2046年 2月 三重県 津市 三重大学
まだ厳しい寒さが残るキャンパスの一角、神谷と田辺の二人は、教育学部の重鎮である横井教授の研究室を訪れていた。部屋の隅で唸りを上げる古い石油ストーブの熱気とは裏腹に、三人の間に流れる空気は冷たく張り詰めている。
「横井先生。最近、講義における学生たちの質問のレベルが、異常なほど跳ね上がっているのはご存知でしょうか?」
工学部のシミュレーター工学専門である神谷が、深刻な面持ちで切り出した。横井は眼鏡のブリッジを押し上げ、白髪混じりの頭を小さく振った。
「……ええ、知っていますよ。私のところの若い教員たちも悲鳴を上げています。原理、導出、そして実社会での応用例。この3段階のステップのどこかに、ほんの少しでも説明漏れや言い間違いがあれば、講義の途中でも容赦なくストップをかけてくるそうですね」
「経済学部の方にいたっては、もはや現在進行形で学会が頭を抱えているような、未解決の研究領域に関する質問すら飛び出してくる始末です」
と田辺が頭を抱える。
「彼らがそれを『知ってて意地悪で言っている』のか、それとも『純粋な疑問』として口にしているのかすら、判別がつかない」
神谷が身を乗り出す。
「これはもう、期末テストの点数がどうこうという次元の話ではなくなっているのでは、と私は思うのです。あの『津ローカルテレビジョン』のせいです。彼らは放送で、基礎理論をこれ以上ないほどガチガチに組み上げて解説してくる。その上で、現代科学でも分かっていない部分については『ここは現在、世界中で研究中の未解明領域です』とはっきり言い、なぜ今の人類には説明できないのかという理由まで掘り下げて解説している」
「ふん」
と横井は小さく鼻で笑う。田辺がお手上げのポーズを取りながら言う。
「ならば、もはや我々大学教授がやるような基礎的な講義など、この大学には要らないということかね?」
田辺の根源的な不安に対し、教育の制度疲労を見続けてきた横井は、極めて冷静で、もっともな持論を返した。
「いいえ、大学の講義が完全に無くなることはないでしょう。学生の全員が、100%あの番組を見ているわけではない。ならば、教員はこれまで通りのレベルで教壇に立ち続けるしかありません。下手に講義のレベルを上げれば、今度はあの番組を観ていない『普通の学生』を置き去りにしかねない。それは文科省の学習指導要領や方針からも外れます」
「では、あの牙を剥き始めた学生たちをどうするのですか?」
「そうですね……オンラインの質問箱か、質問メールの専用窓口を設ければいい。あるいは、学内のポータルサイトにBBS(掲示板形式)の特設ページを作り、匿名でその授業のさらに進んだ議論を、学生や教授陣の垣根を越えて行えるようにする。それならどうですか?」
横井の提案に、田辺が目を見開いた。
「なるほど……。表向きの講義は従来通りに平穏に行い、牙を持った学生たちのエネルギーは、その裏の電子掲示板で吸収する。それはある意味、本来の大学が持っていた理想像――純粋な学術的探求を行う『知の牙城』への先祖返りかもしれない、ということですか」
現在の日本の大学の実態。それは一概に一括りにはできないが、最も実態に近い表現を選ぶなら『就職予備校』、あるいは『人生のモラトリアム、長い夏休み』だった。単位さえ取れればいい学生たちは、過去問やレポートの模範解答をサークルの先輩から譲り受け、要領よくやり過ごす。授業中も、ただ出席日数のために黙って座っているか、スマホをいじるか、寝ているのが大半だ。
地方国立である三重大学ですらそんな空気が少なからず漂っていた。序列最下位の私立大学に至っては、九九の復習から始めているという耳を疑うような惨状も、あくまで噂だが、聞こえてくる。
そんな退屈な「記号としての高等教育」の場に、今、信じられない問いが突きつけられているのだ。
『ナビエ・ストークス方程式における、一般的な微分方程式の解の形式が未だに数学的に証明されていないって、一体どういうことですか? それじゃあ、今この瞬間も飛行機が安全に空を飛べている理論的根拠が破綻しているって言いふらしている奴がネットにいるんですが、そっちが正しいんですか?』
流体力学の授業である学生が質問すると、即座に別の学生が数式を引用して応酬する。
『先生、その部分についてですが、流体力学における「粘性の項」が地球の大気環境下ではほぼ無視できるほど微小だから、工学的には無かったことにしてシミュレーションを回している、というのが現場の欺瞞(リアル)って本当ですか?』
正直、流体シミュレーターの専門家である神谷からすれば、それは完全に「正解」だった。だが、そんな実務的なパラドックスや学問の限界は、学部の流体力学の教科書には載っていないし、講義でも教えていない。
地方の有線テレビ局が流す「ガチの知識」に触れ、脳の枷を外された若者たちが、今、自分たちの意思で思考の深淵へと足を踏み入れようとしている。
神谷は、ゾクりとするような興奮が背筋を駆け上がるのを禁じ得なかった。
旧態依然とした文科省のシステムに縛られた教室で学生と教授が数式と理論で殴り合っている。
(ああ、これだ。これこそが、かつて中世のヨーロッパで始まった『本当の最高学府(ウニベルシタス)』の姿なのではないか……)
津ローカルテレビジョンという、連合の放った奇妙なインフラ。それが、日本の教育界の底を音もなく、しかし確実に、取り返しのつかないレベルまで変革しようとしていた。
同日 三重県 津市 神谷宅
その日の夜。神谷は、胸の奥にひどく複雑な泥を抱えたまま帰宅した。
