同日 三重県 津市 神谷宅
その日の夜。三重県津市にある自宅に帰宅した神谷は、スーツも脱ぎきらないうちに書斎のPCを起動した。
ブラウザの検索窓に『津ローカルテレビジョン』と打ち込み、公式の動画配信アカウントへと飛ぶ。情報学科の教授という立場上、ネットのトレンドや技術の使われ方を追うのは半ば習慣だったが、今日ばかりは「純粋な知的好奇心」が勝っていた。
「チャンネル登録者数……8万人か。妙な数字だな」
神谷は顎に手を当てて呟いた。全国区のトップVTuberなら数百万人、逆に地方の弱小ローカル局なら数千人が関の山だ。そのどちらでもない「8万」という絶妙にニッチな数字。
さらにネットの海を掘り下げてみるが、大手メディアに取り上げられた形跡も、莫大な予算をかけたネット広告の形跡も一切ない。
「宣伝らしきものは皆無。あるとすれば、出演しているアバター――VTuber自身の個人アカウントでの告知くらいか。それだけでこの数字を維持しているのか?」
画面をスクロールし、直近のアーカイブ動画をいくつか再生してみる。
チャンネル内には、昼間の教授会で見たような硬派な講義動画だけでなく、地方局らしく「地元の商店街めぐり」といったバラエティ企画も並んでいた。
しかし、神谷の目は誤魔化せなかった。
「……構成がおかしい。まるでキー局のゴールデン番組の演出だ」
テンポの良いカット割り、効果的な音響、洗練されたテロップの配置。どれをとっても、地方のケーブルテレビ局が片手間で真似できるレベルではない。映像の向こうでは、やはり精巧なVTuberが活き活きと画面を動き回り、下町の工務店を紹介していた。
『――このお店の大将のカンナ裁きね、本当に精密機械並みなの!』
画面の中の美少女が興奮気味にレポートする。普通の番組なら、ここで「すごい職人技ですね!」とナレーションが入って終わる場面だ。しかし、動画はそこから異常な方向へ舵を切った。
『というわけで持ってきました! こちら、オスロート社製のYYM-2400レーザー測定器! これで大将の削った木材を測ってみると……なんと、50センチ四方の範囲で誤差「0.8ミリ」レベル! ちなみに、さっき見習いのお兄さんが削った方は「2.2ミリ」だったよ。(※これは撮影当日の環境条件下でのデータです)』
画面の下部に、論文の注釈のような細かいテロップが一瞬だけ躍る。
「……馬鹿な」
神谷は思わず身を乗り出し、動画を一時停止した。
普通のバラエティ番組で、職人の技術をわざわざミリ単位の数値で可視化などしない。そんなことをしても、視聴者の90%は置いてけぼりになるからだ。だが残り10%の「数値オタク」や「同業者」、そして神谷のような理系の人間にとっては、これ以上ないほど脳汁が出る絶好のデータだった。
何より、神谷が戦慄したのはその「機材」だ。
手元のスマホでAIアシスタントに調べさせると、画面に表示された文字を見て神谷の眉が跳ね上がった。
「オスロート社製……市場価格、約500万円……!」
そんな超高額な精密測定器を、財政に余裕があるとは思えない地方のローカル局が所有しているのか? あるいはどこからか借りてきたのか? どちらにせよ、それを木屑や埃が舞う工務店の作業場で、さも当然のように引っ張り出して使っていること自体が狂っている。
神谷は局のホームページにアクセスし、企業概要を開いた。
【総社員数:30名】
「地方の、たった30人の小規模ケーブルテレビ局が、500万の測定器を振り回し、キー局並みの編集技術で、大学レベルの講義を無料配信している……?」
点と点がつながらない。これは単なる「物好きな地方局の暴走」ではない。その背後には、もっと冷徹で、莫大な資金力を持った「何か」の意図がある。
神谷はディスプレイの青白い光に照らされながら、スマートフォンの連絡先を開いた。スクロールし、ある名の前で指を止める。
「……人文学部経済学科の、田辺(たなべ)さんか」
これはもはや、工学や技術のレイヤーだけで解き明かせる問題ではない。金の流れ、そしてこの不可解な投資の目的――。
神谷は通話ボタンを押す代わりに、短くメッセージを打ち込み始めた。
2日後、神谷は人文学部の研究棟にいた。
経済学科の田辺教授とのスケジュールがようやく合い、彼のお気に入りの少し渋いブレンドコーヒーをご馳走になりながら、例のデータを詰め込んだタブレットを差し出す。
