2050年 9月 青森県 青森市
かつて22年前に、B社が東の山々を豪快に切り開いて造成した巨大な敷地。
現在そこには、幾重にも連なる白い巨大なクリーンルーム建物群が不気味なほど整然と鎮座している。
この工場敷地内だけで、B社の正規社員を含め延べ8,000人もの従業員が働き、毎日膨大な数の関連企業や常駐協力会社のスタッフが出入りしていた。
その広大な敷地の麓付近に、静かに線路を伸ばす青森鉄道。
野内駅から北東へ少し進んだ、かつては何もなかった市街地外縁の原野に、現在の交通の要衝となる新駅『B社工場口駅』が作られていた。
もともと旧JR東北本線でもあったこのローカル線は、重荷の貨物列車の運行が可能な強固な線路規格を有していた。そこに目をつけた連合は、自ら莫大な私営資金を投じてこの新駅から分岐させ、自社工場地下へと直結する専用地下鉄道まで敷設していたのだ。
旅客列車のダイヤも、通勤時間帯以外であっても1時間に上り下り各4本まで増便。運賃は連合の補填によって極めて安価に抑えられ、地域の重要な足として定着していた。
その『B社工場口駅』の駅前ロータリー。
新設された演説台の上に、与党・国民自由党が全党を挙げて送り出した「刺客」が立っていた。
「――私は正直に申し上げます! 連合B社さんの事業は、市長に当選した暁にも全力でバックアップいたします! 彼らがこの青森にもたらした経済的実績については、私も重々承知しております! ですが……! それと『特定の企業の息がかかった人間を市長にする』ということは、まったく話が別であります!」
街頭演説のマイクを握り締め、熱弁を振るうのは元青森県知事・笹神(ささがみ)という男だった。
経歴としては弘前市議から弘前市長、そして県知事へと昇りつめた、まさに地元叩き上げの重鎮政治家である。
与党公認であり、地元の元知事という絶大なネームバリュー。通常の選挙であれば、それだけで盤石な圧勝劇が計算できるほどの人材であった。
「もしB社のお膝元で、B社との太いパイプが大っぴらに繋がったままの候補者を市長にしてしまえば、それは市民の皆様にとっても将来的な巨大なリスクになり得るのです!」
駅前周辺は、工場建設とともに建てられたビジネスホテルや真新しい住宅街が整然と立ち並び、大型ディスカウントスーパーやロードサイド店舗がひしめく活気ある現代的な街並みへと変貌を遂げていた。
故に、行き交う人通りは非常に多い。
よりによって敵の本拠地である『B社工場口駅前』で敵陣営を牽制する演説をすることに、笹神自身も強烈な不合理さと不気味さを感じていた。だが、如何せんこのエリアが今や市内で人口密度と活気のある集積地の一つとなってしまった以上、ここでマイクを握らないわけにはいかなかったのだ。
「企業政党の歴史とは、過去の例を見ても不祥事と利権誘導の暗い歴史ばかりだ! 故に、彼らが市政を握れば国会だけでなく、県庁からも厳しい監視の目が向けられることになるでしょう!」
……だが、このアウェイな立地においても、笹神の叫びに真剣な眼差しで耳を傾ける支持者たちの集団が存在した。
彼らの多くは――『地元の農業、漁業、および畜産業の関係者たち』であった。
理由は至極単純だ。
B社の巨大工場がやって来たことで周辺の住宅開発とロードサイド開発が一気に加速し、地価が跳ね上がった。そして同時に、農地や牧場への悪臭・騒音苦情、害虫・害獣被害といった不利益を、一方的に押し付けられてきた側だったからだ。
新参の「工場需要の住民」が市内の圧倒的多数派を占めるにつれ、行政の配慮や予算配分も徐々に新住民側へと傾いていく。
(後から勝手に転がり込んできておいて、勝手なことばかり抜かしやがって……)
それが、先祖代々この土地を耕してきた一次産業従事者たちの、言葉にならない怒りと殺気立った心の声であった。
同日 青森県 青森市 笹神選挙事務所
駅前での街頭演説を終えた笹神が、市内中心部にある自前の選挙事務所へと戻ってきた。窓の外は、静かに夕暮れの赤に染まりつつある。
「……どうかね? 向こうの動きに何か変化はあったかね?」
笹神がパイプ椅子に深く腰掛けながら、事務所スタッフに問いかけた。
『向こう』とは当然、政党・れんごうが擁立した市長候補のことだ。他に2名の無所属候補が立候補していたが、そんな有象無象はもはや誰の眼中にもなかった。
『れんごう』が立ててきた候補者は、古川(ふるかわ)という50代後半の女性だった。
彼女こそ、22年前にB社が青森のメモリ工場を建設した際、海外大手メーカーから吐き出された型落ちの中古半導体製造装置を泥臭くチューニングし、稼働させた現場エンジニアかつチューニングプロジェクトリーダーであった。
当時、B社の中堅社員として工場立ち上げの中の一プロジェクトを成功させて昇進し、22年が経過した現在では技術部門の部長にまで上り詰めていた人物だ。
