2053年 6月 東京 霞が関 厚生労働省
「……青森市内の通報が、ここ最近明らかに増加傾向だな」
厚生労働省の労働基準局。そのデスクの上には、青森労働基準監督署経由で上がってきた膨大な通報ファイルの山が積み上がっていた。
差出人は、連合傘下の総合人材企業『J社』の派遣・人材管理部門。
そこに添付されているのは、単なる精神論や噂話ではない。『派遣後あるいは正規就労後に、企業側がJ社へ提示・申請してきた労働条件に明白に反している実態』を示す、ぐうの音も出ないほど精密な物理証拠の数々であった。
「もともと連合傘下の企業は、サプライチェーンの監査に堂々と覆面調査や隠密調査を平気で投入してくる連中だ。そんな相手に、地方の中堅企業がよくやる“求人票の盛った数字”なんぞが通用するはずもない……」
「改めて思うのですが、敷地内にプレハブ持ち込んで社員の流れを監視したり、記録方法アドバイスしたりするのってもはや隠密調査ってレベルなんでしょうか・・・『堂々と隠密調査』も矛盾してません?」
ある官僚がジョークを言う。
例えば、求人票に記載された年収表記。
当然、最終的にどのような技術レベルや適性を備えた人材が採用されるかは未定であるため、年収提示に一定の幅(レンジ)を持たせること自体は、世間一般の慣習としても、J社の規約としても当然認められている。
しかし、J社から提出された通報ファイルには、入社した労働者への定期的追跡調査によって回収された「給与明細の原本コピー」という名の逃げ場のない物的証拠が添えられていた。
『年収400万円〜600万円(能力・経験に応ず)』と提示しておきながら、実際の採用後の提示額は350万円。さらに3年が経過した時点でも366万円――。
四捨五入すれば確かに「400万円」の範囲内と言えなくもない。だが、J社の監査システムはそれを容赦なく『不正・虚偽記載』と判定した。
当然、あの冷徹な連合が、単なるデータ上の数字の表面だけを見て早とちりするようなヘボな真似はしない。
その労働者が入社後に工程管理システムの社内研修を修了し、設備保全の国家資格を取得していること、さらには勤怠態度にも一切の怠慢が見られないという客観的評価データまで、寸分違わずセットで提出してきているのだ。
……そして、これはまだ「マシな部類」であった。
最悪なケースになると、厚労省の定める労働基準法や最低賃金法のNGライン(違法ライン)に直接抵触するレベルの実態が、既に青森市内だけで62事業所もずらりと並んでいたのだ。
さらにファイルには、匿名処理された被害労働者たちの生のコメントまでがびっしりと添えられていた。
それが一層、現地の労基署職員と霞が関の官僚たちの胸に鋭く突き刺さる。
『これまでは証拠が足りないと言われて労基署に相手にしてもらえませんでしたが、J社さんの手厚いアフターフォローとデータ収集のおかげで、今回初めてうちの会社のエグい実態を受理してもらえました!』
このような感謝と告発のコメントが、100件以上も整然と並んでいるのだ。
「……なぜこんな事態になった?」
官僚も労基署の現場職員も、その背景にある真の存在へと思いを巡らせずにはいられなかった。
――あの『政党・れんごう』と、彼らが擁立した古川市長の存在である。
J社との派遣契約の他にも、青森市が何か法的に完璧な正当性のある口実を作り出し、現場ヒアリングやデータ追跡を仕掛けて、不法な労働環境を片っ端からあぶり出したとしか思えない。
「どうする……? これ、J社がどうやってここまで精密な内部証拠を収集したのか、調査手法が書かれていない部分も多いぞ。『不当に採取された違法な証拠』として突っぱねませんか……?」
若手官僚が恐る恐る口にすると、向かいのベテラン官僚が呆れたように失笑した。
「お前、冗談でもそんな恐ろしいこと口にするなよ……。そんなことしてみろ、その後のシナリオが目に見えるようだろ……」
答えた官僚の脳裏には、厚労省がこの通報を握り潰したり突っぱねたりした後に訪れる悪夢のような展開が、いくつも浮かんでいた。
