ある日本企業たちの・・・   作:適当でいいです

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第131話

2046年 12月 東京 府中市 J社府中支店

 

連合内で人材関連業務を一手に担う『J社』。

その取扱領域は日本人にとどまらず、外国人労働者にまで及ぶ。主な主力職種は万年人手不足のドライバーと介護士だが、実際にはありとあらゆる産業への人材供給・募集を行っていた。

 

冬の冷たい風が吹く日、僕はJ社の府中支店のドアを潜った。

 

「あ、あの……介護職に応募したくて、伺いました」

 

受付の女性は、機械的だが一切の偏見を含まない爽やかな笑顔を向けた。

 

「承知いたしました。詳しいお話をさせていただきますので、応接室28番へお入りください」

 

この簡潔なやり取りだけで、待合室の片隅にいた『元仲間たち』は全てを察したようだった。視線だけで「お前も、ここに来たんだな」と言われた気がした。

そう、このJ社府中支店がわざわざ立ち上げられたのは、広大な『府中刑務所』からほど近い場所だ。そして連合傘下のJ社は、『現在の反社会的勢力との関わり』さえ完全に遮断されていれば、過去の前科がどうあれ、能力と適性次第で一般人と完全に同等の待遇と給与で採用するという、異例の方針を掲げていた。

 

僕は元々、どこにでもいる普通の大学生だった。

だが、闇バイトの罠にハメられ、特殊詐欺グループに脅迫されて無理やり窃盗と住居侵入の実行犯をやらされた。情状酌量こそ認められたものの、回数を重ねていたことで執行猶予はつかず、実刑判決が下った。世間に対する「闇バイト抑止の見せしめ」としての側面が強い判決だったと、後で弁護士から聞かされた。

 

そんな経緯で刑務所に収監されたわけだが、塀の中の雰囲気は、僕が想像していたような荒々しいものではなく、どこか不気味なほどの「のどかさ」が漂っていた。

 

『そうか、お前は盗みか』

 

『ええ、そうなっちゃいました……』

 

雑居房で一緒になったベテランの受刑者が、肩を叩いてくれた。

 

『気にすんな。大学に入るまでの学力があったんだろ? なら、出所後の道はいくらでもある』

 

『……そうなんですか? 前科者に社会は甘くないでしょう。どこも雇ってくれないんじゃ……』

 

『普通ならそうだな。足元を見られて最低賃金でこき使われるか、裏の仕事に戻るのが関の山だ。だが……J社は違う。あそこは前科者であっても、反社との縁が切れていることさえ確認できれば、完全に一般のサラリーマンとして扱う。社会的な信頼が、あの連合という巨大な看板で担保されているからな』

 

『J社っていうと……ちょっと前に「元受刑者ドライバー」の件で世間が騒いでいた……あの会社ですか?』

 

『そうだ。元受刑者のドライバーに野菜や魚を運ばせておいて、その食材をスーパーで買って食べてるくせに「前科者を雇うな」ってネットやテレビで叩かれてたアレだよ。ついにはJ社は世間の雑音なんか一切無視して突っぱねて、デモ隊の前に社長が出て追い返したがな』

 

塀の中では、身の上話や出所後の仕事に関する情報交換が盛んに行われていた。映画のように「人生終わった! また犯罪して刑務所暮らしに戻ってやる!」なんて自暴棄になる奴はほとんどいなかった。

代わりに誰もが口にしていたのは、『連合のJ社に就職するんだ。そうすれば、初年度から普通の正社員と同じ給料がもらえる。ボーナスもちゃんと出る』という言葉だった。

 

『だけどな、J社は徹底的なマニュアル主義だ。生半可なマニュアル経営じゃないぞ。それこそ狂気的なほど、一言一句までマニュアルに従わせるそうだ』

 

『噂には聞いています。連合傘下の企業はどこもそういう文化だって……』

 

『だからこそ、この刑務所の中の規律正しい生活で、そのマニュアル生活に身体を慣らしておくんだよ』

 

――そう。だからこそ、あの刑務所には「和やかさ」すら漂っていたのだ。

出所後の行き場として「J社就職」という明確な希望の光が用意されている。そして受刑者たちは、J社が最重要視する「マニュアル遵守」の姿勢を、刑務所内の規則正しい生活の中で自主的に学ぼうとしていた。塀の中で波風を立てる者など、最初からJ社への推薦を諦めているような落ちこぼれだけだった。

 

また、近年の刑務所における深刻な課題の一つに「受刑者の高齢化と介護問題」があった。介護が必要な高齢受刑者を、比較的若くて動ける受刑者が介護するというシステムだ。

僕は若いこともあってその当番に頻繁に回され、自然と介護の基礎知識と技能を叩き込まれた。法務省と刑務所がわざわざ専門の講習を開いて資格を取得させるほど、現場の介護人手不足は深刻だったのだ。

 

だからこそ、出所した僕はまっすぐJ社の門を叩き、受付で「介護職」を希望したのだった。

 

すでに8年以上前から、元受刑者の正社員採用を積極的に推し進めてきたJ社。

その累積採用数は公表されていないが、今や全国の刑務所の受刑者のほぼ全員が「出所したら、まずはJ社に応募してみる」と口を揃えるほど、その存在は社会復帰のインフラとして浸透していた。

 

応接室28番のドアが開き、スーツを着た面接官が入ってきた。

 

「お待たせいたしました。それでは採用面談と適性診断を開始いたします。まず、採用にあたっては3つのステップで診断を行います。第1ステップは、『現在の反社会的勢力との関与が完全に存在しないこと』の確認です。警察等の公的機関へ身元照会を行うため、こちらの同意書に署名をお願いいたします」

