2034年 7月 アメリカ ジョージア州
「――通称『南部を食い尽くすツル(The Vine That Ate the South)』。まさか、あの忌々しい植物がわずかだがドルに化けるとはな」
ジョージア州郊外、見渡す限りの緑に覆われた荒地を眺めながら、現地調達こと伐採をするアメリカの公益企業たちは信じられないといった様子で首を振った。
24社連合の一角である『H食品』がこの地で開始した新しい事業――それは、アメリカ南部一帯の生態系を脅かし、送電線や家屋をも飲み込んできた最悪の侵略的外来種「クズ(葛)」の回収と製品化だった。
日本において葛は、古くから葛粉や漢方(葛根湯)として親しまれる高級な自然食品だ。しかし、19世紀に持ち込まれたアメリカの地においては、天敵のいない環境下で爆発的な繁殖を遂げ、全土で数百万ヘクタールを埋め尽くす巨大なグリーンモンスターと化していた。
州政府も莫大な予算を投じて駆除に乗り出していたが、その圧倒的な生命力を前に手をこまねいていたのが実情だ。
H食品はこの「地域の深刻な課題」の隙間に、冷徹なサプライチェーンを滑り込ませた。
最も過酷な作業である「葛の伐採と運搬」は、現地の土木企業や雇用対策プログラムで集められた労働者に一任する。これまでの彼らにとって葛は「処分費用がかかる産業廃棄物(ゴミ)」だった。
H食品は、その伐採された「ゴミ」を自社のプラントへ無償に近い金額で引き取る契約を締結。故に原材料費ほぼゼロ、それどころか現地からは「処理を肩代わりしてくれた」と感謝される立場を確立した。
運び込まれた膨大なツルと根の山は、H食品のプラントで即座に選別され、解体されていく。
ここでも使われているのは、H食品が設計した『マニュアル』たち。それと日本の茶葉ラインや老舗の店が使っていた機械たち。
つまり、またしても連合の得意な既存技術を隙間にねじ込む事業であった。
どの部位をどの温度で乾燥させれば、特有の青臭さを消し去り、中間上位層が好む「イソフラボンとアントシアニンを豊富に含んだ高純度サプリメント」へ精製できるか。その全プロセスが完全に数値化されているため、現地の未熟練作業員が稼働するラインでも、品質のブレはほぼ発生しない。
「単なる雑草を、東洋の伝統的なデトックス・ハーブ(KUDZU)としてリブランディングする。向島さんと院田さんのルートがあれば、売り先に困ることはない」
精製された葛茶のパックや、美しくボトル詰めされた「KUDZUエキス・サプリメント」は、すぐさま院田が統括するNEXA系列の高級健康スーパーの棚へと出荷されていった。
カリフォルニアの売場では、理知的なPOPが客を迎える。
『過酷な環境を生き抜いた野生の葛が持つ、強力な抗酸化作用。糖質と脂質の吸収を抑える自然の力』
他社が莫大なコストをかけて「オーガニック農場」を経営している横で、H食品はアメリカの道路脇に生い茂る厄介者をタダで刈り取り、マニュアルという名の触手を通して、富裕層が喜んで高値を払う「聖なる健康」へと変換していた。
と、思ったのだが――まさかの身内から、最も冷徹な形で足元をすくわれることになった。
「その謳い文句だが、抽象的すぎる。他社のサプリとどこが違うのか分からん。もっと具体的に、数値ベースで記述できないのか?」
画面の向こうから冷ややかに言い放ったのは、高級健康部門のトップに就任したばかりの院田部長だった。C社出身の生粋のマニュアル教徒である彼は、24社連合の「曖昧さを許さない」という教条を誰よりも忠実に体現していた。
H食品のカリフォルニア担当者は、冷や汗を流しながら反論を試みる。
「いや、院田部長。ほうれん草の『OHITASHI』やひじきの時と同じ、栄養学のロジックを応用したPOPの説明文をそのまま流用すれば、現地の中間上位層には十分に刺さるはずですが……」
「話にならない」
院田は手元の資料を一瞥もせず、淡々としたトーンで遮った。
「ほうれん草やひじきは、世間一般に出回っている既知の一般論を並べ替えただけだ。万が一訴訟を起こされても、医学的・公的なデータを開示すれば我が社のリスクはゼロになる。調べればどこにでも出てくる内容だからだ。しかし――」
院田の眼鏡の奥の目が、鋭く光る。
「これから売る『KUDZUサプリメント』、これは我が社の関連企業が独自に成分を抽出・精製した『新製品』だ。これをどう法的に安全に表現し、どのエビデンスをどの割合で開示して顧客への訴求力とするのか。そのための『健康食品の新製品表現マニュアル』が、我が社にはまだ存在しない」
院田の発言に、モニターの向こう側に並ぶNEXAの役員たちも一斉に凍りついた。
彼らは、ヨーロッパ進出の際には、何百キロメートルも離れた見知らぬ土地の物件候補地を、提出されたデータだけを頼りにわずか「15分」で買い取ることを決めてきた狂速の集団であることを知っている。
