2047年 2月 埼玉県
12月初旬に受けたJ社の採用面談。その結果が出るのはかなり遅れる――。
事前の説明でもそう聞かされていたし、府中刑務所の塀の中でも「J社は慎重だから気長に待て」と教えられていた。
連合の仕事は全てが緻密なマニュアルで体系化されているため、一度動き出せば爆速で進むイメージがあった。だが、その前段階である「人間のスクリーニング」には、不気味なほどの時間とリソースが割かれるらしかった。
『採用されるかの通知は、最低でも2ヶ月は待つことになる。どこか身を寄せられる場所を用意しておくといい』
ベテラン受刑者のアドバイスは正しかった。
幸い、僕の両親が学生時代に借りていた埼玉のアパートを解約せずに維持してくれていたおかげで、路頭に迷うことなく自室でゆっくりと過ごすことができていた。
「……懐かしいな。そういえば、このアニメの続きってどうなったんだっけ」
「あ……このゲーム、僕が服役してる間に続編出てたんだ」
社会から切り離されていた数年間の空白を埋めるように、部屋でアニメやゲームの続きを追いかけた。それらがちょうどいい時間つぶしになり、焦る気持ちを紛らわせてくれた。
これだけ通知が遅いのは、やはり警察や関係機関を介した厳密な身元調査や反社照会、そしてあの体力・心理適性テストの解析に時間をかけているからなのだろう。
そんなある日の昼下がり、スマホに一着の電話が入った。
出ると機械音声が流れ、『採用選考が完了しました。指定のメールアドレス宛に通知を送りましたので、確認の上ご返信ください』と淡々と告げられた。
メールを開くと、専用のセキュリティリンクが貼られていた。
飛んだ先のWebページには、僕専用に生成された正式な電子雇用契約書と、驚くべきオファー画面が表示されていた。
「愛媛……422万円プラス業績ボーナス。岩手、410万円プラス業績ボーナス……」
画面には、僕が配属先として選択できる全国の介護施設のリストがずらりと並んでいた。
勤務地を選ぶと、その施設の内部写真、さらにはJ社が提供する社宅の候補地と内装パノラマ画像まで閲覧できるようになっていた。希望すれば現地へ内見しに行っても良いと注記されていたが、わざわざ埼玉から愛媛や岩手まで出向く気にはなれなかった。
「……ん? 一番給与が高いのは、沖縄と高知、あと北海道の夕張か。……だけど、ここ、入居者数に対して現従業員の数が明らかに釣り合ってないな。他より異常なほど人手不足だ。だからこそのこの提示額なのか。……おまけに、この3件、福利厚生がやばいな……」
家賃半額補助は当たり前。自家用車の燃料経費補助、冬場の電気代・暖房費補助、さらには新車購入時には15%の車両購入補助金を出すと書かれている。
あまりの条件の良さに、背筋が寒くなった。なんだか……あの人生を転落させるきっかけになった闇バイトの怪しい求人票を思い出させるような、浮世離れした大盤振る舞いだった。
かといって、東京や大阪、名古屋といった大都市圏の物件は、提示されている給与が一段低く設定されている。人気の勤務地だからだろう。
となると、狙い目は地方都市の「さらに郊外の街」だった。
「……滋賀のここが良いんじゃないか? 社宅も駅から近いし、年収405万円スタート。ここにもしかしたら業績ボーナスが付く……よし、ここにしよう」
画面上で契約を交わし、希望勤務地を滋賀県に確定させた。
表示された今後のスケジュールによれば、いきなり現地へ赴任するのではなく、まずはJ社の専用研修センターで「半年間」の合宿研修を受ける必要があるらしい。
だが――指定された住所を見て、僕は思わず目を疑った。
「……研修センターって、群馬の沼田のさらに北……? あそこ、もう一般客じゃなくて谷川岳を目指す登山客メインの場所じゃないか……」