まさに、「実務と現場のデータ」を何よりも重視する連合という組織に相応しすぎる候補者であった。
「くそ……よりにもよって、女性の実務派候補をぶつけてくるとはな……」
笹神は爪を噛んだ。
政治の世界は、2050年を迎えた今なお女性議員や女性首長の割合が未だに少ない。社会的・構造的な事情は様々挙げられるだろうが、現実に「少ない」という事実は変わらない。
連合の現場叩き上げエンジニア。B社メモリ工場初期立ち上げの中核メンバー。そして『女性実務家』という象徴的なシンボル。
ただでさえ圧倒的な実利実績という強敵に、これ以上ない補強パーツが組み合わされていた。連合は政党名だけでなく、こうした世論の心理構造すら冷徹に利用してきたのだ。
しかも、選挙戦が始まって3日。古川陣営は、既存の政治家には到底思いつかない「連合流の異質な選挙戦」を展開していた。
『我々「れんごう」は、皆様の生活の助けになる合理的な施策を全力を挙げて実行します。……ですが、皆様から寄せられる“すべての要望”に応えることは絶対にできません。それでも我々の基本方針と実績を後押ししていただける方は、私、古川に一票をお願いいたします』
街宣車から流れてくるのは、耳を疑うような演説だった。
笹神は猛烈に混乱した。
一次産業の従事者たちが開発の煽りを受けて割を食っているのなら、普通はそこへ甘い言葉を囁き、補助金や補償を約束して票を分断しに行くのが選挙の鉄則だ。
しかし、古川陣営は堂々と『できることと、できないことがある』と突っぱねて街を練り歩いているのだ。
こちらが達成できるかも怪しい聞こえの良いいくつもの公約を掲げている横で、向こうは愚直なまでに「免責事項」のみをアピールする。クリーンなイメージ戦略と、連合の圧倒的なインフラ実績、そして古川個人の実務スペックだけで押し切る構えだ。
それとも……古川陣営は、最初から一次産業従事者たちの票などハナから計算に入れておらず、捨てているというのか……?
同日 東京 虎ノ門 国民自由党本部
同じ日の夕刻、国民自由党の幹事長・倉本の下に、提携シンクタンクから『補助情報』と書かれた極秘資料が届いていた。
それは正式な選挙予測報告書ではなく、あくまで「連合という怪物の思考パターンから逆算したシナリオの可能性」を提示しただけの文書であった。
幹事長室で一人、厚手の茶封筒を受け取る。
デジタル全盛の2050年において、あえて紙の封筒を使って手渡しで持ち込まれたという事実が、その情報の異質さを物語っていた。
『――日本の選挙政治史上において前例が存在せず、海外の過去事例とも合致するパターンが見当たらないため、以下は純粋な推論に過ぎません』
冒頭に記された前置きの文章としては、あまりにも不気味で重い言葉が並んでいた。
本文が記載されているであろう2枚目の紙へページをめくる倉本の指が、かすかに震える。
「……っ!? な、なんだこれは……!?」
倉本は思わず絶句した。
そこには、与党の幹事長として決して目にしてはならない恐ろしい仮説が整然と並べられていたのだ。しかし、あの「連合」という組織の狂気的な性質を考えれば考えるほど、それが『彼らの真の狙い』である可能性を否定しきれなかった。
『本選挙における「政党・れんごう」の真の目的は、地方自治の獲得ではなく【政治的理念と実利(利害関係)における民意のデータ採取】である可能性が高い』
用紙には、その推論が成り立つ冷徹な背景がロジカルに記述されていた。
政党・れんごうは結党したばかりであり、既存の党のように配慮すべき利権団体も、天下り先の天下り機関も存在しない。だからこそ、誰に忖度することもなく完全に身軽な状態で「実験」を実行できる。
そこに連合の狂気的な研究者気質とデータ至上主義を組み合わせた時、この悪夢のようなシナリオが浮かび上がるのだ。
『はたして青森市モデルの市民たちは実利をもたらしてはいるものの、私企業政党という民主主義の崩壊を自ら招き入れるか?』
連合という怪物が、ただの勝ち負けの政治勝負に出てくるはずがない。
彼らは仮にこの市長選で敗北したとしても、ただでは絶対に転ばない。膨大な『投票行動データ』と『感情対実利の境界線データ』を収穫としてライブラリに持ち帰り、次の国政選挙への完璧なアルゴリズムを構築する算段を立てているのだ。
勝てば首長を手中にして国政進出への強力な足掛かりを得る。
負けたとしても、日本の地方選挙における最高精度の「政治実験データ」を土産として持ち帰り、さらに組織を進化させる。
勝っても負けても痛手を負わず、ただデータを吸い上げて強大化していく怪物。
一方、一度でも負ければ地盤を崩され、壊滅的な打撃を被る自分たち既存政党。
倉本は冷や汗が背筋を伝うのを感じながら、夕闇に包まれる虎ノ門の街並みを、ただ呆然と見下ろすことしかできなかった。