同月 東京 霞が関 警察庁
秋の気配が混じり始めた夕刻。警視庁本庁舎の8階にある小さな休憩室で、缶コーヒーのプルトップを開ける音が静かに響いた。
中にいたのは、公安部に所属する大川(おおかわ)課長と、サイバー犯罪捜査課の辻(つじ)係長の二人であった。
かつて、野放しになっていた隙に巨大化していった24社連合を監視・追跡していた省庁横断若手官僚チーム『バグ・ハンター』。
チームが解散してすでに長い年月が経過していたが、その元メンバーたちは現在も警察庁、総務省、厚生労働省といった霞が関の主要官庁にそれぞれ戻り、相変わらず「連合」が絡む複雑極まりない案件が発生するたびに現場へと駆り出されていた。
そして駆り出されるたびに、彼らの中で「連合という異形の組織の思想」と「彼らのアルゴリズムから導き出される行動パターン」を解読する能力がさらに研ぎ澄まされ、結果として各省庁の幹部たちから一層頼られて離れられなくなるという、不気味な循環が完成していたのである。
当然、今回「青森市の経済制裁案」で大揺れに揺れていた法務省の中にも、バグ・ハンター出身の優秀な担当官僚が一人存在していた。
……しかしあいにくと、その人物は数ヶ月前に法務省を辞職(ドロップアウト)してしまっていたのだ。
彼の転職先は、わざわざ聞くまでもなく決まっていた。
――『連合企業』である。
「連合流のマニュアル思想」と「連合流の改善方法の思想」を20年近くも霞が関で解読し続けてきた男だ。連合の側がそんな最高峰の人材を拒む理由など、最初からどこにも存在するはずがなかった。
『――大川さん。長年本当にお世話になって、申し訳ないです。俺……あっち(連合)に行くことにしました』
『……そうか。君とご家族が熟慮して決めた人生だ。君たちが決めたなら、俺から文句なんて何一つ無いさ。……なに、あいつらは別に反社会的勢力(暴力団)や非合法組織ってわけでもないんだからな』
大川の脳裏に、法務省を去っていった元メンバーとの最後の別れの場面が鮮明に蘇る。
互いの連絡先は知っているため、会おうと思えばいつでも居酒屋で酒を汲み交わすことくらいは可能だ。
だが……警察庁・公安部と、巨大な影の帝国「連合」。両者の間に敷かれた警戒レベルは、現在も最高レベルの警戒態勢のまま維持されていた。いや、「最高レベル」などという生ぬるい言葉では表現しきれないほどの緊張感であった。
しかし――その警戒は、決して連合を『国家を狙うテロ組織』として恐れているからではなかった。
『民間の分で、国家機能や行政組織よりも遥かに高速で実利を国にもたらすから』という、国家のプライドからすればあまりにも理不尽で屈辱的な理由からであった。
「……そんなわけでね、辻くん。連合と20年近く渡り合ってきた生粋のスペシャリストを法務省が土壇場で失ったために、あいつらは今回、暗闇の中で右往左往するハメになったというわけさ」
大川が苦笑しながら缶コーヒーを一口すすると、辻は苦笑いを返した。
「そうですか……。ですが大川さん、引き継ぎ資料とかでノウハウを下に残さなかったんですかね?」
「ははは、辻くん。君も警察に来て長いというのに、まだ『連合人』のドライな癖が抜けていないな。……法務省の上層部からすれば、『そんな無駄な書類を作っている時間があるなら、日々の通常業務をこなせ』って話になるだろ?」
当然、法務省とて国家の一大組織であり、業務引き継ぎの重要性くらいは重々理解している。
だからこそ、件の官僚が退職する直前、『1週間の引き継ぎ書類作成期間と、毎日1時間の引き継ぎ要員向け説明会』という、行政手続としては完璧に整えられた枠組みを用意していたのだ。
だが、大川も辻も、それを聞いて腹の中で失笑せざるを得なかった。
(――たった1週間の書類と毎日1時間のレクチャー程度で、あいつが20年かけて肌で培ってきた『連合案件に対する直感と属人的感覚』を完コピして引き継げってか? 霞が関の偉いさんは正気か?)……と。