その彼らが、現地店舗に置く、たった一枚のPOPの文言、たった数行の成分表記の決定を前にして、完全に思考をロックされていた。
「FDA(米国食品医薬品局)の規約をどこまで回避するか」
「独自抽出したイソフラボンの含有量を何パーセントまで開示するか」
「他社との比較グラフの基準をどこに置くか」
手探りの議論は遅々として進まず、時計の針は無情にも3時間を超えようとしていた。
「マニュアルが無いものは、実行できない」という狂信。
それは、これまで24社連合を世界最強のスピードで拡大させてきた原動力だったが、ひとたび「未知の新製品」という暗闇に放り込まれた瞬間、組織全体を縛り付ける最悪の呪縛へと反転した。
アメリカ現地の朝9時開始の会議であっても、3時間も経てば日本時間では日を回り翌日の深夜1時になる。
さすがに院田も疲れが出て会議は持ち越しとなった。
同日 東京
朝になった東京の大手町でこの会議の記録(ログ)を追っていたD社の広瀬は、深くため息をつき、自社の開発サーバーの画面を見つめた。
(……やはり、限界が見えるな)
現場のミスを減らすオペレーションマニュアルはすでに完成している。しかし、G化学の技術開発や、今回のH食品の独自サプリのように、「新しく生み出したものを、どう安全に市場へ着地させるか」という『開発の汎用マニュアル』がなければ、連合はPOP一枚すら作れずに立ち往生するのだ。
手出しはしない。それがD社に課せられた監査役としての絶対の規律だ。広瀬はデスクのインターコムのボタンを静かに押した。
「院田の言う通りだ。会議と、問題のサプリメントの販売だけは一度中断して正解だろう。ただし、他の葛製品(葛茶など)に関しては、従来通りの一般論に基づいたマニュアルでそのまま流通させて構わない。そう現場に伝えてくれ」
的確にリスクだけを隔離する指示を部下へ下すと、広瀬は続けて画面の向こう側の知財解析チームへ視線を向けた。
「H食品のサプリについては、D社の知財チームが持つ『過去100年分の外資系サプリの訴訟リスクから逆算した暫定表現ガイドライン』をベースに、彼ら自身で策定させろ。我々が直接答えを書く必要はない」
広瀬の声音には、一切の妥協も、身内への甘えもなかった。
「その上で、院田たちがこれから組むであろう新マニュアルの雛形、あるいは彼らの暫定表現が、ウチのガイドラインの安全基準からどれだけ乖離しているか――それを即座に『数値化』するための監査準備を始めろ」
世界の胃袋を掴みかけた24社連合。
その足元で、完璧なマニュアルを求めるがゆえに発生した、3時間という前代未聞の空白。
それは、彼らが開発を急ぐ「企業にとっての聖杯(汎用開発マニュアル)」が、今や一刻の猶予も許されない必須のインフラであることを、身内である院田の冷徹な正論と、それをただ冷静に審査するD社の徹底したシステムによって、最も残酷に証明された瞬間だった。
メモリやGPUといった半導体ビジネスであれば、すでに市場の巨頭たちが「標準」を決めていた。連合はそのルールに則り、デッドコピーとコスト削減のマニュアルを走らせれば良かった。小林服飾研究所のコスプレ衣装にしても、ベースとなる高級アパレルの法務や流通の precedence(先例)を参考にすれば、リスクのコントロールは容易だった。
しかし、今回の『KUDZUサプリメント』が置かれた環境は、あまりにも奇妙だった。
――競合が「多いが、少ない」という、歪な空白地帯。
「健康サプリメント市場」という広大な枠組みで見るならば、競合は星の数ほど存在し、FDAの規制をクリアするための表示方法も完全に標準化されている。だが、「葛(クズ)を主成分としたサプリメント」というピンポイントの領域においては、競合が少なすぎた。
少なすぎるということは、競合他社が血を流して築き上げるべき「表示の標準化(どこまで謳えば安全かという業界の暗黙の了解)」が、まだこの世界に存在しないことを意味していた。
これこそが、24社連合がその歴史の中で初めてぶち当たった、真の意味での「壁」だった。
「これまでの我々の強みは、他社が作った『100点の正解』をマニュアルによって『120点』に引き上げる、あるいは『30点』のコストで量産することだった」
広瀬は静かに呟く。
だが、目の前にあるのは、誰も足を踏み入れていない0の荒野だ。
手本となる競合の表示が存在しない。どの表現がFDAの逆鱗に触れるのか、どの成分開示量がアメリカの消費者訴訟の引き金になるのか、その「比較対象」すら存在しない。
『ブルーオーシャン』。
経営の教科書をなぞる経営者なら喜び勇んで飛び込むこの海。しかし皮肉にも連合にとっては前例なき『赤い海』と捉えられていた。