2046年 8月 東京 八王子市
「……」
うっそうとした木々が迫る山の斜面。数人の男たちが、身をかがめながらゆっくりと農家の果物畑へと足を踏み入れようとしていた。
市街地や平地の中心にある整地された農地とは違い、ここは山林の斜面に直接面した、ある意味では侵入しやすい地形だ。
だが、今は真昼間である。斜面の下に見える農家の母屋は市道に面しており、いつ自動車や歩行者が通りかかるかもわからない。ならば、彼らはなぜこれほどまでにコソコソと不審な動きをしているのか?
その理由は、数日前に霞が関で交わされた『L不動産』と『C社』による合同事業のプレゼンに遡る。
数日前 東京 霞が関 農林水産省
「……侵入警告装置、ですか?」
昨今、全国で深刻な被害をもたらしている農作物の大量盗難案件。
生産者の高齢化が進み、黒字経営の農家が極めて少ない実情もあって、これまでは「盗まれた後に警察へ被害届を出して終わり」という事態が常態化していた。多くの農家には、高額な事業用盗難保険に加入する経済的余裕などなかったからだ。
そこへ突如として乗り込んできたのが、かつての大手総合電機メーカー・C社だった。
C社は「連合」傘下に入って以降、マニュアル・トランスフォーメーション――通称『MX』の推進役という役割を与えられていた。上場廃止とグループ再編のための資金を捻出する名目で、かつての主力事業のほとんどを他社へ売却・整理していたはずだ。
そのC社が、いまさら一般向けのハードウェア事業を再開するという。
(……連合内での買収企業に対するMX移植案件が一巡して余裕ができたのか? C社が旧来持っていた電機メーカーとしての技術やノウハウが完全に枯れ果てる前に、利益度外視で動かそうという腹か……?)
庁舎は異なるものの、噂を聞きつけた経済産業省の官僚も、この農水省内で行われた製品説明会にこっそり同席していた。
「ご覧の通り、仕組み自体はきわめてシンプルなものですよ。物理的な金属ワイヤーと、赤外線通信を組み合わせただけです」
プレゼン卓に置かれたサンプルは、ごく普通の金属ワイヤーが3本、横に張られているだけの粗末な柵にしか見えなかった。
仕組みとしては、このワイヤーに微弱な電流を常時流しておく。電源は農家の母屋(自宅)のコンセントから引くだけだ。ワイヤーが引っ張られたり切断されたりして一定以上の電気抵抗変化が発生すると、瞬時に家人の端末へ警報が飛ぶ。
さらに、価格は2.5倍に跳ね上がるものの、支柱部分に高度な赤外線センサー類を搭載したハイエンドバージョンも用意されていた。
もし「敷地内に磁気や微弱電流を発生させたくない」という顧客や環境であったり、電流柵そのものに強い忌避感を持つ地域である場合は、ワイヤーを張らずに別売りの専用電源コードとセンサーだけで運用できる設計になっている。
「もちろん、デフォルトの警報は家人だけに届く仕様です。もし『畑側でも大音量のアラームを鳴らして侵入者を威嚇したい』というご要望があれば、オプション費用をいただければ外部スピーカーも追加設置できます」
説明を聞いていた農水省の官僚は、手元の資料に目を落としながら呟いた。
「まあ、悪い提案ではないが……」
「さらに本システムは、人間による盗難だけでなく、有害鳥獣の侵入にも絶大な効果を発揮します。すでに実証実験にて、イノシシ、サル、さらにはクマの侵入に対しても完璧に検知・警報が作動することが確認されています」
「うむ。提出された検証映像は見せてもらったよ。確かにイノシシやクマの突撃にも即座に反応して警報が出ているな。……だが、我々としても現地で実際に確認してみないことには何とも言えん」
農水省の官僚は慎重な姿勢を崩さなかった。
