2045年 10月 三重県 津市 三重大学
10月に入り、津市の空気は一気に秋めいてきた。
三重大学のキャンパスを歩く神谷の耳には、心なしか学生たちの専門用語を交えた雑談が前よりも多く飛び込んでくる気がする。だが、一連の『津ローカルテレビジョン』による影響は、全体で見ればまだ限定的だった。
理由は単純で、あの「狂気の放送」が始まってからまだ1年と少ししか経っておらず、コンテンツの絶対数が圧倒的に不足しているからだ。
「……なるほど。確かに『線形代数』はあっても、その先にある『加群論』や『群論』といった高度な抽象数学には、まだ一切手を付けていないな」
神谷は研究室のデスクで、彼らのチャンネルリストをスクロールしながら呟いた。
さらに言えば、各大学のカリキュラムや設備によって授業内容が大きくブレる「実験・実習系」の必修科目も、動画化が見送られている。彼らが手を出しているのは、あくまで全国、いや世界共通で普遍的な「座学の基礎理論」だけだった。
しかし、だからこそ不気味なのだ。
「成果を誇らない。誇らないことで有象無象の動きに紛れ、市場の利益構造に深く根を張る……か」
神谷の脳裏に、数週間前の田辺教授の言葉が蘇る。
経済学の学会において、『連合』という組織の特異性はすでに広く知れ渡っているらしかった。田辺が語ったその実態は、神谷のような技術屋の想像を絶するものだった。
例えば、現在市販ソフトでは世界最高水準のセキュリティ水準を誇っている『Kソフトウェア』。あの怪物じみたIT企業も『連合』の構成員の一つであるという。それはアメリカの連合規制という国家のプライドの暴走の末に暴露されたことでようやく発覚した事実だった。それまで世間は、Kソフトウェアの背後にそんな巨大な資本同盟が存在することすら気づけなかったのだ。
最先端の牙を持ちながら、気配を完全に消す。まるで修行僧のようなストイックさで、実利だけを貪り続ける企業体質。
「……恐ろしいな」
神谷は、まだ『線形代数』の初歩で楽しそうに遊んでいる学生たちの答案に目を落とした。
自分は経済の専門家ではない。だが、エンジニアとして、そして研究者として直感が警告している。
彼らは沈黙の下で、他社や既存の情報学会の追随を一切許さない速度で、すでに未来の先頭を走り始めているのではないか。そして、この三重の地方大学で起きた「テストの平均点上昇」すら、彼らにとっては壮大な実験の、ほんのワンステップに過ぎないのかもしれない。
神谷は冷めかけたお茶を飲み干し、再びPCの画面へと向き直った。その背中には、目に見えない巨大な潮流に巻き込まれつつあるような、かすかな戦慄が刻まれていた。
同日 三重県 津市 津ローカルテレビジョン
『津ローカルテレビジョン』の社屋では、夕暮れの斜光が差し込む編集室で、牛長(うしなが)編集部長が机に両肘を突き、1枚の決算書を凝視していた。
「……信じられん」
『連合』系の資本である『田中投資』に会社が買収されてから、ちょうど1年と8ヶ月。その間の財務データを見て、牛長は驚きを通り越して薄寒いものを感じていた。
「売上も、純利益も……わずかだが、確実に上がっている」
あの狂気じみたクオリティの大学レベルの教養番組は、すべて田中投資側が制作した完パケ(完成した番組データ)が送られてくる。牛長たちローカル局の人間がやるべき仕事は、放送倫理に触れていないかの最低限のチェックだけだ。
地元の商店街を紹介する番組にしても、500万円のレーザー測定器をはじめとする機材費や制作費は、すべて田中投資側が全額負担している。
つまり、津ローカルテレビジョン側から出ていく持ち出し資金(コスト)は、ほぼゼロ。
それでいて、番組が動画配信サイトでバズったことによる広告収入や、知名度向上による地元の電波広告枠の販売益は、すべて自社の懐に転がり込んでくる。結果として、従来のジリ貧だった経営体制よりも遥かに健全な黒字構造が出来上がっていた。
だが――経営が安定した喜びよりも、田中投資という存在への不気味さが勝る。
「一体、どこで利益を回収しているんだ……?」
最初は「大学領域の教養番組」という誰も手をつけていないブルーオーシャンを狙った、最先端のメディア戦略なのだろうと納得していた。しかし、ビジネスとして冷静に計算すればするほど、田中投資側の持ち出しが多すぎる。完全に大赤字のはずなのだ。
かつて、田中投資から送り込まれてきた出向役員に「この座学ビジネスのマネタイズの着地点はどこなんです?」と探りを入れたことがある。だが、その役員はただ薄く笑うだけで、最後まで無言を貫いた。はぐらかされることすらなく、ただ静かに拒絶されたのだ。
「――では牛長部長、こちらの機材はまた清掃とメンテナンスに出しておきますので」
聞き覚えのある声に、牛長は思考を引き戻された。
