2053年10月 青森県 青森市 青森市役所
法務省からの正式な見解文書が下り、満場となった青森市議会の場にて、古川市長は静かに頭を下げた。
「――先日の、我が市による『労働基準法違反疑い事業者に対する電気料金支援金保留措置』についての法務省への法務照会ですが……本日、正式な回答が参りました。結果は『否認(不承認)』となりました」
ざわ……と、議場に波紋が広がった。
市による冷酷な経済制裁に喝采を送っていた賛成派の議員も、地元企業の顔色を伺っていた反対派の議員も、およそ半々に割れていたからだ。
「私どもといたしましても、当然ながら法務省の見解を真摯に受け止め、今回の保留措置撤回および通常通りの給付手続きへ移行いたします……」
古川の謝罪を受け、議事進行は大きな波風も立つことなく淡々と続いていった。
しかし――当事者である議員や地元経営者たちの表情に、安堵の色は微塵も存在しなかった。
なぜなら、法務省が出した見解文書の行間には、冷酷極まりないメッセージが刻まれていたからだ。
『――自治体による独自の経済制裁(私刑)は行政手続法上認めることはできない。しかし、当該事業所の違法行為そのものを見逃すとは一切言っていない。厚生労働省および労働基準監督署からの正式な行政指導・是正勧告が下りた場合は、各自治体および関係機関は法令に基づき厳正に対処されたい』
法務省は決してブラック企業を庇ったわけではない。単に「国が裁くべき領域に、市が勝手に手を出すな」と線を引いただけなのだ。
それどころか、青森市内だけで「62事業所が同時に労基署へ正式受理された」という前代未聞の数字のインパクト。そして、それが特定都市に集中しているという事実。
全国のマスコミやSNS、そして求職者たちの鋭い監視の視線が、今や青森市内の全企業に針の筵のごとく突き刺さっていた。
ここで、地元企業がいつものように「形だけの反省文」や「甘い改善報告書」を提出して有耶無耶にしようものなら――市からの電気料金支援金の打ち切りどころではない、『法(国家)の枠を超えた、市場と民間からの容赦なき私刑(ペナルティ)』が待っているだろう。
それは会社名がネット上に晒され、評判が落ちるという一過性のダメージでは絶対に終わらない。
取引先からの契約解除、人材募集を出しても誰も来ないことによる採用コストの破綻、地銀や信用金庫からの融資金利の大幅引き上げと与信枠の縮小……いくらでも倒産への引き金が用意されるのだ。
一度でも『悪徳企業』『労働者の搾取業者』という汚名が刻まれれば、その重みはこの成熟したデータ社会において破滅を意味していた。
国から正式に行政指導が下り、J社によって集められたタイムスタンプ付きの「物理的証拠」によって裏付けされてしまえば、判決をひっくり返すことなどほぼ不可能なのだから。
(逃げ道があるとすれば……これまで数多のブラック企業がやってきた『看板の付け替え(法人潰し)』だけだろう。)
一度、悪評のついた会社を形式上倒産させ、別の社名・別法人を立ち上げて中身(事業資産と役員)だけを生き残らせる古典的なスキームだ。
だが、あらゆる企業データと登記情報、役員ネットワークがAIで即座に名寄せされるこの2053年において、そんな古典的な誤魔化しがどこまで通用するかなど誰にも分からない。
とにかく、心当たりのある市内の法人・事業者に残された唯一の生存戦略は――「元凶となったJ社の人員やサービスを徹底的に避け、接触を断つこと」だけであった。
今回の騒動でリストに上がり、晒し者になった企業は、すべてJ社の「正社員マッチング」や「派遣社員マッチング」のサービスを利用したことで、その精密な監視ネットワークに絡め取られたのだ。
故に、J社を使わずに済んでいた他の企業や事業所だけが、胸を撫でおろし、「対岸の火事」としてこの惨状を怯えながら眺めている状態であった。……少なくとも、現段階では。
同月 東京都 新宿区 桜井サービス本社
東京・新宿の高層ビルに本社を構える、国内大手人材サービス会社・『桜井サービス』。
その幹部用会議室では、朝から緊迫した緊急役員会議が続いていた。
議題は当然――青森市で猛威を振るう『連合・J社』の動向であった。
桜井サービスは、半世紀以上にわたり日本の人材派遣・紹介市場において「国内トップ3」の一角を死守してきた誇り高き老舗巨大企業である。
対するJ社は、派遣社員のマッチングではここ数年異常な勢いを見せているものの、手数料の利益率が高い「正社員マッチング(人材紹介)」においては、その他有象無象の中に埋もれている。
確かにドライバー派遣事業や介護士派遣事業、自社物流事業などでは巨大すぎる存在感があるが、桜井サービスの市場とはかち合わない。
そのため人材紹介業界におけるJ社は典型的な新興勢力の一つ……というのが、これまでの業界内の共通認識であった。
転職成功時の決定年収の約3割(30%前後)をコンサルティング料として受け取る正社員マッチングのビジネスモデルにおいて、大企業の太いパイプを持つ桜井サービスらトップ3体制は盤石であり、新興のJ社など恐るるに足らずと高をくくっていたのだ。
だが今――その盤石であったはずのトップ3体制の足元で、未だかつてない巨大な地殻変動が起きようとしていた。
「……やはり、全社一律での導入は無理か」
営業担当役員が、調査チームから上がってきた分厚い資料を重苦しくデスクに投げ捨てた。