昼間、教育学部の研究室で横井や田辺と議論していた時は、三重大学が古皮を脱ぎ捨てるかのような「知の熱量」に当てられ、確かに興奮した。だが、冷たい夜風に吹かれながら自宅の書斎に座り、冷静になってみればどうだ。
学生の質問のレベルが上がろうが、深夜まで匿名掲示板で数式の応酬をしようが、神谷の懐に入る大学からの給与(リターン)には1円の変動もない。むしろ、善意という名のコストを支払って、本来の自分の研究や論文執筆の手を止め、血気盛んな若者の相手をしなければならない――つまり、実質的な「タダ働きの雑務」が爆発的に増えるということに他ならなかった。
これが教育に命を懸ける熱血教授なら、涙を流して喜ぶのかもしれない。だが、神谷は違った。
(悪いが……私はそこまでお人好しの聖人君子にはなれんよ)
神谷は小さくため息をつき、PCのディスプレイを開いた。習慣的にブラウザのブックマークから『津ローカルテレビジョン』の動画配信アカウントを覗く。
いつも通り洗練された講義動画。その下に折りたたまれている詳細欄を、神谷はなんとなくクリックして展開した。そこにはいつものように引用文献として、国内外の教科書や権威ある論文のリンクが整然と並んでいる。
しかし、そのリストの最下部に、今まで見落としていた「異物」がしれっと紛れ込んでいるのに気づいた。
【知の闘技場・アカデミーコロシアム】
「……なんだ、これは?」
神谷が眉をひそめてリンクを踏むと、独自のフォーマットで作られた巨大なチャットコミュニティへと画面が遷移した。
『津ローカルテレビジョンが運営する、各学問の質問やリクエストを、提携教員・専門家と完全匿名で議論できるプラットフォームです』
トップページの説明文を読んだ神谷の指先がピリリと痺れた。
すでに内部には、数え切れないほどの学問ジャンル別のチャンネルが乱立していた。神谷の専門である流体力学の項目をひとつ取っても、『質量保存・連続の式関係』『ナビエ・ストークス方程式の数値解法について』『実践:航空機設計における翼型選定』といった具合に、階層が狂気的な細かさで分類されている。
適当なチャンネルを開いてスクロールしてみる。リアルタイムの即答ではない。しかし、学生らしき尖った質問に対し、数時間から半日のスパンで、驚くほど正確で隙のない専門的な回答が、やはり「匿名」の有識者から返されていた。
それだけではない。神谷の目を最も釘付けにしたのは、そのコミュニティが持つ「憎いほどのシステム化」だった。
ある議題に対して議論が白熱し、一定の解決(アンサー)に至ったとシステムが判断すると、それまでのチャットの煩雑なやり取りが、人工知能の手によって驚くほど綺麗に要約されるのだ。疑問と回答の核心、そして数式や分かりやすい解説図までが完全に網羅された1冊のPDFファイルに自動生成され、サイト内の『討議結果まとめ資料室』へと格納されていく。あらゆるジャンルの学問のブレインストーミングが、現在進行形で美しいデータベースへと変換され、積み上がっていた。
「……至れり尽くせり、ってわけか」
神谷の口から、自嘲気味な笑いが漏れた。
昼間、横井教授がドヤ顔で提案していた「大学のポータルサイトに匿名掲示板を作る」という作戦。そんなものは、この津ローカルテレビジョンによって、一地方大学のサーバーでは逆立ちしても太刀打ちできないほどの規模と機能性で、とっくの昔に世界に向けて構築されていたのだ。
画面の隅には、ユーザーに向けたシステムメッセージが静かに表示されている。
『※PDFによるまとめ化は、サーバー容量オーバーの際に古いチャットログが自動消去されるリスクに備えるための仕様です』
「サーバー容量、ねえ……」
神谷は苦く呟いた。建前はそうだろう。だが、その自動生成されたPDFのタイトル一覧を見て、神谷はさらに唇を噛んだ。
お堅い学会が好むような、ラノベのタイトルのように長ったらしい論文形式の題名ではない。かといって、ネットのまとめサイトのような『ナビエ方程式を分かりやすく解説してみた』や『ナビエ方程式_解き方』といった乱雑なものでもない。
「何についての疑問が、どう解決したか」それがそこまで長くならず、一目見ておおよそ理解できるような一文に凝縮されている。
「いや、違うな。まとめる範囲を向こうのアルゴリズムが裏で調整しているんだ。複数の煩雑な議題に膨れ上がったなら、そのトピックを別PDF資料に分割させている……。そうなんだろう?」
誰もいない書斎で、神谷はディスプレイの青白い光を浴びながら拳を握りしめた。
三重大学の講義をきっかけに、牙を剥き始めた学生たち。彼らの有り余る知的好奇心とエネルギーを吸収する「受け皿」は、大学側が用意するよりも遥か手前で、完全に先回りして用意されていた。
(連合……。ただの地方ローカル局に、これほど精緻なシステムを、これほどのスピーディーさで社会に実装できるわけがない)
これは教育支援でも、ただのコミュニティビジネスでもない。
世界中の優秀な若者の脳を繋ぎ、彼らに勝手に学ばせ、勝手に議論させ、その結果として生み出された「最高純度の知識の結晶(データ)」を、ただ座しているだけで100%回収していくための、冷徹なインフラ。
これが、『連合』という怪物の知能であり、速度なのだ。
自分たち大学教授が「学生のテストが・・・質問が・・・」などと矮小な現象で一喜一憂している間に、彼らはすでに日本の最高学府の存在意義そのものを、システムの裏側から完全にハッキングし終えていた。
神谷はマウスを握る手を微かに震わせながら、底の知れない暗闇を見つめるような絶望感に、ただじっと身を浸すしかなかった。