2052年 5月 青森県 青森市 青森市議会
文化施設の縮小・移転という大ナタを振るう方針が決まったとはいえ、現実の行政において最も厄介な調整が残っていた。
『移転・統合によって空いた施設、そして一等地を含む土地をどう利活用するか?』という問題である。
近年の青森市は地価が持続的な上昇傾向にあった。さらに、東北地方の中でも異色と言える電力単価の低さは、民間事業者にとって喉から手が出るほど魅力的な立地条件だ。売却に出せば、データセンターとまではいかずとも、クラウドサーバー施設や大規模な高度冷蔵倉庫などを手掛ける事業者が破格の高値で買い取ることは確実であった。
だが、古川市長はその安易な「民間の切り売り」を良しとしなかった。
「せっかく成長傾向にある市内の貴重な土地を、たった一時の売却益のために手放すのはあまりに早計でしょう。行政として真に利用価値のある再定義の道があるはずです」
そう言って古川が市議会へ提出した対案――それこそが『市民向け芸術実習所』への再編プランであった。
「施設の縮小に伴い、学芸員の削減・解雇もまた懸念されております。しかし、彼らこそ長年培われた高度な専門知識と技能を持つ貴重な人材です。『施設が統合、不要になったから来年から来なくていい』と切り捨てるのは、我が市の人的資本に対する著しい軽視に他なりません」
古川は言葉に熱を込めず、しかし論理の隙を与えない淡々としたトーンで議員たちを見回した。
「よくお考えいただきたい。例えば従来の美術展示施設において、『なぜこの絵画が歴史的に評価されているか』をパネルで補足説明するだけでは、観覧客は単に知識を頭に入れて帰るだけです。その体験を経た後に、実際に自ら筆を執り、絵を描いてみようという行動に繋がらなければ、数百万円の絵画と専門の学芸員を配置し続ける価値などありません。市議の皆様が仰る『地域の文化促進』を本気で目指すのであれば、観覧施設ではなく『本格的な絵画教室・実習所』を設置すべきかと、専門外ながら愚考いたします」
自らぶち上げた「箱モノ施設の大幅縮小」で発生する世論の批判や人員整理の痛みを、自らの手で代替案を出すことで埋めていく。
議会内の反対派議員や外部の知識人からの「文化を切り捨てる冷酷な市長」という攻撃の論点を、完全に先回りして潰す一手であった。
懐疑派の議員たちは、手元の資料を握りしめながら腹の中で悪態をついた。
(どうせ俺たちが反論するツボを最初から潰すために、こんな仕掛けを用意したんだろ……?)
そして、その直感は完全に正解であった。
古川市長も、その背後にいる政党・れんごうも、この「芸術実習所」が100%大成功するなどとは最初から思っていない。仮に市民が集まらず失敗に終わったとしても、彼らにとっては「どうでもいい」レベルの事象に過ぎないのだ。
やってみてダメなら、それもまた貴重な「社会実験データ」となる。「公立文化施設の人員再配置と、存在意義の再定義における失敗パターン」として、そのまま連合の中枢サーバーへとデータが吸い上げられるだけに過ぎない。
さらに、古川は追撃の手を緩めなかった。
「そして今回の実習所には、従来の学芸員の方々に加え、政党・れんごうを通じて外部から『サブカルチャー分野の専門講師』も招聘できる手筈が整っております」
古川の言う「サブカル講師」とは、連合傘下のL不動産が運営する低価格賃貸アパート群に、一種のコミュニティ単位で独自審査基準にて囲い込んでいる低信用属性の若手・中堅のアニメーター、漫画家、イラストレーター、小説家といったクリエイター陣のことであった。
手が空いているアパート群の住人に対し、市からの正式な業務委託として仕事を発注し、講師として出張させる。敷居の高いクラシックな油彩画や彫刻の技法だけでなく、国が国家戦略として必死に縋りついている『クールジャパン戦略』の最前線であるアニメ・コミック技法の体験講座もラインナップに組み込むのだ。もちろん利益誘導のイチャモンを回避するために、L不動産関係以外のクリエーターにも声を掛ける方針だ。だが、果たして『あの住人たちほど実戦を積み、かつ手が空いているクリエーター』を、そう簡単に何か月分ものスケジュールをまとめて押さえられるだろうか・・・?
