2046年 8月 東京 佐々木製薬
「……チェンさん、大変申し訳ないですが、何度来られても結果は同じなのです」
「そこをなんとか……! 我々の提示した条件なら、御社にとっても莫大な利益になるはずです!」
食い下がるチェンという女性は、中国で医薬品・医療機器の卸売りを手がける大手流通企業『TMTT社』の役員だった。
彼女が喉から手が出るほど求めているのは、佐々木製薬が誇る看板製品群を、第三国を経由させず「中国本土へ直接輸入・取引したい」という契約だった。
その対象製品には当然、世界中の医療現場を震撼させたあの『手術前緩徐麻酔薬』や、手軽さと安さの代わりに効き目も低い『水虫薬OTC』も含まれている。
もっとも、これらの製品自体はすでに中国本土の病院や薬局でも普通に流通していた。ではなぜ、彼女はこれほどまでに「直取引」にこだわるのか――。
事の発端は、元より「中国リスク」を極限まで嫌う連合と、その傘下のKバイオから突きつけられた厳命にあった。
『佐々木製薬は、中国本土の業者と絶対に直接取引をするな。必ずシンガポールあたりのクッション企業を挟ませろ』
連合が結んだ「世界薬価抑制条項」によって、安価な抑え込まれた薬価が適用されるのはこの場合だとシンガポール国内の流通価格までだ。そこから先、シンガポール企業が中国本土へ輸出する際の設定価格に対しては、一切の制限が存在しない。
そのため現在、中国国内の病院や薬局では、同じ佐々木製薬の麻酔薬であっても地域や病院の格によって販売価格に巨大な開きが生じていた。
(「中国市場はあまりにも巨大すぎる。だからこそ、生身で飛び込めばあらゆるものが吸い込まれるのですよ」)
佐々木社長は、以前Kバイオの役員と交わした密談の光景を思い返していた。
『……社長、我が社がアメリカや欧州の医薬品当局(FDA・EMA)に承認申請を出したのは、この緩徐麻酔薬にグローバルな“箔”を持たせるためです。……ではお聞きしますが、仮に中国当局(NMPA)から認可を勝ち取ったとして、日本の現場の医師たちがその実績を理由に採用しますか?』
『……しないでしょうな。喜ぶのは目先の株価を気にする株主くらいなものだ。厚労省すら手放しで歓喜するか怪しい』
『ええ。直取引を始めれば、最初のうちは「中間マージンが削減できて利益率が上がった!」と社内も相手も喜ぶでしょう。しかし、相手は必ず次の手柄を狙ってきます。取引量の増大に伴い、佐々木製薬さんの現地オフィスや中国向けサーバーに、製法や配合比率といった核心的な技術データが保存されたのを見届けた瞬間……彼らは突然「医療事故が起きた」などのいちゃもんをつけて、調査の名目で回線を遮断し、現地資産とデータを接収することも。』
『……普通なら警戒して踏みとどまる。だが、ウチの役員までもが目先の欲に目が眩み、そいつらが多数派になれば、中国オフィスのアクセス権限を緩めてしまうシナリオは十分にあり得る』
『だからこそ、最初からその“とっかかり”すら作らせないことが重要なのです』
『……つまり、直接貿易そのものを完全に遮断しろと?』
『直接取引にすれば、向こうは「こんな事故が起きたが、まさかこういう有害成分は入っていないだろうな?」「こういう危険な作り方はしていないだろうな?」と、品質確認の名目で製法に関する質問攻めを何度も仕掛けてきますよ』
『……恐ろしいな。質問の体を装った、技術情報の引き出し(ソーシャルエンジニアリング)か』
『ご賢明なCEOで助かりましたよ』
――この冷徹なリスク分析があったからこそ、佐々木社長はチェン役員が提示する「中間マージン削減による大幅な利益率向上案」に乗るわけにはいかなかったのだ。
世間では「中間マージン」といえば真っ先に削減すべき悪の代名詞のように扱われる。しかし、それには『削るべきコスト』と『絶対に削ってはならない防衛費』の性質がある。今回のケースは、間違いなく後者だった。
現在、中間に立っているシンガポールの取引企業は、中国からの苛烈なリスクの波を食い止める「防波堤」として機能していた。そのシンガポール企業自体も華僑ネットワークに属しているためか、中国当局や現地の政治的思惑とも実にスムーズに折り合いをつけ、この迂回ルートを完璧に維持してくれている。
