同月 青森県 青森市
7日間の過酷な選挙運動期間が終わりを告げた。
日曜日の午後8時、投票箱が閉められると同時に市内各所で一斉に開票作業が始まった。
各所の投票所の出入り口には、案の定、連合が派遣した大量の出口調査員が配置され、投票を終えた市民の属性と投票行動のデータを分単位で回収・蓄積していた。彼らにとってこの選挙は、投開票の瞬間まで完璧なデータ採取のフィールドワークだった。
そして、開票開始から叩き出された確定結果は、永田町の与党本部を絶句させるに十分なものであった。
『政党・れんごう』 古川(ふるかわ): 8万2,000票
『国民自由党』 笹神(ささがみ): 2万8,900票
与党幹事長・倉本らが最悪のシナリオとして想定していた「ダブルスコア」どころの騒ぎではない。ほぼトリプルスコアに迫るという、圧倒的かつ残酷な大差がついたのだ。
惨敗の報を受けた選挙事務所の奥で、笹神は深々とパイプ椅子に沈み込み、力なく天井を見上げた。
「……終わりだ。10月から、この青森の街で『連合』と『B社』による企業の独裁が始まる……」
「せ、先生……! そうなると、これからの青森市は国から徹底的に敵視され、嫌がらせを受けることになるのでしょうか……?」
落選のショックで震える党の若手アシスタントが、縋るように問いかけてくる。
笹神は力なく首を横に振った。
「……いや、中央の連中もそこまで幼稚な真似はせんよ。国が1市民や1自治体に対して見せしめの報復なんぞしてみろ。それこそ連合に『国が不当に青森市民を差別し、見捨てた』という決定的な攻撃材料を与えるだけだ」
「では……今まで通りだと?」
「そうはいかん。市の条例や補助金事業、都市計画、第三セクターへの支援予算……そういった中央からの審査基準が、今までとは比べものにならんほど厳格化される可能性は極めて高い」
笹神は乾いた唇を噛みしめた。
「……だが、もし連合が本当にぐうの音も出ないほどクリーンで合理的な行政をやってのけたなら、国側も堂々とそれを認めざるを得なくなる。逆に、少しでも法令違反や不透明な処理が出れば、国は法を盾に徹底的に突いてくるだろう。……つまりだ、これからの青森市は、日本で最も監視される街になる、ということだ」
連合ほどのスケールではないにせよ、今回の青森市長選は国政の前哨戦として国民自由党も異例の注視を行っていた。そのため、通常の地方選ではあり得ない数の独自調査員を現場に投入していた。
その調査速報のペーパーが、笹神の手元に届く。
「……やはりな。農林水産業の従事者層は、こちら(笹神)に多く票を投じていたようだ」
「はい……ですが、それ以外のほぼすべての層が向こうに着きました。会社員も個人事業主も、連合に客を奪われて不利益を被った者より、連合のインフラや購買力から『具体的な恩恵を受けた者』の方が、この街では多数派だった……それが数字として出たということです」
この選挙結果は、まさに連合が長年かけて描いてきた地方再生のグランドデザイン通りであった。
市民が日々享受してきた「実利」という絶対的な武器が、過去の既得権益や地縁血縁の政治構造をそのまま押し潰したのだ。
そして今頃、本部のデータセンターでは、この投票結果の裏にあるさらに詳細な心理行動データの解析が完了しているはずであった。
2050年 10月 青森県 青森市 青森市役所
任期満了に伴い、青森市長のバトンは正式に古川の下へと手渡された。
人口減少に苦しむ東北の地にあって、数少ない「持続的成長都市」として異彩を放つ青森市。
B社メモリ工場の巨大な需要から波及する商業・不動産市場の順調な伸び、第三セクター・青森鉄道の経営再生による交通利便性の劇的な改善。
今や、市政に面と向かって文句をつける目立った反対勢力は、開発から取り残された一部の農業関係者くらいのものだった。
初登庁を果たした古川は、元技術部長らしい落ち着いた佇まいで、就任式や庁内の挨拶回り、定例記者会見を滞りなくこなしていった。
市役所の生え抜き職員や幹部たちの間にも、「変に政治的なパフォーマンスをしない実務派のトップ」として、概ね歓迎のムードが漂っていた。
そして就任からわずか数日後――『B社』が即座に動いた。
B社がグループ内に新設していたエネルギー子会社『B電力ネットワーク社』。
計10本もの超巨大クリーンルームラインを稼働させるB社青森工場は、単体で巨大な電力需要を抱えている。そのため彼らは、電力卸売市場において途方もない規模の「大口一括契約」を結んでいた。
スーパーでの野菜の仕入れと同じく、購入する電力規模が大きければ大きいほど、1キロワットあたりの調達単価は極限まで下がるのだ。
この大口調達のスケールメリットを自社グループやサプライチェーンに還元する手法は、自動車メーカーや連合企業では常識の範囲内であった。
しかし、B社は今回、この仕組みを――『青森市民全体』へ向けて適用すると言い出したのだ。
「――というわけですので、関係部署の皆様には、まず市内の年間電力使用量実績の精査をお願いしたいのです」
市長応接室にて、古川市長は穏やかな笑みを浮かべながら幹部職員たちに通達した。