なお、それら講座の費用は市営であり地元住民向けのサービスであるため、専門教室など相手にならない低価格設定がされている。
市長選挙のときと全く同じ構造であった。
「勝っても負けても、データが得られるからそれでいい」という強固な二重底をあらかじめ構築した上で、データを採取する以上は精度を高めるために『手抜きは一切しない』。
それは連合が『経営学研究所』と呼ばれる気質によるものである。
この徹底的なロジックの前に、「大幅縮小による人員削減」と「地方文化の後退」という2大攻撃口を完全に奪われた反対派議員たちの多くは折れ、計画は賛成多数で可決されることとなった。
市の決定が可決されてから2週間後。地元紙や大手ネットニュースで、この青森市の『文化施設再編と予算再分配』が大きく報じられた。
今回の施策は、先の電気料金還元のように「住民の口座に直接現金が振り込まれる」といった分かりやすい利益還元ではない。
施設縮小と郊外移転によって削減された年間数億円の運営維持費は、一部は新設される『一般市民向け芸術実習講座』の運営スキームに充てられ、そして残りの大部分は『冬期の除雪作業予算』へと直接割り当てられることになったのだ。
実のところ、この「削減予算を除雪費へ割り当てる」という着地点に至るまでには、れんごう内部および市幹部との間で激しい議論が巻き起こっていた。
近年の地球温暖化と気候変動の影響により、夏から秋にかけて発生する線状降水帯は大雨をもたらし、道路の冠水はもちろん、酷いケースでは市内の特定区域が丸ごと水没する「都市型洪水・氾濫」が恒常化して久しい。
そのため庁内では、「雪対策よりも、緊急性の高い豪雨・雨水対策の排水インフラ建設に予算を投じるべきだ」という強い反論が持ち上がっていたのだった。
これには流石のれんごう幹部たちも頭を抱えた。
豪雨被害も豪雪被害も、どちらも市民生活や物流を直接麻痺させる重大なリスクであり、被害の深刻度を細かく分解していっても甲乙がつけがたいからだ。
「れんごうと連合の採算度外視の本気」を使って良いのなら数億円と言わず数十億円、あるいはさらに突っ込んで両方の対策を完遂するだろう。しかし、今回はあくまで「青森市という一自治体が単年度で自由に使える余剰予算の範囲内」という冷酷な枠組みが存在する。
両方の対策に予算を中途半端に半分ずつ分け合えば、豪雨対策も除雪対策もどちらも消化不良に終わり、市民のリスクは何も減らない。
「ならば、どちらか片方に全額を集中投入する」
そこまでは一瞬で決まった。問題は、「では、どちらを切って、どちらを取るか?」という極限の選択であった。
オンライン会議の画面越しに、れんごう幹部と古川市長の詰めの協議が行われた。
「物理的な被害の質においては、大雨も豪雪も甲乙つけがたい。そして未然対策と言っても、上空の巨大な雨雲や雪雲の発生そのものを止める技術は存在しない以上、どちらも『地上に降ってきてからどう処理するか』という事後対応にならざるを得ないのは共通しています。……だが、その『処理にかかる物理的コスト』には致命的な構造の差があります」
れんごう側の分析担当者が、画面上に数式とインフラ試算データを提示しながら静かに語りかけた。
「雨水の本質は『流体(水)』です。これを短時間で対策しようとすれば、街の地下深くに巨大な地下貯留施設を掘るか、超大型の排水ポンプステーションを複数箇所に新設するほかありません。数時間の局地的大雨を捌くインフラとなると、数億円程度の予算など一瞬で霧散し、工事は何年もかかります。投資対効果が極めて悪すぎる」
「……対して『雪』は、個体の堆積物です」
古川市長がその意図を汲み取り、引き継ぐように頷いた。
「雪であれば、数億円の追加予算で高性能な除雪車を増車し、オペレーターの増員と夜間シフトの手当てを拡張するだけで、翌朝の都市機能の麻痺を直接かつ劇的に和らげることができる。……投入した一円あたりの『機能維持スペパ(スペース・パフォーマンス)』において、比較になりませんね」
「その通りです。大量の水の一括排水という巨額インフラは、数億円レベルの予算で手を出すべき領域ではない。できないものは、最初からできないと割り切るべきです」
『できることは徹底的にやるが、できないことは端からやらない』
こうして『れんごう』と古川が導き出したこの冷徹な行動理念に基づき、浮いた予算は全額「除雪作業の徹底強化」へと一元集中されることになった。
大雨による一時的な冠水のリスクは「起きても諦めてもらう(事後補償で対応する)」と割り切り、冬場の数ヶ月間にわたって確実に市民生活と経済活動の足を引っ張る「降雪による都市麻痺」を力技で封じ込めにかかる。
目先の「文化の街」という格好のついた名誉を捨て、実利と物理的効率のみを研ぎ澄ませた青森市の行政改革は、周囲の困惑を置き去りにしたまま、狂いなく次のフェーズへと加速していくのだった。