『新規展開は一切行いません』。これでよろしいですね?」
「な……ッ!?」
会議室の空気が一瞬にして凍りついた。
GRIDが現在展開しているのは、人口と経済規模の大きいフランス、ドイツ、イタリア、スペイン、そして最近進出したばかりのギリシャ。そして厳密にはEU離脱国であるイギリスの6カ国だけだ。
これ以外の加盟国に今後GRIDを展開しないということは、EU域内に、民間企業の都合によって「国家間での決定的な食料供給インフラの格差(福祉格差)」が永続的に固定化されることを意味する。EUが最も嫌う「不平等」を、EU自身の合意によって認証させようというのだ。
「おそらく、一番揉める部分だと思いましたので、一番先に提示させていただきました。……どうされます?」
「な、なぜですか……? なぜ新規国への出店を行わないのですか。我々はEU全体での一括交渉を前提としています!」
「ああ、言葉が足りませんでしたね。正確には『今後一切、我々が新規出店に関わるプロセスを行わない』です。すでに展開しているフランスやドイツ国内であっても、新規の店舗はこれ以上1店舗たりとも増やしません」
言葉を失い、沈黙する欧州委員会に対して、向島は淡々と、しかし極めて残酷な正論を突きつける。
「簡単な話ですよ。我々はボランティア団体でも、政府の福祉機関でもありません。ただの民間営利企業です。新規展開を行うということは、店舗開発から物流網の構築に至るまで、私たちのコアである『新規出店のノウハウ』をあなた方に開示し、引き渡すということです。……これ以上のノウハウ流出は、ビジネスとして看過できません」
「それは……確かに、筋は通っていますが……」
その時、まだGRIDが展開されていない、東欧・中堅加盟国出身の高官が、焦りを滲ませて画面に割り込んだ。
「では、追加のシステムライセンス契約、あるいは技術協力費という形で、別枠の対価をお支払いすることはできませんか!? 我々も応分の負担はいたします!」
「いいえ。それはお受けできません。……皆さん、この数ヶ月間、本当に熱心に『頑張って』おられましたからね」
「――!」
その一言がスピーカーから響いた瞬間、欧州側の参加者全員の脳裏に、凄まじい電流が走った。
『大変頑張っておられた』
聞こえはいい。だが、この文脈においてそれは、強烈な嫌みと、決定的な「宣告」に他ならなかった。
『お前たちが裏でコソコソと、守秘義務契約を破らせるような聞き取り調査を行い、運送会社の従業員を脅し、口頭証言という不法な手段でウチのシステム情報をハッキングしていたことは知っているぞ』
そう言われているのだ。
愛国心や、生活の困窮に付け込んで、契約不履行(NDA違反)という瑕疵を誘い出し、連合を包囲しようとした欧州の「不法行為」。
向島はそれを完全に把握した上で、彼らをアメリカと同格の「不届き者(ルール違反者)」として扱っているのだ。
「ですから、既存店舗を買い取っていただいた上で、現状の規模に応じた仕入れと配送の指示情報を『定額のライセンス契約(サブスクリプション)』で提供する。……我々から提示できるのは、この条件しかありません」
一度は「前向きな売却」という甘い蜜を見せられ、絶頂から底へと叩き落とされた。
提示された条件を飲めば、確かにGRIDは手に入る。だが、それはあくまで「今ある既存の店舗網だけ」だ。
今後、欧州でどれほどインフレが進もうが、大恐慌が起ころうが、このシステムは「欧州全域を救う高効率な公共インフラ」へと成長することは絶対にない。他国への拡張性を去勢された、ただの「既存店の維持装置」にすぎない。
アメリカは仕入れ以外のシステムを完全に遮断され、空っぽのハコ(NEXA)だけを押し付けられた。
欧州はシステムの維持こそ許されたが、その成長の権利を完全に奪われた。
本質的な違いなど、現場への「物流指示書」が届き続けるかどうか、その一点のみだ。
国家のプライドをかけて連合の尻尾を掴もうとした結果、彼らは自らの手で、未来の生存権を縮小させてしまったのだ。
「……一度、持ち帰らせてください。EU内での調整が必要です」
絞り出すような交渉官の声に、画面の向こうの向島は、ただ静かに一礼した。
「ええ、もちろん。明日でも、明後日でも。回線はいつでも開けておきますので」
プチリ、と接続が切れる。
真っ暗になったモニターに映る自分たちの顔は、ワシントンの官僚たちと同じように、ひどく青ざめていた。