「はい」と、執行役員が厳しい表情で引き継ぐ。
「日本を代表するトップ中のトップ企業様(超大手優良企業)であれば、財務にも人事にも圧倒的な余裕がございますから、『J社のような厳格な正社員向けアフターフォロー調査を導入していただいても構わない』とおっしゃってくださいます。むしろ『自社のホワイトな労働環境と福利厚生の手厚さを全国に誇示する絶好の宣伝になる』と、乗り気ですらあります」
執行役員は言葉を区切った。
「……ですが、世の中の9割以上のクライアント企業様は、そんな余裕のある企業ではありません。小売業界トップ『オール・グロッサリー』様のような大手サービス業ですら、監査・追跡されても全く問題のない『エリート幹部社員』と、現場ですり潰される『兵隊社員(現場職)』に完全分離して経営を成り立たせているのが現実です。そんな企業様に対して、J社のような『追跡監査』を導入すれば、即座に当社との契約を解除されて競合へ逃げられてしまいます」
役員たちの間に、重苦しい沈黙が落ちた。
アフターフォローの仕組み自体を作ることなら、桜井サービスの資金力と技術があれば容易だ。
入社した求職者へ定期的に電話やアプリでアンケートを行い、本人の口から『求人票の条件と実際の現場で違うところがないか』を通報してもらう。そこを裏付けるために調査員や法務リソースを投入する――このシステム自体を真似ることは、自社でも十分に可能であった。
実際、J社がどのような隠密手法やデジタルフットプリント(痕跡データ)を使って、企業側の言い逃れのできない決定的な証拠を集めているのか……そのカラクリ自体は、桜井サービスが密かに送り込んだ「覆面調査(ミステリーショッパー)」によって、概ね解明されていたのだ。
――しかし。
真似できない「本質的な問題」は、システムや手法の先にある『力関係(パワーバランス)』にあった。
仮に自社の調査によって、顧客企業の違法残業や求人票詐称のデータを掴んだとして……それを自社の大切な「上客(クライアント企業)」の社長に突きつけ、改修・改善を迫ることなどできるだろうか?
そんな真似をすれば、「調子に乗るな」「二度と御社からは買わない」と一蹴されて終わりである。
対するJ社は違う。彼らは「連合」という、日本のいくつもの基幹産業を裏で牛耳る超巨大産業集合体(プラットフォーマー)に成長してしまっていた。
25年前の連合結成期とは違い、今や連合傘下の企業は1社1社が各業界の国内トップシェアを独占あるいはそれに近い位置に上っている。彼らの発言力と経済的圧力は政府や総務省すら凌駕し、いまや政財界からは『日本経済界のフィクサー』、あるいは『影の経団連』とまで恐れられているのだ。
『もう契約しない?ええ、結構ですよ。お世話になりました。』
仮に桜井サービスが恐れる先ほどの圧を掛けられてもJ社営業はそう答えるだけだろう。
そんな目に見えない超極太な財政的バックボーンを背負っているJ社だからこそ、あのような狂気的な「顧客への強制監査態度」が成立しているのだ。
「……なら」
その時、これまで静観していたシステム開発担当の役員が、静かな声で言葉を挟んだ。
「そのJ社へ、我が社の『調査結果(データ)』をそのまま共有して、“一緒に顧客へ殴り込み”をかければいいのではないですか?」
会議室の空気が、ガラリと変わった。
「我が社単独で、日本の歪んだ雇用市場を改革しようとするから手詰まりになるのです。……連合という巨大な『黒幕』の肩に乗り、その暴力を我々が利用するのですよ」
「な……ッ!? 競合であるJ社とデータ連携だと……!?」
「ええ。たしかに我々単独では、違法を働く顧客企業へ自ら是正勧告を叩きつける力はありません。しかし、J社とアライアンスを組み、我が社が一次調査で掴んだデータをJ社の法務・監査スキームへトスする。……そうすれば、我々は自社の手を汚すことなく、顧客企業へ最強の圧力をかけることも不可能ではないかもしれません。」
システム役員は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「勿論、求職者の個人情報保護などの法律的な壁や、そもそもJ社が我が社との提携交渉のテーブルにつくかどうかは、実際にやってみなければ分かりません。……ですが、もしこれが実現すれば、我が社は業界で唯一、『J社と同等水準の厳格なアフターフォロー監査を担保した、唯一の正社員求人メディア』として、全国のホワイト企業と優秀な求職者を独占できます。あとは……あの怪物(J社)とどう上手くお付き合いしていくか、それだけの問題でしょう」
「……」
営業役員も執行役員も、絶句したまま生唾を飲み込んだ。
「……さすがに、話が大きくなり過ぎたな」
沈黙を守っていた常務取締役が、深く椅子に背をもたれかけながら重い口を開いた。
「だが……八方塞がりだった我々に、起死回生の明確なプランが一つ生まれた。……いや、これは我々役員レベルの権限で軽々しく決定できる話ではないな。……即座に『社長稟議案件』として上申する」
日本の人材派遣・紹介業界の巨人すらもが、自らの保身と生き残りをかけ、連合という名の怪物に自ら喰われにいく(軍門に降る)決断を下そうとしていた。
「嘘の求人」で求職者を騙し、労働者を安価に使い潰すことで甘い汁を吸ってきた日本中の悪質な企業たちの逃げ場が縮小していく気配が漂い始めた。