すぐに浮かんだのは、J社が自社のメディアやネット上で全データを公表し、「厚労省と地元の労基署は企業の違法行為を知りながら放置した」と告発する未来。そうなれば行きつく先は『厚労省や労基署なんかより、J社の注意勧告リストが一番信頼できる。』という求職者や転職活動者たちの大量発生・・・。
厚生労働省にとって破滅的であり、結果として連合の社会的影響力をさらに増大させるものばかりであった。
「まあ、現地の労基署が受理する際に、毎度毎度J社に『これ、どうやって調べたんですか?』と探を入れているらしいんだが、J社側は絶対に明かさないそうだ。『あなたたちに教えたら、事前に対策されて不法行為が潜伏化するでしょ?』って言われて終わりだそうだ」
「……それ、『対策する』の主語はどれなんだよ? 違反企業が、か? それとも……労基署や厚労省が、か?」
重苦しい沈黙が落ちかける中、主任がパンと手を叩き、声を張り上げた。
「どの道、私たち行政は規則通りに動くしかない。提出された動かぬ証拠を対象の事業所に突き付けて事実確認を行い、違反が認められれば速やかに行政指導を出す。それだけだ」
「はぁ……結局、今回もまた連合の『手柄』の後処理を私たちがさせられるわけですか……」
主任は重い足取りで会議室を出ると、自分のデスクに戻り、PC画面に表示された青森市のマップを眺めながら、この事態がもたらす「本当の影響」について静かに思考を巡らせた。
(この通報データ……仮に行政側で正式に受理されようが不発に終わろうが、おそらくJ社にとっても連合にとっても『どうでもいい』のだろうな。派遣社員や紹介人材に対するここまでの異常なアフターフォロー自体、既存の人材派遣会社のビジネスモデルとは一線を画している……)
一般的な人材派遣会社であっても、派遣先の企業は大切な「顧客(クライアント)」である。
たとえ定期訪問で派遣社員の様子を見に行く名目であっても、企業側から「現場に問題はないです」と言われれば、それ以上深く踏み込めるものではない。
たとえ求人票の条件から外れた不当な待遇やサービス残業が横行していようとも、被雇用者本人からの明確な申告と証拠がなければ行政は動けないし、仮に申告があったとしても、会社側は法務や人事の論理でいくらでも揉み消すことができる。なにせ企業という密室空間の中で行われることであり、すべての権限と評価権を会社側が握っているのだから。
(――だが、だからこそ、J社のこの狂気的なアフターフォロー(追跡監視)が強烈な武器として光るんだ)
既存の人材企業が「構造上仕方がない」と諦めて放置してきた企業と求職者の情報非対称性を、連合は自前の追跡データと法務能力で完全に粉砕してみせた。
これは、就職や転職に不安を抱く求職者層に対し、「J社を通せばブラック企業に引っかかっても確実に救済される」という圧倒的な差別化アピール(強み)となる。
(……待てよ。なぜ、これが今『青森市内』だけで集中的に起きているんだ……?)
この地域的な偏りに思い至った時、主任の背筋に冷たいものが走った。
これが単なる一企業(J社)の差別化戦略などという生ぬるいものではなく、もっと巨大な政治的・社会的グランドデザインの一部であるという構造が見えてきたからだ。
(もし……厚労省の行政指導やJ社の告発によって、青森市内の労働環境が全国で最もクリーンで嘘のない『白く安全な街』になっていったらどうなる?
当然、労働者や若者は全国から青森市へとなだれ込む。そして『街をクリーンに変えた』として、連合と関係のある古川市長や『政党・れんごう』の評価は決定的なものになる。
そうなれば……求人難と人口流出に悩む他の地方自治体が、自ら進んで『れんごうの首長や知事』を招き入れる流れが加速するんじゃないか……?)
既存の政財界が何十年も放置してきた『労働環境の暗黙の悪しき慣習(ブラック労働)』の、制度とデータによる完全なる破壊――。
「……まさかな」
主任は頭を振り、自らの恐ろしい推測を打ち消そうとした。
だが、これまでにあの『連合』という怪物が日本各地で巻き起こしてきた非情なまでの合理化と社会デバッグの歴史を振り返れば……それは決して絵空事などではなく、あまりにも現実味を帯びた「確定した未来」のように思えてならなかった。