2053年 9月 青森県 青森市 青森市役所
本州最北の地すら酷暑に包まれた2053年の夏。
アスファルトからは陽炎が立ち上り、住宅地や繁華街のあちこちから、フル稼働するエアコンの室外機が吐き出す不快な熱気が街全体の空気を揺らしていた。
そんな猛暑の最中、青森市議会の本会議場において、古川市長は静かに、しかし議場全体を氷つかせる「爆弾」を投げかけた。
「――市長の古川です。議員の皆様におかれましては、昨今の我が青森市内の事業者において、雇用市場における『地域信用崩壊』にも繋がりかねない重大な事態が進行……いえ、既に発覚している事実をご存じでしょうか?」
壇上の古川が示したスライドと、手元に配られた資料を目にした議員たちの顔が一斉に曇った。
そこに並んでいたのは、連合傘下の総合人材企業『J社』が独自に摘発した、青森市内事業者による「求人票詐称・条件不履行リスト」の第一表であった。
これらに対して労基署側は、「あくまで民間企業であるJ社独自の契約基準・社内規定における不正の指摘ですので……」と受け取りを留保し、行政指導の着手を先送りにしていた案件たちであった。
……だが、その横に添えられた、もう一冊の「より分厚い資料(第二表)」を目にした瞬間、議員たちの背筋に冷や汗が流れた。
そこには、労基署の言い逃れすら一切許されないレベルの、あからさまな労働基準法違反案件(サービス残業の強制、タイムカード改ざん、危険業務への不当配置など)が「62件」もズラリと並んでいたのだ。しかも、その全案件のステータスには『青森労働基準監督署対応中(正式受理済)』の刻印が押されていた。
議場を埋める議員たちの苦々しい表情には、それぞれの立場による複雑な事情が入り混じっていた。
人道派や地域経済の推進派を自任する議員たちは、
(せっかく連合・B社の工場誘致から始まり、25年かけて衰退の途からV字回復を遂げた『先進都市・青森』の看板に、これほど決定的な泥が塗られるとは……)
と心から頭を抱えていた。
しかし、一部の利権系議員や地元企業と密接に繋がる者たちは、まったく別の次元の恐怖で顔を青ざめさせていた。
自分たちが裏で「袖の下」や政治献金を受け取っている地元の建設業者や士業たち、小売り業者などの名がそのリストにしっかりと記載されていたからだ。
冷血無比であり、今や永田町や霞が関の政府高官すらご機嫌を伺うほどの巨大な存在となった「連合」、そしてその政治部門である「政党・れんごう」によって、これからどのような容赦のないお仕置き(制裁)が下されるのか――彼らは己の身の破滅を予感して慄いていたのである。
「厚生労働省へ本件について照会を行いましたが、なにぶん62件もの明白な違法疑い案件が一気に持ち込まれたため、行政指導や是正勧告の具体的なスケジュールすら提示できない状態です。労基署としても、どの事業所から手をつけるべきか苦慮しているとのことでした」
古川の冷徹な報告を聞きながら、議員たちの頭には一つの根本的な疑問が渦巻いていた。
(……なぜだ? なぜ連合は、自分たちが手塩にかけて育て上げた『青森市』を、わざわざ悪者にして叩くような真似をするんだ……?)
25年前、B社の巨大メモリ工場を東の山奥に建設して以降、連合はこの青森の地に莫大な雇用とインフラ、そして『日本総合職業専門スクール・青森校』という半導体工場運営専門の高度な教育拠点をもたらしてきた。
さらに近年では、全国から羨望の眼差しで見られる青森市限定の「青森市電気料金特別支援金制度」を確立し、無駄な公的施設をバッサリ切る「戦略的ハコモノ削減」を断行。メディアやSNSも、珍しく与野党問わず青森市を『日本で最も先進的な自律型自治体』として大絶賛していたのだ。
表立って「我々は連合である」などとは名乗らないものの、J社が連合の発足当初からのコアメンバー企業であることなど、市民であれば誰もが知る常識である。
自分たちが膨大な時間と資金を投じて築き上げた至高の功績(ブランド)を、なぜ自分たちの手で傷つけ、台無しにするような真似をするのか――既存の政治家の常識では、その意図が何一つ理解できなかったのだ。
困惑する議員たちを前に、古川市長は淡々とした調子で言葉を続けた。
「第一表に記載されたJ社の求人基準違反リストにつきましては、引き続き労働基準監督署の判断を仰ぐ形といたします。……しかし、厚生労働省および労基署が正式に違反疑いとして受理し、すでに調査に動き出している『第二表の62事業所』に関しましては、我が青森市としても行政として独自の対応が必要であると判断いたしました」
その瞬間、議場内の空気がピキリと凍りついた。
『対応』――その短い二文字が意味する重みを、全員が察したからだ。
既存の生ぬるい市長であれば、「事実関係を遺憾に思い、該当企業へ厳重注意の電話を入れる」程度で終わるだろう。しかし、背後に連合を背負うこの女性市長が、そんなポーズだけのパフォーマンスで済ませるはずがない。
