2045年 9月 三重県 津市 三重大学
初秋。残暑の厳しい9月の三重大学は、妙な緊張感に包まれていた。
工学部情報学科の教授・神谷(かみや)は、研究室のデスクで液晶ディスプレイを睨みつけたまま、冷え切ったコーヒーに手を伸ばした。画面に表示されているのは、前期期末テストの成績分布データだ。
「……あり得ん」
神谷の口から、乾いた呟きが漏れた。
彼が担当する『線形代数』は、毎年多くの学生が悲鳴を上げる鬼門の科目だ。例年であれば、アルバイトに明け暮れる者、サークルにのめり込む者、あるいは単に無気力な者が一定数存在し、全体の10%前後は容赦なく単位を落とす。それが自然な「分布」だった。
だが、今年のデータは歪んでいた。
「落単(単位を落とすこと)が、わずか5%……? それにこの平均点はなんだ」
例年なら75点から80点の間を推移する平均点が、今年は「92点」を叩き出している。テストの難易度は変えていない。むしろ、過去問の丸暗記を封じるために、ひねった応用問題を二問追加したはずだった。
「カンニングか。それも、受講者全員が結託したレベルの……」
神谷の背中に不快な汗が流れた。もし組織的な不正を見逃して単位を乱発したとなれば、後々学部内で大問題になる。
急ぎ他の教授陣に連絡を入れると、事態はさらに混迷を極めた。
「うちの『離散数学』も同じだ。平均が15点跳ね上がっている」
「しかし妙だな。同じ学年が受ける必修の『プログラミング基礎』は、例年通りの壊滅的な点数だぞ」
不思議なことに、学生が必死になって取りに行くはずの「必修科目」ではこの現象は起きておらず、選択制の「専門科目」のいくつかでだけ、爆発的な点数の底上げが起きていた。過去のどの不正事例にも当てはまらない、不気味な法則性だった。
「……新学期早々、少し手荒な真似をせざるを得ないな」
神谷は眼鏡のブリッジを押し上げ、冷徹な目で画面を閉じた。
9月、新学期の最初の講義。チャイムが鳴ると同時に、神谷は教壇のマイクを切った。
「――以上で今日の講義を終わる。……あ、それと、これから名前を呼ぶ者は、5分だけ残ってくれ」
神谷は手元のリストから、意図的に選別した6名の名を読み上げた。
100点満点だった最優秀の学生。平均より少し下の80点台の学生が2名。そして、一番怪しい「例年なら赤点ラインのはずが、なぜか60〜70点で滑り込んだ」下位層の学生が3名。
ざわざわと退出していく他の学生たちの波が引き、静まり返った講義室。6名は怪訝そうな顔で、互いに距離を置いて座らされている。物理的に他人の手元は覗けない。
「急に済まないね。別に怒っているわけじゃないんだ。ちょっと、これを見てほしい」
神谷は、前期のテストで最も正答率が低かった応用問題を印刷した紙を、それぞれの机に配った。
「時間は5分。今ここで、この問題をどうやって解くか、その『方針と導出のプロセス』だけを書いてくれないか。計算は最後までしなくていい」
学生たちの間に緊張が走る。神谷は腕を組み、彼らの手元を凝視した。スマートフォンはすべてカバンにしまわせている。残っているかもしれないカンペを出す隙は与えない。もしカンニングだったなら、抜き打ちの今、最初の数式すら書けずに固まるはずだ。
カリカリ、と静かな教室にシャーペンの音が響き始める。
(……書いている?)