実は経済学科でも、前期テストの一部で奇妙な「異常値」が観測されており、田辺も独自に調査を始めていたという。神谷が件の『津ローカルテレビジョン』の講義動画を再生すると、田辺は眼鏡の奥の目を細め、熱心に画面を見つめた。
「……なるほど。実に見事な構成だ。よく説明できている、としか言えませんね」
「そこは今どきのAI流でしょう」
と神谷は応じた。
「原理の解説から丁寧な導出、そして実社会での活用例や応用例の提示。最後に『次の講義では何をやるか』を予告して視聴者に心構えをさせる。教育工学の観点からも完璧です。……ですが、このあたりは、天才的な個人の工夫次第でどうにでもなる領域かもしれません。私が本当に見てほしいのは、こっちのバラエティ番組の方なんです」
神谷が画面を切り替えようとすると、田辺は「くくく」と低く喉を鳴らして笑った。手でそれを制する。
「いいですよ、神谷さん。画面は見なくても、大体の想像はつきますから。……見る前に一つ聞きますが、その津ローカルテレビジョンのホームページにある『広報ページ』はご覧になりましたか?」
「ええ、もちろん」
神谷は頷いた。
「資本の買収や、経営陣の環境変化がないか裏を取るために調べました。ですが……載っているのは商店街の店舗の入れ替え情報や、地元のセール情報といった、他愛のないものばかりでしたよ」
「なるほど。これでほぼ確定だな」
田辺は一人で深く納得したように頷いた。神谷はそのスピードについていけず、思わず置いてけぼりにされる。
「田辺さん、どういうことです?」
「神谷さん、あなたは『連合』をご存じですね?」
その単語が出た瞬間、研究室の空気がわずかに張り詰めた。
「ええ……。先日まで、アメリカを相手に市場で派手に暴れ回っていた、あの巨大資本の謎の企業連合体でしょう」
「おそらく、このテレビ局のバックにいるのはそいつらですよ。彼らはその広報ページの隠蔽工作を済ませていた。地元商店の雑多なニュースという『無駄な広報情報』を乱発して、自社の株式譲渡情報などを無理やり掲載件数上限からあふれ出させて削除させ、検索アルゴリズムや一般の目から隠蔽した可能性があります」
神谷は息を呑んだ。
「田辺さん、いくら何でもそれは飛躍しすぎでは……?」
「いや、この講義番組のロジックを見ればね、あの『連合』特有の、冷徹なまでに無駄のない論理の匂いがプンプンするんですよ」
田辺はコーヒーカップをソーサーに戻し、身を乗り出した。
「そこに加えて、先ほどの津ローカルテレビジョンの筆頭株主が、連合系の企業に変更された事実を隠す行為。この2つで私の見立てでは、ほぼ『当たり』でしょう」
一呼吸置き、田辺は静かだが決定的な言葉を口にした。
「いいですか、神谷さん。もし普通の企業が、これほど良質な教養番組をこれだけの規模で量産できたなら、普通はどうします? 勝利宣言のように勝ち誇って、世界中にプレスリリースを出して宣伝するでしょう。でも、彼らは一切それをしていない。……となれば、市場での勝利や名声を求めず、ただ実利と目的のためだけに動く『連合』しか、私の頭には浮かびません」
成果を誇らない、正体不明の巨大資本。
その不気味な性質を思い出し、神谷も「確かに……」と頷くしかなかった。
すでに答えが出かかっている状態で、神谷は満を持して、あの地元工務店の番組を再生した。画面の中では、美少女アバターが500万円のレーザー測定器を誇らしげに掲げている。
「これを見てどう思われますか? さっきのページにあった『従業員数30名』の地方局で、このクオリティの番組制作が可能でしょうか」
田辺は動画を一瞥し、即座に首を振った。
「無理に決まっている。500万円の機材を予算で抱えるだけなら、百歩譲ってなんとかなるかもしれない。だが、それを現場で完璧に扱える技術者を雇うコスト、そして何より、木屑が舞う過酷な環境下でそんな精密測定器を使い潰すような真似、普通のローカル局の財務基盤なら一発で破産(デッド)ですよ」
神谷が胸の内で抱いていた確信は、経済の専門家である田辺の言葉によって、冷酷な現実へと形を変えた。三重県の静かな地方都市で、巨大な「何か」が確実に動き始めている――その実感が、二人の間に重く沈み込んでいった。