ジャカルタ教習所は、すでに2年前から極秘裏に始動していた。
これまでに50名ほどの卒業生が、日本の慢性的な人手不足に喘ぐ運送会社へと派遣されている。
さすがにトレーラーやダンプカーといった大型特種車両の運転は、路面感覚や死角の多さなど「属人的な高度技術」の壁が高く、D社とC社の間でも今なお確実な指導方法を模索中だった。そのため、現在日本に送り出されている人材が扱うのは、主に2t車や5t車といった中型・小型トラックだ。
主な業務範囲は、ECサイトの荷物を運ぶ宅配便や、営業所間を繋ぐ中距離輸送。
これだけでも、運行停止の危機に瀕していた日本の運送業界にとっては、文字通りの「救世主」だった。
――あくまで、経営の数字しか見ない企業(経営陣)にとっては、だが。
現場の歪みは、最も末端の積み込み場で破裂した。
「なんだよ、あんた」
関東郊外の運送会社。年季の入った4tトラックの横で、汗だくの作業着を着たベテラン候補のドライバー、小山田幸雄が不機嫌そうに声を荒らげた。
その視線の先に立っていたのは、真夏だというのに寸分の乱れもないスーツを着用し、タブレットを小脇に抱えた無表情な男だった。
「小山田さん。小山田幸雄さんですね?」
「ああ、そうだけど。今から積み込みで忙しいんだよ」
「J社から参りました、業務適正化監査官です。本日より、貴社に対する『特別労務監査』を実施します」
男が提示したIDカードのロゴを見た瞬間、小山田の背中に冷たいものが走った。
事の発端は数日前。J社からこの会社に派遣されていたインドネシア人ドライバーから、Kソフトウエアを経由して連合へ一通のアラートが飛んだことだった。
「現場で、マニュアルにない不当な差別的扱いを受けている」と。
彼らは、業務に使う最低限の日本語の定型句(「オツカレサマデス」「ツミコミ、カンリョウ」など)は完璧に暗記しているが、現場の人間が早口でまくし立てる複雑な指示や、日本特有のニュアンスを含む日本語を正確に理解することはできない。
そのため、彼らはボンネットのタブレットを取り外して持ち運び、日本人スタッフの指示をマイクで拾う。
それで一般の翻訳アプリを介して自国語に翻訳し、日々の業務をこなしていた。
だが、運送会社の現場の人間たちは知らなかった。
そのタブレットの音声マイクが起動している間、その会話の内容はすべて、Kソフトウェアのサーバーへと「一時的なテキストログ」としてストリーミング送信されていたのだ。
そして、そのログをC社のテキスト解析AIがスキャンした瞬間、いくつかの「致命的な単語」がフラグ(警告)として検出された。
『これだから外人は』『使えないゴミが』『狭い道で事故ってクビになればおもしろだろうに』――。
小山田が日常の鬱憤晴らしに、翻訳アプリの向こうの若い異国人ドライバーへ浴びせかけていた、生々しい暴言の数々。それが完全に文字起こしされ、証拠データとしてC社の監査部門に直行したのだ。
「おいおい、ちょっと待てよ! 冗談じゃねえ、何が監査だ。ただの現場の口答えだろうが!」
色をなして食ってかかる小山田に対し、監査官は瞬き一つせず、タブレットの画面を小山田に向けた。
そこに表示されていたのは、この運送会社の社長がJ社と交わした、派遣契約書の最終ページのデジタルコピーだった。
特約条項、第18条。
【派遣労働者に対する不当な扱い、または規律違反の兆候(ログによる検知を含む)が認められた場合、乙(J社)は甲(運送会社)のすべての事業所、運行車両に対して、事前の通告なしに『乙の監査官』を同行させ、業務プロセスの全面的な監査を行う権利を有する。甲はこれに対して一切の拒否権を持たない】
「……社長が、認められている条項です」
監査官の声は、温度が完全に削ぎ落とされていた。
「これより私は、小山田さん、あなたの助手席にぴったりと貼り付きます。あなたのすべての運転操作、ルート選択、そして言葉遣いが、我が社の安全管理基準および契約条項に適合しているか、この目で監査させていただきます」
このJ社の監査官とはC社から出向してきたマニュアルと監査の鬼だ。かつて、岐阜のE化学を骨の髄まで解体し、生真面目なマニュアルの奴隷へと変貌させた、あの冷徹な「白アリ」たちの侵食が、今度は日本の物流の現場で始まろうとしていた。
救世主という甘い蜜を舐めた代償として、運送会社は自らの管理権を完全に連合に明け渡したのだ。小山田が恐怖で息を呑む中、監査官は静かにトラックの助手席のドアを開け、音もなく乗り込んだ。
この予期せぬ抜き打ち監査に、血の気が引いたのは小山田だけではなかった。
トラックへの積載図面を引き、配送順を決める「ルート選定業務」の担当デスクも、奥で激しく狼狽していた。彼らは、J社から派遣されてきたアキルという名のインドネシア人青年が「新米」であること、そして「若いから」という極めて属人的な理屈を盾に、重量のある荷物の積み込み作業をほぼ彼一人に任せっきりにしていたのだ。
慌てて周囲の日本人ベテランや老齢のドライバーたちが手分けしてごまかそうとしたが、時すでに遅かった。
そもそもこの運送会社は万年人手不足であり、既存の日本人スタッフは全員が過密シフトでフル稼働している。今更アキルの仕事を分担するだけの人員的な「余白」など、この職場のどこにも残されていなかった。
偽装の舞台が整う前に、監査官はアキルの背後に音もなく立っていた。
「アキルさん。その荷物は、何キログラムありますか?」
静かな、しかし現場の喧騒を鋭く切り裂く声だった。
ルート担当のデスクの背中に、嫌な汗がどっと噴き出す。――終わった、と直感した。