 

差し出された書類に、僕は迷わずサインをした。

 

「ありがとうございます。弊社は過去の経歴や過ちを一切問いません。ただし、この書類にサインされた『本日・この時間』以降、万が一にも反社会的勢力や違法組織との接触・関与が発覚した場合は、契約違反として即座に不採用、または懲戒解雇となります。異議はありませんね?」

 

「は、はい! ありません!」

 

刑務所で同室だった先輩から聞かされた話では、通常、出所者が再び定職に就ける確率は半分にも満たないという。仮に就職できてもアルバイトか日雇い労働で、正社員になれたとしても平均年収は200万円程度。手取りに直せば生活するだけで精一杯の数字だ。

だが、このJ社は違う。最低でも全国平均並みの年収450万円が保証され、さらに今、日本全国で深刻な人手不足に陥っている「ドライバー」「介護士」「建設作業員」などの特定職種であれば、年収500万円スタートという破格の条件が用意されている。まさに僕がやってきた介護の技能がプラス査定される職場だ。

 

(……そりゃあ、塀の中であそこまで神格化されるわけだ……)

 

「では、2つ目の診断に移ります。こちらを装着してください」

 

面接官から手渡されたのは、ごく普通の密閉型ヘッドフォンだった。

 

「今からヘッドフォンを通じて音声指示が流れます。指示の通りに身体を動かしてください」

 

一瞬、幼稚園の遊戯か何かかと思った。

指示の滑り出しは「右手を上げてください」「左足を半歩後ろへ下げてください」といった、まるで『旗揚げゲーム』のような単純なものだった。

しかし、途中から指示のスピードが上がり、複数の動作が複雑に組み合わさっていった。そして――。

 

「……あ、あの! すみません、指示が分かりません……!」

 

僕はついに根を上げて、ヘッドフォンを外してしまった。

指示の文章が異様なほど長くなり、前半の動作を頭から忘れてしまったり、支離滅裂な命令が混ざり始めたからだ。

 

「『右手を肩の高さまで上げ、そのまま左足を半歩後ろへ引き』、から先が分かりませんでした(実際の続きは『右手を下ろさずに左を向き、右足だけ一歩前へ出し、先ほど上げた右手を胸の前まで下ろし、左足を戻してから右手を上げてください』である)……こんな複雑な指示を聞くだけで完璧に実行するのは無理です……!」

 

面接官は表情一つ変えず、淡々と問いかけてくる。

 

「『分からない』とは、具体的にどの部分でしょうか?」

 

「……指示文が長すぎて、途中の動作を忘れてしまったことと……あと、言い訳になってしまうかもしれませんが、最後の指示文の中に『右手を下ろす』と『右手を上げる』が同時に入っていて、矛盾していてどっちに従えばいいのかも分かりませんでした……」

 

「なるほど。承知いたしました」

 

面接官は手元の端末に何かを素早く打ち込んだ。

(……ダメだ、終わった。指示通りに身体を動かせなかった。不合格だ……)

絶望的な気持ちが胸を締め付ける。

 

「それでは最後の、3つ目の試験です。少し場所を移動しましょう」

 

案内されたのは、応接室が立ち並ぶ廊下の奥にある広いトレーニングルームのようなスペースだった。そこには様々な形状の重量物や測定機材が雑然と配置されていた。

 

「そちらに並んでいる重量別のダンベルを順番に持ち上げてください。無理のない範囲で結構です」

 

重さを変えたダンベルを持ち上げさせた後、今度は人間の身体に近い重量別の抱き枕(おそらく介護現場での患者の体型を模したものだ)を抱え上げさせられ、最後に床に直接置かれた重い物体を持ち上げるフォームをチェックされた。

介護職として必要な筋力や腰の強さ、そして正しい持ち上げ方ができているかを見ているのだろう。

 

「結果は後日、登録された連絡先へ通知いたします。本日はお疲れ様でした」

 

面接官の定型句に見送られ、僕はJ社の府中支店を後にした。

府中市の冷たい空気を吸い込みながら、深く息を吐き出す。

 

実は、このJ社の特殊な試験内容の噂は、すでに刑務所の塀の中まで伝わっていた。

しかし、「具体的にどういう挙動をすれば合格なのか」という採用基準(採点表)の情報だけは、誰一人として知らなかったのだ。受刑者たちの間では『徹底的なマニュアル主義の連合なら、きっとこういう能力を見ているはずだ』という推測論が、まるで学会の議論のように日夜繰り広げられていた。

 

だからこそ僕は、さっきのヘッドフォン試験で変に知ったかぶりをせず、「指示が長すぎて忘れた」「命令に矛盾があって分からない」と正直に口にしたのだ。

もし事前の推測(「分からないことを曖昧に誤魔化す奴は、マニュアルを無視して現場で勝手な事故を起こすから即不合格になる」という噂)を聞いていなかったら、僕は分かったフリをして適当に身体を誤魔化して動かしていただろう。

 

(……果たして、あの判断で合っていたんだろうか……)

 

ふと振り返ると、夕暮れの空の下にJ社府中支店のビルが静かに佇んでいた。

過去を消し去ることはできない。だが、その過去を抱えたまま、狂気的なまでの「マニュアルとルール」の傘の下で、もう一度人間らしく生きるチャンスを与えてくれる場所――。

 

僕はコートの襟を立て、新しい明日へ向かってゆっくりと歩き始めた。

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