彼女たちは、必ず相手の骨を断つ物理的な「痛み」を伴うカードを切ってくるのだ。
「――現在、我が市で運用されております『青森市電気料金特別支援金制度』ですが……この第二表に記載された62の事業所に限り、来年度分からの還付支援金の支給を『全面的に保留』いたします」
「な……ッ!?」
どよめきが、波のように議場全体へ広がった。
「本制度は、市民の皆様の生活および健全な事業活動を支えるため、公平なる福祉の理念の下に制定されたものであります。労働基準法という国家の根本法規を侵し、働く人間を不当に搾取している疑いのある事業所にまで、我が市の誇る電気代削減の恩恵を行き渡らせることは、著しく正義に反すると考えます」
古川はスライドを指し示しながら、淡々と事務的な説明を重ねる。
「当然ながら、厚生労働省および労基署による調査の結果、『行政指導なし(白)』と正式に判定された事業者様に関しましては、保留されていた還付支援金を即日、指定口座へ全額お振り込みいたします。しかし……『是正勧告および行政指導あり(黒)』と判定された場合は、更生が確認されるまで支払いを永久に保留とさせていただきます」
行政指導を受け、過去の未払い残業代を全額支払って労働環境をクリーンに改めれば、再び支援金を受け取る権利が得られる。
それは、市が所有する最強のインフラカードを武器にした、冷酷極まりない『自治体独自のエコノミック・サンクション(経済制裁)』であった。
「待ってください! 一民間企業(J社)の言い分や通報を鵜呑みにして、市が一方的に支援金を打ち切るなどという暴挙、法的に許されるわけがないでしょう!」
利権系議員の筆頭である川原議員が、椅子を蹴る勢いで立ち上がり、顔を真っ赤にして怒号を上げた。
だが、古川市長は顔色ひとつ変えずに、射ぬくような視線を川原へ向けた。
「川原議員、誤解のないよう申し上げますが、保留対象となるのはあくまで『第二表の企業』です。たしかに最初の端緒となるデータ・証拠を提出したのは民間企業であるJ社ですが、それを検分し、労働基準法違反の疑い濃厚として正式に調査を受理したのは、行政機関である厚生労働省および青森労働基準監督署です。判断を下したのは民間企業ではありません」
「それでもだ! 確定判決も出ない段階で経済的ペナルティを課すなど、行政の逸脱だ!」
「……では、どこに法的な問題があるとおっしゃるのですか?」
古川は眉ひとつ動かさず、冷ややかに問い返した。
「別に我が市は、国や県から降りてくる税金を財源とした公的な支援金を止めるわけではありません。……民生委員の個人の主観や曖昧な判断基準に頼るところの大きい生活保護の支給可否判定などに比べれば、国の行政機関の正式受理をトリガーとする我が市の保留措置の方が、遥かに客観的で公平な判定プロセスだと自負しておりますが?」
「そ、それが法的に許されるものなのかと聞いているんだ!」
今度は別の梅田議員が、悲鳴に近い声を上げた。
「……梅田議員が抱かれているその懸念につきましては、実は私どもも事前に深く検討しております。現在、念のため法務省へ見解を確認中(照会中)でございます」
古川のその回答を聞いた瞬間、ベテラン議員たちは頭を抱えて力なく座り込んだ。
(ダメだ……勝ち目がない……! いくら法務省の優秀な官僚であっても、この青森市の電気代支援スキームに対して『違法だから止めろ』という行政指導など出せるはずがないんだ……!)
なぜなら、この「青森市電気料金特別支援金制度」という巨大なエコシステムは――国、県、市、どの血税たりとも、ただの『1円』すら財源にしていないからだ。
この制度の原資となっているのは、民間企業である連合・B社が自前の巨大な購買力(スケールメリット)を中心として使い、電力卸市場から勝ち取った大口割引の枠と、それを法的に防衛する連合弁護団の知財力そのものなのだ。
もし国や法務省が「民間企業と自治体が自前でやっている電気代還元を、特定の違反企業に対して止めさせるのは不当だ」などと口を出して差し止めようものなら、それは政府が民間の善意と自己資金による支援活動に対し、法的な根拠もなく不当に介入し、その経済的価値を国家の都合で強奪する「ネコババ行為(私有財産の侵害)」になってしまう恐れがある。
そして、それを認めれば『助ければ損をするどころか、永続的に出費する義務と悪徳企業支援の汚名まで背負わされる』と受け取られかねない・・・当然、社会的なインセンティブは『行政を助けると損』に偏ることになる・・・
「できることはやるが、できないことはやらない」
「ルールを守る者には圧倒的な実利を、ルールを破る搾取者には一切の妥協なきペナルティを」
猛暑の青森市議会で放たれた古川市長の決定打は、これまで「ブラック労働」をなあなあで野放しにしてきた地方の旧態依然とした事業者たちを、底なしの恐怖へと突き落としていくのだった。