同月 東京 霞が関 法務省
法務省の特別審議会室では、連日にわたって緊迫した非公開の審議が重ねられていた。
本来であれば、一地方都市である青森市のローカルな補助金運用ルールに過ぎない案件である。中央省庁の法務官僚たちがこれほど長期間にわたって議論を長引かせる理由など本来ならどこにも存在しないはずだった。
しかし――『背後にあの連合が関わっている』というその一点だけで、案件の政治的・社会的重圧は天へと跳ね上がっていた。
さらにこの案件は、地方自治の本旨である『自治体の自主性と自立の意欲を中央政府が不当に削ぐ可能性』まで孕んでいる。ゆえに、既存の官僚たちが得意とする「慎重に慎重を重ねて静観する」といういつものお決まりの対応など、到底許されなかった。
慎重という名の重金属で厳重にコーティングし、緻密な法理という飾付けを施さなければ、一瞬で国家行政の側が爆破されかねない危険物だったのである。
「……本制度は、飽くまで地方自治法および関係法令に基づく地方自治体の公正な補助金制度だ。……ならば、憲法および行政法が定める『平等原則(公正な適用の原則)』から照らして、市による一方的な保留・打ち切り措置は不当であり、行政指導として否認(不承認)するのが手続上の定石だろう……」
審議会のテーブルを囲む参与の弁護士が、ぽつりと漏らした。
そう――法の条文と前例だけを机上で追うならば、この一言ですべての決着がつくはずであった。だが……。
「問題は……あの『連合』が、自らわざわざ我が省へお伺い(照会)を立ててきたという事実そのものが、異常極まりなく不審だということですね……」
若手官僚の問いかけに、法務省大臣官房の審議官が重い口を開いた。
「過去の経緯を思い出すとそうだな。連中はこれまで、政府や省庁の言い分なんぞハナから聞く耳を持たず、法律や行政ルールの文章を言葉通りに自分たちの都合で解釈し、冷酷に実行に移してきた。……そんな奴らがだ、地方自治制度の文面を読めば、今回の青森市による『経済制裁染みた給付停止』が法的に極めてグレー、あるいはNG判定を受けることくらい、ハナから分かっていたはずだ」
「……分かっていたからこそ、あえて我が省へボールを投げてきた、と?」
「そういうことだ。よく考えてみろ。青森市と連合は『労働者を不当に搾取する違法な事業者へペナルティを下そう』とした。それに対して我が省が『法的に不当だから止めろ』と差し止める……。この構図が表に出た時、どうなる?」
「……政府を『違法企業の味方をする悪者』に仕立て上げようという魂胆ですか?」
「ふっ……それで済めば、どれほど楽か」
審議官は自嘲気味に息を吐いた。
「私もかつて、連合案件で我が省の優秀な上司たちが次々とロジックで叩きのめされ、青ざめていくのを現場で嫌というほど見てきた。だからこそ断言できる。連中の狙いは、そんな子供じみた、チャチな政治的パフォーマンスなどでは絶対にない」
もし、法務省が法の原則通りに青森市の保留措置を「否認」すれば、一体何が起きるか?
間違いなく、国民世論は強烈な『理不尽』と『憤怒』を抱くことになる。
労働基準法を平然と破り、労働者を不当に買い叩いておきながら、ただ『青森市に登記がある』というだけで電気代の還元という公的恩恵を享受し続けるブラック企業。
一方で、真面目に労働環境を守り、コンプライアンスを徹底しているにもかかわらず、たまたま青森市外に拠点があるというだけで通常通りの高額な電気代を払わされ、厳しい経営を強いられる真っ当な企業。
法務省の判定としては「合法かつ正当な行政判断」であったとしても、国民の感情としては、それは国家が不当な搾取者を庇い立てする「超巨大な不満爆弾」へと一瞬で化けてしまうのだ。しかもその怒りは、感情的な一般市民や個人事業主だけでなく、コンプライアンスを遵守して真面目に税金を納めている理性的なはずの大企業の経営陣にまで波及する。
……かといって、国民の感情に流されて「今回の青森市の特例措置を認める」という判断を下せば、今度は行政法の根幹を支える境界線が完全に決壊する。
全国の自治体から『あの時、青森市の独自制裁を認めたじゃないか』という際限なき特例要求の嵐が霞が関へ押し寄せることになるのだ。法務省としては、それもまた死んでも避けなければならない致命的な最悪の選択であった。
となると――八方塞がりの状況下で、彼らに残された唯一の道筋は……。
「……否認(不承認)とする。……ただし、その否認理由の説明文書は、一分の隙もないよう極めて慎重に作成してくれ」
「……承知いたしました。相手はあの『連合』ですからね……」
担当の法務官僚が、痛む胃を抱えるようにして深く頷いた。
『――労働基準法その他の労働法令違反に対しては、司法の場および管轄行政機関(労働基準監督署等)において、法に定められた正当な手続に基づき制裁が科されるべきものである。しかるに、自治体独自による補助金の選択的給付停止措置は、実質的な“私刑(リンチ)”に極めて近い行政権の濫用と言わざるを得ず、法秩序の観点から認めることはできない――』
要約すれば、たったこれだけの数行の論理に過ぎない。
しかし、担当官僚たちはこの文章を、官僚文学の粋をフル稼働させ、何重ものオブラートと難解な法律用語と文法で包み込んで隠蔽しようと必死になっていた。
キーボードを叩く担当官僚の指は恐怖で細かく震え、文書案をチェックする課長と局長の心臓は、眼球に刻まれる文章が1行進むごとに破裂せんばかりに跳ね上がっていた。
「一私企業、あるいは特定の政治勢力を特別扱いすることはない」と普段は高らかに謳っている政府・霞が関であったが、今や『連合』という巨大な怪物システムは、日本の物流、医療・看護、介護福祉、小売り・流通、汎用半導体、食品、精密機械加工、人材派遣・教育などといったあらゆる基幹産業において、実質的な国内トップシェア、あるいは代替不能な社会インフラ(プラットフォーマー)へと君臨してしまっていたのだ。
その上、あの怪物たちの不気味な習性――。
今回、法務省が出すこの見解文書に対し、連合の中枢(AIと法務陣)が一体どのような歪んだ解釈を施し、それをテコにして今度は日本社会のどのシステムにどんな恐ろしい副作用(バグ)を叩き込んでくるのか、霞が関の誰一人として予測することすらできなかったからである。
これこそが法務省上層部が真に恐れている要素であった。
「……局長、これで文書の叩き台が完成しました」
「……そうか。すぐにウチに加えて文科省、厚労省、総務省の官房長へ回せ。……我々だけでこの爆弾を抱え込むわけにはいかん」
北の城下町・青森で始まった一自治体の「過激な労働環境浄化」と「経済制裁」。
その波紋は、法律という名の盾を掲げて逃げ切りを図る中央省庁の足元を、静かに、しかし確実に侵食し始めていた。