そもそも、民間企業なのだから勝手に農家へ販売してしまえばいいのだ。それなのに、わざわざ農水省や経産省の官僚を巻き込んで説明会を開いた意味――。
おそらく、この『検知用の微弱電流構造』を勝手に改造され、高電圧の致死性電流柵へ悪用されるリスク(もっとも、制御盤からワイヤーまで総取り換えする必要があるため、ほぼユーザーの明らかな悪意でしか成立しないが)を見越し、「安全管理と運用面のガイドラインを農水省主導で策定した」という免罪符(保証)が欲しいのだろう。
そして、冒頭の八王子市の現場へと戻る。
農水省と経産省の官僚が固唾をのんで見守る中、L不動産が手配した検証協力農家の果樹園にて、実地試験が行われていた。
山側の斜面からコソコソと侵入者役を務めているのは、私服に着替えた本物の警察官たち数名だ。
警察官がワイヤーにそっと触れた程度では、警報は鳴らない。
しかし、そのまま無理に押し通ろうとして力を込め、金属線を一定以上歪ませたその瞬間――。
立ち会っていた官僚の手に握られたスマートフォンがけたたましく鳴り響き、同時に現場から離れた母屋の固定電話のコール音が遠くで聞こえた。
スマホの画面には「山側Bエリア:物理干渉を検知」という警告が表示され、固定電話の受話器を上げると、合成音声があらかじめ登録された警告メッセージを淡々と読み上げた。
「……単に触れただけで反応するレベルの感度にしてしまうと、最悪の場合、近所の小学生が通学途中に面白がって触りまくるという事態が発生します。そうなれば、農家当人が『またガキのいたずらか』と慣れてしまい、オオカミ少年効果を生んでしまう」
C社の開発担当者が、静かなトーンで解説を付け加える。
「そこを逆手に取られて、手慣れた早朝の畑泥棒に本格的な侵入を許してしまうリスクがあるのです。だからこそ弊社としては、本装置を設置する際は『なるべく敷地の内側に設けるか、あるいは外側に何も仕掛けていないダミーの普通の柵を置く』といった二重の防犯運用を推奨したいと考えております。この運用の周知徹底について、ぜひ農水省様にご協力いただきたいのです」
農水省の官僚は、スマホの警告画面を見つめたまま頷いた。
「分かりました。元々、従来の電気柵の安全注意喚起などは農協などを通じて定期的に行っていますから、その延長線上で広報しましょう。……ですが、本当によろしいのですか? この手の警報システムの類似品など、他社探せばいくらでもありますよ。製品と運用のノウハウを明かしてしまっては、あっという間に模倣されますが……」
C社の担当者は、薄く微笑んだだけだった。
「ええ、一向に構いません。どうせ仕組み自体はいずれ知られることですし、真似されたところで大した問題ではありませんから」
C社が提示したこの警戒システムは、技術的に見ればはっきり言って「ありきたり」な代物だった。新規性のある特許技術などほぼ使われていない。
だが、圧倒的なのはその「価格設定」だった。具体的な見積書を精査するまでもなく、他社製品とは半額レベルで『安い』ことだけは、官僚たちの目にも明らかだったのだ。
ただし――それだけの破格で提供されるのは、微弱電流と電話通知機能のみの「標準モデル」に限られる。
赤外線センサーや高度な解析カメラをてんこ盛りにした「ハイエンドモデル」を選んだ瞬間、その価格は一気に数倍へと跳ね上がる仕組みになっていた。
(……なるほどな。標準モデルを叩き値で全国の農地や山林の境界線にばら撒き、事実上の「広域人感・鳥獣センサー網」を日本中に張り巡らせる。そして余裕のある農家や行政には高額なハイエンドを売りつける……)
経産省の官僚は、冷や汗をかきながらC社の担当者の背中を見つめていた。
またしても連合は、既存の泥臭いインフラの隙間を、圧倒的なコストパフォーマンスと巧妙な運用ノウハウで静かに埋め尽くそうとしていた。