振り返ると、田中投資から出向してきている若い男が、ゴロゴロとキャスター付きのコンテナを台車に載せて運んでいくところだった。隙間から見えたのは、泥と金属粉にまみれた超高額な撮影機材や、あの精密測定器だ。
「ああ……。いつもすまないね。今回もまた、えげつない場所に突っ込んだのか?」
「はい。今回は四日市の方の化学コンビナートの配管内部と、伊勢の塩害地域のドローン撮影です」
男は事もなげに言ってのけた。
連中の撮影現場はいつも異常だった。金属の溶鉱炉、過酷な精錬所、化学薬品が気化するプラント、海水が容赦なく吹き付ける海岸線、コンクリートの粉塵が舞う解体現場。精密機械にとっては天敵でしかない「地獄」のような環境へ、彼らは数百万、時には1本800万円もする最高級のシネマレンズや測定器を平然とぶち込む。実際、先月はカメラのセンサーを1台完全に使い物にならなくさせていた。
普通なら始末書ものの大損害だ。なのに、彼らはいつも涼しい顔をしている。
(連合の資金力から見れば、数百万の機材なんて端た金だからか? ……いや、違うな)
牛長は、去っていく出向社員の背中を見つめながら、ある仮説に行き当たった。
もし、彼らにとって「お金」が目的の利益ではないとしたら。
あの過酷な環境での撮影そのものに、何らかの「価値」があるとしたら――。
(機材を作っているメーカーなら、耐久実験として過酷な環境のデータを欲しがる。だが、田中投資はただの投資会社、そのバックの『連合』は巨大な資本体だ。……まさか、機材の実験を代行しているんじゃない。彼らは、あの極限環境の『データ』そのものを収集しているのか?)
だとしたら、美少女アバターに大学の講義をさせているのも、単なる教育支援ではない。
あの動画を通じて、三重大学をはじめとする全国の優秀な学生の「学習データ」や「思考のプロセス」を、最も効率よく吸い上げるための壮大なフェイク(撒き餌)なのではないか。
「利益の出ないビジネス」の裏側に潜む、あまりにも冷徹で合理的な巨大インフラの構築。
牛長は誰もいない編集室で、自分の背筋が凍りついているのに気がついた。
津ローカルテレビジョンの社屋3階、社長室。
窓の外では、泥に汚れた精密機材を載せたトラックが、西日を浴びながらゆっくりとゲートを出ていくところだった。
社長の志田(しだ)は、その様子をブラインドの隙間から見下ろしながら、背後に立つ男へ声をかけた。
「あれも、君たちの『学校』に行くんだな」
「はい」
短く応じたのは、買収と同時に田中投資からねじ込まれてきた執行役員だった。年齢は30代半ば、いつも隙のないスーツを纏い、感情の読めない薄い笑みを浮かべている男だ。
志田は窓から目を離さずに、皮肉の混じった笑みを口元に浮かべた。
「君たち『連合』の日総職(日本総合職業専門スクール)の学生に、あの大学レベルの授業台本を書かせる。そうして、人間に知識がどう定着していくのか、その『理解の構造』を学生自身に学ばせる。……さらに、過酷な現場でわざと酷使した機材をそこへ送り届け、分解、洗浄、修理、そして微細な歪みの補正にいたるまで、すべてを自力でやらせることで、超精密機器のメンテナンス能力を叩き込む。……番組制作のすべてが、君たちの私塾の生徒を育てるための『教材』だったとはね」
志田はゆっくりと振り返り、冷徹な執行役員の目を正面から射すくめた。
「驚いたよ。自前のエリート育成機関のためだけに、一地方局を買い取り、毎年何億、何十億もの金をドブに捨てるように払い続ける。……一体、どんな気分かね?」
「――痛いですね」
執行役員は眉ひとつ動かさず、事務的なトーンで言った。
「本心じゃないだろう?」
志田は鼻で笑った。
いくら強大な『連合』といえど、買収した企業を「無言で従え」と力尽くで支配すれば、現場の反発を招いて組織が機能しなくなる。だからこそ、彼らは志田のような生え抜きの経営陣に対して、ある程度の情報を開示していた。
ただし、それは「誰に、どこまで話していいか」を連合側が完璧にコントロールした上での話だ。一歩でもラインを越えて口外すれば、容赦のない守秘義務違反のペナルティが下る。
だからこそ、現場の責任者である編集部長の牛長は、あの雑に扱われた機材の本当の行方も、この奇妙なビジネスの裏にある真の利益の形も、何も知らされていないのだ。
志田は再び窓の外に目をやり、遠ざかるトラックの赤いテールランプを見つめた。
(……だが、本当にそれだけか?)
胸の奥をチリチリと刺すような違和感は消えない。
自分が聞かされた「私塾の生徒育成」という理由すら、向こうが『話しても問題ない』と判断して放り出してきた、ただの捨て情報に過ぎないのではないか。
彼らは、帳簿には絶対に載らない形の、さらに巨大で恐ろしい利益(果実)を狙っている。そしてそれは、この津市の片隅で、今も静かに進行している――。
志田は、隣で静かに佇む執行役員の横顔を見ながら、確信に近い戦慄を覚えていた。