2048年 12月 東京 スーパー・ヴェス
都内の高級住宅街の一角に、一軒の新興スーパーマーケットがグランドオープンを果たしていた。
店舗の看板に刻まれた名は『スーパー・ヴェス』。
そのコンセプトは極めて明確、かつ挑発的であった。
――『最低限の健康を、あなたに。』
世の中に存在する一般的なスーパーマーケットの総菜コーナーは、ある意味で「不健康の極み」と言ってよかった。
日持ちをさせ、万人に「美味い」と感じさせるために、大量の砂糖や食塩、保存料が投入されている。その上、炭水化物と脂質に偏った栄養バランス。そして何より罪深いのが、揚物に使われる『酸化した質の悪い油』の存在だった。
一般的な家庭であれば、せいぜい1回か2回揚げ物に使ったら黒ずんでゴミ箱へ捨てられる油。それがスーパーのバックヤードでは、濾過されながら平然と何日も使い回されている。
もちろん、厳密な比較は難しい。家庭では「2回目の使用」までに数日から数週間という時間が空くが、店舗のフライヤーであれば毎日休まず稼働している。だが――使われている油が「著しく酸化し、健康に良くない」という不都合な真実自体に変わりはなかった。
だからこそ、この『スーパー・ヴェス』が掲げた最大の売りはシンプルだった。
『当店の総菜は、油を毎日「新品」に交換して揚げています!!』
総菜コーナーの頭上はもちろん、店舗入口のタペストリー、新聞折込チラシにまで、その文字が大きく躍っていた。
当然、これだけで病気が治るとか劇的に健康になるなどという魔法ではない。しかし、「他店の総菜を食べるよりは、遥かにマシなものを口にできる」という確かな事実があった。
さらに、野菜系の総菜に関しても「すべて店舗内の厨房でゼロから手作り調理する」ことを徹底させた。
これもまた、他店で売られているセントラルキッチン工場産のパック詰め野菜総菜と比べて、ビタミンや栄養価が爆発的に跳ね上がるわけではない。だが、保存料の量は他店より抑えたものが売られている。
この「毎日新品の油」と「店舗内調理」という2本柱こそが、ヴェスが提示する『最低限の健康への誠意』の証だった。
――そして、その誠意の代償は、すべて「商品の販売価格」へと苛烈に跳ね返っていた。
当然である。他店がコストカットのために何日も使い回している油を、ヴェスは毎日全量廃棄して新品を注ぎ込んでいるのだ。その分のコスト上昇はそのまま価格に上乗せされる。
野菜総菜にしてもそうだ。他店なら工場で作られた格安のパックを並べるだけで済むところを、ヴェスでは専用の厨房設備投資費、光熱費、そして調理師を含む人件費が重くのしかかる。
結果として、『スーパー・ヴェス』は紛れもない高価格路線の高級スーパーとなった。
だからこそ、高田社長は第1号店の出店地として、他の地方都市ではなく「東京」を選び抜いたのだ。
平均世帯資産額においても、毎月の平均給料においても、東京都内の特定のエリアは他を圧倒している。
「誰もが買いやすい安くて理想的な店」などという甘い理想論で、現代のスーパー経営が成り立つはずもない。富裕層をターゲットにすると決めた以上、中間層以下の客層は一顧だにしない割り切りが必要だった。
仮に将来的に中間層へ顧客を広げるにしても、徹底的なオペレーションの効率化が必要となる。そのためにはまず、十分な利益率と潤沢な「キャッシュ(現金)」が必要不可欠なのだ。
「そうや……まずは金や。金が無きゃ何も始まらん」
店長兼社長である高田は、賑わう店内の音覚を背に、静まり返ったバックヤードでぽつりと一人ごちた。
高田にとって、この東京での再起はまさに人生を賭けた大ギャンブルだった。
もともと彼は、地元・大阪で父親から引き継いだ個人経営の地域密着型スーパーを切り盛りしていた。
しかし数年前、近所にあの連合傘下の格安スーパー『丸得(まるとく)』が殴り込んできたことで、彼の人生は暗転した。常連客たちが、面白いように丸得へと流れ出て行ったのだ。
高田は怒りに震えながら丸得の店内へ偵察に入った。しかし、店の中を歩き回るうちに、湧き上がってきたのは敵意ではなく、言葉もない絶望だった。
丸得の店構えは、お世辞にも綺麗とは言えなかった。閉店した他店舗の居抜き物件をそのまま使い、天井の蛍光灯はコスト削減のために半分近くが消されている。古い業務用冷蔵庫はブーンと重い唸り声を上げ、いつ寿命を迎えてもおかしくない有様だった。欠品は日常茶飯事で、商品の品揃えそのものも貧弱を極めていた。
おそらくは居抜きの設備をそのまま使い回すか、倒産品の中古設備を安値で叩き買ってきたのだろう。
しかし――それらの徹底した惨めさを犠牲にして、丸得は他店を圧倒する狂気の安さを実現していた。
「そうや……近所の仲間は『連合という巨大資本がズルい』『地域壊滅や』と恨み節を吐いとったが、俺は思ったんや。これは単純に、相手の方が経営者として何枚も上手(うわて)やっただけやって……」
連合という資本力の差ではない。「安さを売りにする」と決めた瞬間から、なりふり構わずどこまでもコストカットを追及するその運営思想に、一切の迷いがなかったのだ。
それに比べて、安さも品揃えも接客もすべてが中途半端だった自分の脇の甘さこそが、客を奪われた最大の原因だったのだと、高田は痛感していた。
幸いにも、引き継いだ店舗物件自体は持ち家(親の遺産)であったため、傷口が浅いうちに店を畳むことで首を括る事態だけは免れた。
では、なぜ大阪で負けた高田が、東京で「高級健康路線」という真逆のコンセプトの店を開いたのか?