てっきり、都内の綺麗なビルや大きな病院のような研修施設を想像していたのだが、地図アプリが示したのは山奥の旧リゾート地だった。送られてきた写真を見る限り、建物自体は年数が経っているものの、しっかりと補修・整備された中規模の複合施設だった。
研修中の半年間は、たとえ実家や自宅が近くにあろうと、全員が敷地内の「寮」に住み込みで生活しなければならない。それがJ社の鉄の規則であり、契約書にも明記されていた。
数日後、電車とローカルバス、そしてタクシーを乗り継いで現地へ到着すると、J社のビシッとしたスーツ姿の社員が僕を迎えてくれた。
「ようこそ。こちらの施設で半年間の研修を受けていただきます。また、この期間は全員に寮生活を送っていただきますが、この最大の目的は『生活耐性の確認』になります」
「……生活耐性、ですか? シフト制や深夜勤務で体調を崩さないか、を見るということでしょうか?」
僕が尋ねると、担当者は表情一つ変えずに頷いた。
「はい。せっかく家を借りて現地に赴任したものの、現場の不規則な生活で自律神経を乱し、体調不良で即座に離職されてしまっては、引っ越し費用や賃貸契約の期間違約金・修繕費用が発生します。また施設側にとっても、採用コストを投じて確保した人員がすぐに辞めてしまえば、再びコストをかけて求人を打たねばならず、双方にとって不幸な結果となりますから」
なるほど、と納得した。
画一的な「J社が標準とする介護職の1日の生活リズム」を半年間体験させ、身体や精神に異常を来さないかをスクリーニングするのだ。もちろん半年で人間のすべてが見抜けるわけではないだろうが、「シフト勤務が生理的に無理」という人間を本格投入前に弾くことはできる。
なお、介護資格や現場経験のない者のために、寮内では夜間に勉強会や講習も開かれるらしい。驚いたことに、その勉強会の時間もしっかりと「労働時間(給与支払い対象)」としてカウントされるという。世間のブラック企業なら「自己研鑽」の一言で無給処理するところだろうに。
案内された寮の部屋は、想像以上に広々としていた。
「これから皆さんが各配属先で住むことになる、単身者向け1LDKの標準社宅と同等のレイアウトになっています」
正直、僕が住んでいる埼玉のアパートは狭い1DKで、リビングなんて洒落たものは存在しない。学生の一人暮らしならそれが当たり前だと思っていた。
「あの……なんというか……至れり尽くせりすぎて、ちょっと……」
「何かご不満でしょうか?」
「いえ、不満というか……条件が良すぎて、逆に怖いというか……」
僕が本音を漏らすと、担当者は薄く口元を緩めた。
「ご安心ください。すべて当社のマニュアルと規定に基づいた適正な待遇ですので、後から裏で謎の費用を追加請求するようなことは一切ございません。契約書に記載されている通りです。……ただし」
担当者の目が、一瞬だけ冷ややかな光を帯びた。
「当社が定めた『マニュアルに従う意思』がないと現場で判断された場合は、理由を問わず即座に解雇(契約解除)となりますので、その点だけはご注意ください」
マニュアルに従えない者は即刻排除。
だが、もし「真面目にマニュアルを守ろうとしているが、介護の仕事自体が肌に合わない」「身体的に介護業務が無理だ」と判明した場合は、マニュアル遵守の精神さえ合格ラインにあれば、J社側から即座にドライバーや物流、建設といった「別の業種」の求人を提案され、その変更待機期間中も給与と各種手当は満額支給され続けるのだという。
(……本当に、この会社はどこまでも恐ろしい……)
世の中のブラック企業が「社員を使い捨ての消耗品」としてすり減らすのだとすれば、この連合とJ社は「社員を工場の大切な精密機械」のように、マニュアルという油を注ぎながら過保護なまでに丁寧にメンテナンスして使い続ける。
……人間として、一体どちらに管理される方がマシなのか、それともどちらも狂気なのか。
寒風が吹き抜ける谷川岳の麓で、僕は答えの出ない問いを胸に抱いたまま、あたたかな1LDKの部屋を見つめていた。