神谷は目を見張った。下位層のはずの学生の指先が、迷いなく動いている。
5分後。回収した6枚の答案を、神谷は教官室のデスクで突き合わせた。
「……正しい。全員、方針が合っている」
もし解答の横流しなら、プロセスの最初の部分が不自然に省略されているはずだった。しかし、提出された紙には、それぞれの理解度に応じた「泥臭い思考の跡」が残されていた。たまたまではない。彼らは、完全にこの概念を『理解』している。
「だが、なぜだ? なぜ必修ではなく、この専門科目だけなんだ……?」
数日後。工学部情報学科の教授会は、重苦しい沈黙から始まった。
各教授から提出された追試検証の結果は、驚くほど一致していた。学生たちの実力は「本物」だったのだ。
「試験から1か月半も経っているというのに、完璧に初期の導出パターンを立式してみせた。これでは、ただ『我が校の学生は学習効果が高かった』と認めざるを得ん」
神谷が苦渋に満ちた声を出すと、会議室の端で、若手の准教授が恐る恐る手を挙げた。
「あの……先生方。最近、うちの学生たちの間で話題になっている『津ローカルテレビジョン』というチャンネルをご存じでしょうか?」
「なんだね突然。今は真面目な教授会の最中だぞ」
ベテランの老教授が不機嫌そうに声を荒らげる。
「いえ、実はそこに、今回の騒動の『火種』があるのではと思いまして」
若手准教授は自身のタブレットを操作し、プロジェクターの画面に、ある地方ケーブル局の番組表を映し出した。そこには、およそ地方テレビ局とは思えない文字が並んでいた。
『線形代数1』
『流体力学3』
「なんだこれは? 大学の講義映像でも勝手に流しているのか?」
神谷が身を乗り出す。
「半分正解で、半分違います。動画サイトにアーカイブが無料で上がっています。……これを見てください」
映し出された画面に、老教授がいぶかしげに顔を近づけた。
「……アニメ、か?」
画面の中にいたのは、人間ではない。精巧に描かれた2Dのキャラクター――美少女や美男子の姿をしたアバターたちだった。
「VTuber、というやつですよ」
若手准教授が苦笑する。
「うちの学科の技術(モーションキャプチャやフェイストラッキング)の研究対象でもありますね。彼女たちが、毎日四六時中この講義をそのテレビ局でやっているんです。で、いくつかの動画サイトに無料公開しています。」
神谷をはじめとする教授陣は、無言でその動画を再生した。
『――つまりね、この「固有値」っていうのは、空間がその方向にどれだけ拡大縮小するかを表すスケールなわけ。数式だけで見るとウワッてなるけど、グラフで動かすとほら、めっちゃシンプルでしょ?』
『基底状態っていうのはね……』
『数字の入れ替えじゃん、というアリスちゃんの質問なんだけど、実は結構、いろんな分野の学問で使うことができて、たとえばロボットアームの数値制御では・・・』
スピーカーから流れる軽快な声。それは、エンタメとしての楽しさを一切損なわないまま、大学レベルの学問の「原理」「導出」、そして「それが社会の何に使われているか」の具体例を、完璧な構成で解説していた。
線形代数、高校数学で言うところの『行列』。ただ数字が縦横に並んでいて、ただルールに従って計算させられるだけ。大学では名前が変わって線形代数と銘打つが、やっていることは変わらない。ただあれこれ操作するだけ。
『結局、これ何に使うんだ?』の疑問は早くても2年後、遅ければ4年後になってようやく分かる者が出てくると言う感じだ。しかし、この番組ではそれを『授業』として教えてしまう。
「……おい」
一人の教授が、ぽつりと漏らした。
「これ、下手したら我々の講義より完成度が高くないか?」
「それは……そうでしょうね」
神谷は、画面の中の美少女を見つめたまま、がっくりと肩を落とした。
「我々の講義はリアルタイムの一発勝負だ。だが、あちらはプロの台本と、徹底的な編集、そして視覚的なアニメーションがある。概念を網羅的(MECE)に、かつ飽きさせずに伝えるという点において……完全に負けています」
だからこそ、学生たちは「面白いから」という理由で、自発的にこの専門科目の動画を観て、勝手に理解を深めていたのだ。動画リストは科目別にまとめられているが、いくつかの必修科目の動画がまだ作られていないようだから、あちらの点数は据え置きだった。すべての謎が解けた。
別の教授が見ている『流体力学3』の画面の中のVTuberは、悪戯っぽく微笑みながら、動画の締めくくりに入った。
『じゃあ、この流体力学シリーズをここまで見てくれたみんなへの総仕上げ! F-35戦闘機と、大昔のゼロ戦。この2つが、それぞれ時速何キロになったら大空に離陸できるか、滑走開始から何秒かかるかを計算してみよう! 必要な情報はこの通り。さあ、どっちが有利かな? 果たして最新技術のパワーが勝つか、それとも「軽さこそ正義」か――。みんな、数式立ててコメント欄で考察してみてね!』
静まり返る教授会。
これを横で聞いていた神谷は隣の席を振り返り、引きつった笑みを浮かべた。
「……ふ、流体力学のまとめに、こんな面白い題材を持ってくるか。機械工学科の教授陣がこれを見たら、一体どんな顔をするかね」