高田自身、丸得の店舗に何度も足を運び、その限界を観察し続けていた。丸得は衛生上の法的トラブルにならない「ギリギリのライン」を攻め続けてコストを削っている。その過酷な泥沼の安売り競争に、個人上がりの自分が飛び込んで勝てるはずがない。
ましてや、一度「丸得の安さ」に染まり切ってしまった大阪の客たちの価値観を、もう一度自分の店へ振り向けさせるのにどれほどの努力が必要か。
「そうや……俺は、真向勝負から逃げたんや……」
勝てる見込みがない。仮に勝てたとしても、手元に残る利益はすずめの涙だろう。そんな客が戻ってくる確率が低い上に成功利益も少ない経営に人生を張れるか自問自答した時、到底首を縦には振れなかった。丸得の方が立地も駅に近かいというダメ押し要素もあった。
さらに追い打ちをかけたのが、その後に近隣に出店してきた財閥系の格安スーパー系列の『スマート・ディスカ』だった。
格安路線のノウハウ、圧倒的な資本力、そして駅前の一等地を抑える政治力。連合と財閥という二大巨頭が本気で叩き合っている格安スーパーの戦場に、自分のような中小の経営者が割り込む隙などどこにも存在しなかった。
「……もしもし、中島さんですか? ええ、本日の滑り出しは絶好調です。はい、また後ほど……」
高田はスマートフォンの通話を切り、深く溜め息をついた。
当然、大阪の店を畳んで手元に残った僅かな手切れ金だけで、東京の一等地に新店舗を作るなど不可能なことだった。
そもそも最初は大阪か神戸あたりで別の店を、と思っていたのだ。そのために銀行へ融資を頼みにも行ったが、どこへ行っても門前払いを食らった。敗走してきた実績しかない男に、億単位の金を貸す金融機関などあるはずがない。当時の高田が持ち込んだ事業計画書も、懲りずに「少し綺麗な安売りスーパー」という中途半端なものだったからだ。
しかし、絶望の淵にいた彼に、唯一手を差し伸べた存在があった。
――『七岡銀行』。
中堅のネット銀行などを傘下に収める金融グループである。そこだけが唯一、高田の融資申請に対して『一度、こちらのコンサルティング会社と一緒に事業計画を練り直してみませんか?』と持ちかけてきたのだ。
そうして紹介されたのが、『東京総合経営技術情報社』という、やけに堅苦しい名前を持つ謎めいたコンサルティング会社だった。
そこが打ちのめされていた高田の前に提示した打開策こそが、この『スーパー・ヴェス』の高級健康路線計画だったのだ。
ターゲット層の絞り込み、油の毎日交換という定量的パフォーマンス、店舗内調理のストーリー性、そして東京の富裕層エリアへの限定出店――すべては彼らが描いた完璧なシナリオだった。
高田はチラシに描かれた『当店の総菜は、油を毎日新品に交換しています』という誇らしげなキャッチコピーを見つめた。
「情けないわ……結局、俺には独自の信念なんて何一つ無かったんや。言われた通りのシナリオをなぞって、東京で高級店ごっこをやってるだけや……。そら、大阪で負けて逃げてくる以外、道なんて無かったわけやな……」
賑やかなオープンセールの歓声を背に受けながら、高田は自嘲の笑みを浮かべ、静かにバックヤードの扉を閉めた。