「ええと、これは8キロです」
アキルが胸の前に抱え上げようとしていたのは、飲料水の入った段ボール箱だった。
もちろん、8キロの荷物を持つこと自体が労働基準法や連合の規約で一発禁止されているわけではない。成人男性の作業としては、一見すればごく普通の光景だった。
しかし、監査官の目的は「一過性の事実」の確認ではなかった。
「その重量物の積載作業は、どの程度の頻度で行われていますか?」
「いつも、ですよ。朝ここに来たら、指示されて、この場所にある荷物の積み込みをやってます」
アキルは悪気もなく、むしろ自分の勤勉さをアピールするように、一般的な翻訳アプリの画面を見せながらハキハキと答えた。
「それは、いつも一人で、ですか?」
「はい。いつも一人です」
「そうですか」
監査官は感情を一切交えない手つきで、小脇に抱えたタブレットの画面を数回タップした。
「そうですか」というその短い呟きは、この運送会社の労務環境が『レッド(致命的な規約違反)』と判定された合図だった。
日本人スタッフと派遣労働者の間における、肉体的負荷の客観的なデータ乖離。
アキルの「いつも」「一人で」という証言により、突発的なアクシデントではなく、組織ぐるみで意図的に負荷を集中させていた運用の証明。
「おい、あんた、誤解しないでくれよ!」
たまらず奥からルート担当の社員が飛び出してきた。
「差別とかそんなんじゃないんだ! 彼はまだ日本の道に慣れてないから、まずは体を使う積み込みから覚えてもらおうと思って、親切心というか、研修の一環でだな――」
「研修、ですか」
監査官は振り返りすらせず、ただ冷徹にタブレットにデータを打ち込み続ける。
「貴社の言う『研修』のカリキュラムに、言語的サポートなしでの重量物の一極集中作業が含まれている旨、我が社との事前合意の記録(ログ)には存在しません。本件は契約書第12条における『労働環境の不当な格差』および『過度な肉体的負荷の隠蔽』に該当すると判断します」
言い訳の言葉を、法務の刃で容赦なく叩き切る。
小山田の暴言ログという「点」から始まった監査は、積み込み場の荷物の重さという「線」へ繋がり、今やこの運送会社の歪んだビジネスモデルそのものを完全に包囲しつつあった。
1週間。
たったの1週間、一人の監査官が現場にぴったりと貼り付いただけで、指摘された問題点は実に「12件」にのぼった。
その内、4件は事前の契約書に明確に違反する、法的にも致命的な内容だった。小山田の暴言によるハラスメントログ、アキル他J社から派遣された4名のドライバーへの重量物一極集中の常態化、そしてKソフトウェアの地図アプリが正確に記録していた「星1(通行不可能)」の生活道路への、嫌がらせに近い配送ルートの強制変更。
すべての不条理が、言い逃れの不可能な数値とタイムスタンプ付きのログとして、美しくグラフ化されていた。
「……あの、お待ちください。日本の運送業界では、ドライバーが自分のトラックの荷物を積み込むのは、ごく一般的な『商習慣』でしてね?」
運送会社の役員室。エアコンの風が虚しく響く部屋で、社長は額の汗を拭いながら、必死にすがりつくような声をあげた。
だが、机の対面に座る監査官は、眉ひとつ動かさずに手元のタブレットをタップした。画面に表示されたのは、社長自身がサインした契約書の文言だ。
「商習慣、ですか。しかし我が社との契約書には、彼らの業務範囲は『指定車両の運転および運行管理』と明確に規定されています」
監査官は冷徹な視線を社長へと向け、静かに、しかし逃げ場を完全に塞ぐトーンで告げた。
「我が社は貴社へ『ドライバー(運転手)』を派遣したのであって、のべ数トンにおよぶ貨物を一人で仕分ける『貨物運搬者』を派遣したのではないのですが?」
「それは……しかし、現場の融通というか……」
「我が社のシステムに『融通』という変数は存在しません」
監査官の言葉が、役員室の空気を氷点下まで凍りつかせる。
「契約違反、ならびに労働安全衛生基準の逸脱。これらを裏付ける1週間分の電子データは、すでにJ社の法務サーバー、および統括監査システムへと同期(シンクロ)されています」
社長をはじめとする役員たちの顔から、完全に血の気が引いた。
彼らにとって、J社から送り込まれるインドネシア人の若者たちは、崩壊寸前の会社を支えてくれる都合のいい「救世主」のはずだった。低賃金で、文句も言わず、日本の過酷な現場の泥を代わりに被ってくれる都合のいい歯車だと、高を括っていたのだ。
だが、その歯車のボンネットに置かれていた安物のタブレットこそが、彼らの前代未聞の横暴をすべて記録し、牙を剥くタイミングを測っていた「連合の目と耳」だった。
「これより、契約書第24条に基づき、ペナルティ(違約金)の算定、および今後の派遣継続に関する『条件の再定義(再契約)』の手続きに入ります。拒否される場合は、明日午前0時を以て、現在貴社に割り当てられている5名の中型ドライバーの全IDをロックし、即時引き揚げさせていただきます」
明日からトラックが5台止まる。それは、この会社にとって確実な「死」を意味していた。
日本の物流の不条理をデータで人質に取った24社連合は、生殺与奪の権を握ったまま、怯える社長たちを見下ろしていた。大手町で広瀬が「聖杯」の完成を急ぐその裏で、連合のシステムは、規律を持たない哀れな、しかし横暴でもある地方企業を容赦なく檻の中へと追い詰める。
24社連合は別に運送会社を潰すつもりはなかった。
ただ、彼らの持つ「現場の裁量」という曖昧な権力だけは、契約とログによって回収するつもりだった。