2048年 6月 東京 重次化学工業本社
重次化学工業が手掛ける「海水利用型冷却水プラント」事業は、怒涛の勢いで軌道に乗っていた。
米国のメガテック企業(巨大IT企業)によるデータセンター建設ラッシュに支えられ、すでにアメリカ西海岸の11箇所で自社プラントが力強く稼働を開始していた。
冷却技術の原理そのものは、決して複雑なものではない。
特殊な薬剤処理を施した海水を、遠心分離、沈殿、浮遊といった物理処理にかけ、従来のフィルターを通してろ過する――最先端の量子技術やナノテクといった派手なハイテクが使われているわけではなかった。
(そう……特別に最先端の秘伝技術を使っているわけじゃないんだ……)
役員室で書類をめくりながら、重次化学工業の担当部長は深く息を吐いた。
それにもかかわらず、海外の競合他社から模倣品や類似技術が一切出てこない。
理由は明確だった。海水という「有機物も不純物も混ざり切ったノイズだらけの自然物」を対象に、過酷なデータセンターの24時間稼働へ耐えうる懐の広い処理システムを構築しようとすると、どうしても重次化学工業が網の目のように張り巡らせた特許の壁にぶち当たってしまうからだ。
もちろん、いつかは海外の巨頭たちに突破される日が来るかもしれない。
だが、その頃には重次化学工業は次のステージへと進んでいるはずだった。
……それよりも、本当に不気味なのは、この事業のバックで静かに糸を引いているパートナー――連合傘下の『G化学』だった。
アメリカのビジネス文化にも、当然ながら「接待」や「パイプ作り」の習慣は存在する。
相手がビッグテックの役員ともなれば、プライベートジェットの手配から超高級レストランの貸切まで、豪華絢爛を極めた接待が繰り広げられる。
それなのに、共同事業体として出張してきているG化学の研究員や担当者たちは、毎回のように心底面倒くさそうな顔をしてその手の誘いを断ってくるのだ。
『そんな無駄な飲み会に時間を費やすくらいなら、次の「海水冷却水のリサイクル・二次利用」の研究を進める時間が欲しいのですが』
クライアントの前でさらりとそう言い放つG化学の担当者を前に、重次化学の部長は冷や汗を流しながら引き留めるのを諦めるしかなかった。
(いや、接待を断る理由にしては、さらりととんでもない次世代研究の構想を口にしてるじゃねえか……!)と、心の中で絶叫しながら。
「普段は『マニュアル、マニュアル』と機械みたいに復唱してるくせに、いざ接待や面倒な書類仕事が回ってくると『研究の時間がない』か。……サイボーグみたいな奴らだな、まったく」
マッドサイエンティストのような研究者がたまたま数人集まっているだけなら、まだ理解もできる。
しかし、連合・G化学の真に恐ろしいところは、この異様な合理主義とドライさが「全社員の標準」であり、企業の根幹をなす社風そのものとして完璧に統制されている点だった。
この数ヶ月、彼らと膝を突き合わせて仕事をしていく中で、重次化学の部長はある一つの重要な事実に気付かされていた。
それは――彼らが実践しているのは、単なるマニュアル主義ではなく、『従来のマニュアル主義経営が抱えていた最大の弱点を完全に潰した、アップデート版マニュアル経営』だということだ。
一般的に、マニュアル主義経営の最大の弱点といえば「スピードの低下」とされる。
組織が肥大化し、マニュアルが細分化・巨大化すればするほど、「今のこのイレギュラーな状況は、マニュアルの何ページに該当するのか?」を探すだけで膨大な時間がかかり、現場は混乱する。
しかし、連合の社員たちは違った。
彼らは手元の携帯端末(デバイス)を数回タップするだけで、どんな複雑な事象であっても、わずか数秒で「今執るべき最適手順」を画面に表示させてみせるのだ。
彼らが「マニュアルを確認します」と言って端末を操作する際、数分以上迷ったり検索に戸惑ったりしている姿を、部長は一度たりとも見たことがなかった。
おそらく、連合全体で社内DXが極限まで進んでおり、現場の状況や数値を入力するだけで、AIと専用の検索エンジンが瞬時に「適用されるべき規定」を弾き出すシステムが構築されているのだろう。
そして、従来の弱点である「権限の所在」や「社内スタンプラリー(多重決済)」問題。