その会議の末席に、農林水産課長が座っていた。彼は庁内の課長級の中でも数少ない、連合やB社、そしてその息がかかった古川市政に対して冷ややかな視線を送る反対派のひとりだった。
農水課長は眉をひそめ、直球の質問を投げかけた。
「……市長、その『市内の電力使用量』というのは、我々が支援すべき農家や畜産業者の事業用電力も含まれるのでしょうか?」
「ええ、もちろんです」
古川は即答した。
「水道であれば市の直営ですが、電力は電力会社様との契約ですから『青森市内の請求だけ特別に別計算』などとすれば、向こうの手間と事務コストが増えてしまいます。ですから、市民や事業者の皆様には一度通常通りにお支払いをいただき、後日、削減分に相当する支援金を一括で口座振込する形を想定しています。具体的な制度設計については、この後、行政局長たちと一緒にB電力の担当者と細部を詰めます」
農水課長は絶句し、複雑極まりない面持ちで、古川が放った就任一発目の「号砲」の真意を頭の中で反芻した。
(一次産業が自分たちから離れているからといって、農家だけをピンポイントで特別扱いして懐柔しようとはしない……。一般市民全員に莫大な利益を叩き出し、その同じスキームに乗せる形で、反対派の農家にも全く等しい恩恵を行き渡らせる……。
反対派を政治的に懐柔するのではない。『反対する理由そのもの』を、制度と圧倒的な実利で上から丸ごと押し潰していくのか……。完璧すぎる。
……いや、違う。奴らは市長選に出馬した最初の段階から、すでにこの着地点まで計算し尽くしていたんだ――)
2050年 12月 青森県 弘前市 青森県庁
現青森県知事・大橋(おおはし)は、知事室の執務デスクで頭を抱えていた。
青森市が突如打ち上げた新制度――『青森市電気料金特別支援金制度』。
そのカラクリは極めて冷徹かつ合理的だった。
B社が持つ青森工場と長野工場の巨大な電力需要をまとめて電力市場から大口調達する際、青森市内の全需要の一部(家庭・事業所・農林水産設備)をあらかじめ「合算データ」として組み込んで契約する。
昨年度の電力使用実績データをもとに算出した結果、青森市内の電気代の約7.5%に相当する枠をB社が前払いで一括・代行調達し、市が後からその差額をB社へ公金で立て替えるという方式である。
単純に計算すれば、月に3万円の電気代を払っている一般家庭の場合、2,250円分の電力がB社の大口単価によって1,330円まで引き下げられる。
つまり、毎月「920円」の直接的な節約。年間で「1万1,040円」の家計負担軽減となる。
これがさらに莫大な電力を使用する工場、商業ビル、あるいはビニールハウスや保冷設備を抱える農家・漁業者となれば、削減される金額の桁が変わってくる。
市全体の平均で見ても、実に電気代の約3.1%削減という、地方自治体単体としては前代未聞のコストオフ効果を叩き出していた。
「……完全にやられたな。新市長の就任直後にこれほど強烈で、全市民が恩恵を受ける施策をぶち込まれては……『企業による市政の独裁』などという政治的批判は、市民の圧倒的な歓声にかき消されてしまう……」
大橋知事が重い溜め息をつくと、側近の副知事が焦り気味に声を潜めた。
「知事……なんとか国(総務省や経済産業省)に掛け合って、この不公平な制度を停止させるよう圧力をかけられませんでしょうか……!?」
「無理だ」
大橋は即座に首を振った。
「青森市が独自の予算と、民間企業(B社)の正当な取引余力を活用し、全市民に平等に還元している施策だ。法的な瑕疵がどこにも存在しない以上、県や国が介入して止められる道理がない……」
だが――大橋知事にとって本当に恐ろしいのは、単なる青森市内の電気代値下げではなかった。
この制度が秘めている、「青森県庁という行政組織の存在意義を根底から解体しかねない悪夢のようなポテンシャル」に気づいてしまったからだ。
(もし……もしだが、青森市に隣接する平内町や藤崎町、あるいは今別町といった周辺自治体が『うちの町もそのB電力の大口契約に混ぜてくれ』と頼み込んだらどうなる? そしてB社が『青森市だけに限定する合理的な理由はありませんから、条件さえ整えば近隣自治体も追加しましょう』と言い出したら……?
電力だけではない。B社と連合が持つ物流網、金融サービス、住宅開発、そしてあの教育インフラ……すでに青森市には、連合が作り上げた完璧な自給自足経済圏が存在する。そこへ周辺自治体が、県庁を飛び越えて一つ、また一つと雪崩を打って参加していったら――)
大橋は手元の報告書からゆっくりと目を離し、窓の外に広がる積雪の街並みを見つめた。
(都道府県という広域行政の枠組み(県庁)を完全にスルーして、市町村という末端自治体が、民間企業グループと直接つながって広域経済圏を形成していく……。そうなった時、我々『県庁』は一体何のために存在する?
……いや、それ以上に最悪なのは、この動きに対抗して弘前市を中心とする津軽エリアが独自の経済圏を作ろうと足掻いた時だ。青森県という一つの自治体が……【青森市・連合経済圏】と【弘前市経済圏】という、修復不可能な二つの陣営に完全に真っ二つに叩き割れる――)
北国の凍てつく冬の訪れとともに、都道府県という明治以来の行政枠組みが静かに崩壊へと向かう足音が、知事室の中に冷たく響き渡っていた。