もちろん、佐々木製薬側から彼らに渡す情報も「厳密に必要な最小限」だけに絞り込まれていた。というより、佐々木製薬が外部へ開示できる情報に対しては、連合によってガチガチの閲覧制限と開示基準が掛けられていたのだ。
『……ここまでのスペック情報なら提出して良い。だが、これら詳細成分と製造工程の情報はここまでは出す必要がない。』
法律や制度上、提出が義務付けられている項目以外は、連合の審査チームによって苛烈なまでにチェックされ、黒塗りにされた。佐々木製薬側が「厚労省と事前に相談して作成した提出資料です」と説明しても、連合は一切の容赦なく資料を削り落としてくる。
あまりの厳しさに佐々木製薬の担当者が理由を問いただした際、連合の担当者は冷ややかに言い放ったものだ。
『甘いですね。行政に提出した出来あいの資料をそのまま外部へ渡すなど、無防備にも程があります。厚労省の役人の方々はお忙しいので、そこまでサイバーセキュリティや情報抜き取りの手法に精通・チェックできていなかっただけでしょう』
そして極めつけに、こう叱責されたのだ。
『社内の役員会議資料を作るときは徹夜で細部まで必死に推敲するくせに、海外向けの外部提出資料となった途端、出来あいの資料の一部削除と黒塗りだけで済ませようとするのは一体どういう感覚なのですか? 情報防衛に対する力の入れどころが根本的に間違っています』
普段、自分たちの本心を滅多に外に見せないあの連合が、これほどまでにハッキリと危機感を露わにして警告してきたという事実は、佐々木社長の背中を凍りつかせるに十分だった。
「……というわけです。申し訳ありませんが、これ以上の条件緩和も直取引も、弊社としてはお受けできません」
佐々木社長の頑なな態度に、チェン役員はついに諦めたように溜め息をつき、深く肩を落として部屋を後にした。最初から「これ以上の妥協は100%不可能です」という姿勢を徹底的に貫いていたため、相手に無駄な期待を持たせず、致命的な関係悪化(激怒)を招かずに済んだのが救いだった。
バタン、と応接室のドアが閉まる。
「社長、大変お疲れ様でした」
隣でずっと静かに座っていた常務――最初から「断ること」だけが決まっていた交渉だったため、彼には発言の出番すら与えられていなかった――が、冷えたお茶を差し出してきた。
佐々木社長は茶碗を受け取り、ふぅと息を吐き出した。
「……中国当局も、通常のペーパーカンパニーを使った手法では我が社を崩せないと踏んだのかな」
中国側の視点に立てば、このシンガポールの防波堤(迂回ルート)を乗り越える最も手っ取り早い方法は、第三国に幾重ものダミー会社(ペーパーカンパニー)を設立し、間接的にそのシンガポール企業を買収するか、強力な資本提携を結んで内部から乗っ取る形を作ることだ。
この手法を使われれば、連合や佐々木製薬から見ても「他の正規取引先が世界各国に向けて行っている正常な販売網の細分化」と区別がつきにくくなるという、圧倒的な優位性があった。
しかし――なぜか、そしてどのようなルートを使ってかは知らないし、知らされることもないが、Kバイオを経由して「あのシンガポール企業に中国系の怪しい資本が入ろうとしている」という超精度の情報がピンポイントで届き、即座にシンガポール企業側へ是正勧告(買収拒否の暗黙の圧力)が出される仕組みが出来上がっていた。
「……はは、まいったな」
佐々木社長は自嘲気味に笑い、湯呑みをテーブルに置いた。
「製薬業界の技術開発だけでなく……国境を越えた情報戦や地政学リスクの読み合いにおいても、我々は完全に『連合』の後塵を拝しているということか」
東京・八王子で静かに広がる農地の監視網。
そして、シンガポールと上海を挟んで繰り広げられる目に見えない情報の防衛戦。
連合という名の巨大な構造体は、表舞台の華やかなメガセレモニーの陰で、日本のあらゆる産業の「隙」と「脆弱性」を、冷徹なまでの完璧さで塞ぎ続けていた。