そう思っても、一度決まったマニュアル通りにしか組織が動かないのが「お役所」でもあり「普通の会社」という組織の宿命であった。
「で、今回の青森市と連合の動きだが……法務省に『独自制裁(給付停止)は私刑にあたるからNGだ』と否認されることは、連合は最初から織り込んで“次のシナリオ”を用意しているんだろう?」
「そうですね。いつの段階でその不落のシナリオをコード化したのかは不明なことが多いですが……今回の件に関しては、おそらく一番最初の段階から手元に準備していたはずですね。」
辻が缶コーヒーを握りつぶしそうになりながら呟く。
「狙いは大体想像はつくが……まさかあの電気代削減制度で自治体が自分のところの事業所を経済制裁するなんて前代未聞だな。これはさすがに想像がつかなかったな……」
連合の真の狙い。
それはどこまで行っても、彼らの結成以来の経営原則である『非効率と不合理の徹底デバッグ』に他ならない。
一見すると、J社や政党・れんごうは「地方のブラック企業による搾取を絶対に許さない!」と熱弁を振るう人道主義者のように見えるかもしれない。だが、厳密に言えばその認識は間違っている。
「連合が毛嫌いして排除しようとしている『ブラック労働』とは……今回青森市で大量に発覚したような、求人票で嘘をつき、タイムカードを改ざんし、労働基準法を直接踏みにじるレベルの『明白な不法行為』のことだ」
「ええ。法律を破っている以上、そこは国や労基署としても正式に裁判で裁く方向へ動かざるを得ません」
「だがな……だからと言って、あいつらは『すべての労働者の賃金を一律に引き上げろ』とか『非正規雇用を根絶して全員正社員にしろ』なんていう、国民労働党の議員みたいな甘い理想論(夢物語)は一切口にしていないだろ?」
「その通りですね」
辻は深く頷き、大川の補足をする。
「つまり……法(コンプライアンス)の枠内に収まっている範囲であるならば、世間一般で言われる『低賃金で過酷な労働環境』そのものは、連合もJ社も完全に肯定・許容しているんです。『会社と求職者の双方が、条件を納得した上で合意した』のであれば、それは法的に立派で正当な契約ですから」
『求人票に記載された条件と契約内容を、会社側は絶対に履行すること』『もし途中で条件や業務内容に変更が生じるならば、隠れてごまかさず、正規の手続きで条件を提示し直すこと』
連合とJ社が企業側に求めている条件をたった一言で要約するならば、この極めてシンプルな2点に集約されるのだ。
実際に、J社の求人サイトを開いてみれば、その冷徹な現実が一目で理解できる。
そこには『年収240万円・完全昇給なしの事務職』や、『年収180万円・週3日の単純作業のみ工場非正規案件』といった、世間一般の基準から見れば決して恵まれているとは言えない求人情報が、何の問題もなく平然と並んでいるのだ。
「『安く買い叩くなら、最初から買い叩くと堂々と明記しろ。その代わり、綺麗な嘘の求人で求職者を騙して引きずり込む卑怯者(バグ)だけは絶対に許さない』……か」
大川は天井を見上げ、静かに呟いた。
「……なるほどな。あいつが法務省を捨てて、連合の『J社』へ転職した本当の理由が、分かった気がするよ」
国や既存の政治が何十年も「経済への配慮」を理由に手をつけることができずに放置してきた労働市場の大改革。そこに超巨大なナタを振り回し、圧倒的なデータと法務能力で突き進んでいける狂気と肝っ玉を持つJ社。
かつて刑務所の出所者や生活困窮者を独自のシステムで再教育し、本当の意味で社会復帰させてしまった実績を持つあの組織の凄絶な合理性に、元法務省官僚であった男が惹きつけられたのは、ごく自然な必然だったのかもしれない。
雇用構造において、長年「圧倒的に強い権力」を握り続けてきた応募企業の不誠実と人材斡旋企業の放任。
その不平等の正中線(センターライン)に対し、いま連合とJ社は、容赦なく巨大な一閃を叩き込み、分厚い亀裂を刻み込んでいたのだった。