日本の大企業が最も足を引っ張られているこの決裁スピードの遅さすらも、彼らは『会社組織のあらゆる行動パターンをマニュアル化し、社内検索エンジンにぶち込む』ことで力技で解決していた。
(会社単位の行動すべてをマニュアル化する……。言うのは簡単だが、途方もないパターンが存在するぞ。この「膨大なデータベースの構築」こそが、最初にして最大の参入障壁なんだ……)
だが、その狂気的な初期投資とデータ構築をクリアしてしまった連合の意思決定スピードは、まさに異次元だった。
重次化学側が「役員決裁の前段階である、部長決裁の稟議を回しています」と連絡を入れる頃には、向こうは「すでに数時間前に、新ラインの生産計画と資材手配の準備が完了しました」と平然と返してくるのだ。
そりゃそうだ。
「平社員の判断だけで進めて良い範囲」
「係長や課長の承認が必要な範囲」
「役員決裁まで飛ばさなければならない緊急案件」
これらすべてが、端末上で数秒で自動分類されるのだから。人間が会議室に集まってウジウジ揉めている時間そのものが存在しないのだ。スピードで勝てるはずがなかった。
――もちろん、この完璧に見えるシステムにも「功罪一体」の悪影響、つまり致命的な隙(弱点)は存在する。
それは、『前例が一切存在しない、本当の意味での完全な新規案件』に直面した時だ。
過去のデータベースに存在しない未知のトラブルや事業にぶつかった瞬間、マニュアルが存在しない連合の社員たちは、途端に「意思決定のできないそこらへんの一般企業」と同等か、それ以下にまで思考停止してしまうのだ。
「……は! そうか……! だからか……!」
部長は自室で一人、膝を打った。
(だからG化学は、この海水冷却プラント事業の『名誉』も『特許権』もあっさりと捨てて、ウチに丸投げしてきたんだ……!)
提携交渉の際、G化学は「海外での訴訟リスクを回避するため」と説明していた。
一口で言えば確かにその通りだったのだろう。だが、海外での特許訴訟や環境訴訟には、過去の類似事例(判例)が極めて少ない。
判例という数少ない実績だけで司法が動く訴訟社会は、「膨大な過去の失敗データから最適解を導き出す」という連合のマニュアルシステムと、極めて相性が悪かったのだ。
外部の弁護士チームに丸投げして裁判を戦うこともできただろう。しかし、一度裁判の場に引きずり出されれば、証拠提出や証言の過程で、連合が秘匿している独自の技術やマニュアル体系そのものが公の場に晒される危険性(漏洩リスク)が生じる。
だが――重次化学工業のような「前盾(フロント)」を立てておけばどうだろうか?
表向きの事業主であり、特許権者である重次化学を矢前に立たせておけば、万が一の法的トラブルが発生した際も、後ろに隠れているG化学はノーダメージで撤退ルートや逃走経路を確保できる。
今さら連合の真の動機に気付いたところで、すでに走り出したこの巨額の提携契約を覆すことなどできるはずもなかった。
もしあの時、重次化学が「特許も名誉もウチがもらって良いんですか?」と疑って提携を断っていたら……G化学は冷徹に『そうですか。では、このお話は無かったことで』と言って、すぐさま別の競合他社へ話を持っていっただろう。
そして、もし業界のどこからも断られていたとしたら――。
(……自社には手に余るリスクの高い技術だと判断したら……『お蔵入り』だ。……あの連中なら、間違いなくやる……)
部長の背中に、冷や汗が流れた。
あのリスク管理の鬼たちだ。
自分たちのマニュアルとシステムで完全にコントロールできない技術であれば、それがどれほど革新的なテクノロジーであろうと、どれほど地球環境や社会に貢献する倫理的なビジネスであろうと、迷わず資料室の奥深くに永久封印して「無かったこと」にするだろう。
普通の企業であれば、画期的な技術を開発し、小規模な実証実験まで成功させたなら、死に物狂いでそれを事業化しようと執着する。
しかし、連合の連中は違う。
『期待できるリターンがプラスであるなら、提示額はいくらでも構わない。それよりも、コントロール不能なリスクの大きさが気になる』
『じゃあ、今回のこの技術は……重次化学工業あたりに上手く押し付けて、リスクだけ肩代わりさせるとするか』
おそらく、重次化学工業の運命を決めた決裁は――1時間にも満たない、役員が出席していたかすら怪しいような連合・G化学の小規模な定例会議で、淡々と処理されたに違いなかった。