ある日本企業たちの・・・   作:適当でいいです

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第170話

同日 東京都 渋谷区 オール・グロッサリー本社

 

15分間の短い休憩を挟み、役員会議室のドアが静かに閉められた。

空気の色が、先ほどとは明らかに変わっていた。席に座るオール・グロッサリー側の役員たちの表情から余裕の色が完全に消え失せ、J社の監査役員たちもまた、その目を鋭い光に染め上げている。

 

正社員の未払い問題は、いわば前哨戦に過ぎなかった。

両者にとって、この後半戦こそが真の本番――最大にして最悪の修羅場であった。

 

「――それでは、本日の本丸である『派遣社員の待遇および運用管理の問題』に参ります。こちらも先ほどと同様、求人票の提示水準を下回る給与問題が累積しておりますが……その規模は、正社員の比ではありません」

 

J社の法務役員が、淡々としたトーンで数字を切り出す。

 

「本項目における対象者数は『344名』。そのうち、契約から3年が経過したにもかかわらず、求人票で提示した最低水準の給与額にすら到達していない該当者は、『281名』にのぼります」

 

「……」

 

オール・グロッサリー側の席で、中堅・派遣部門を統括する労務担当役員が、青ざめた顔で絶句していた。

先ほどの正社員16名の決断を下した本社人事の役員とは違い、彼が管轄しているのは全国の各エリア子会社や店舗群における膨大な数の非正規雇用であった。問題の規模が文字通り一桁違う。

 

労務役員は助けを求めるように同席している顧問弁護士たちに視線を走らせたが、弁護士たちは一様に顔を伏せ、無言で小さく首を横に振るだけだった。

 

「……先ほどの正社員の件と同様に、こちらも求人票の提示年収(保証額)に適合させる方向で、差額の全額補填と未払い分の精算を行っていただけますね?だって『そういう制度の下、そういう約束』で雇用したのですから。」

 

「…………はい」

 

労務役員は、血の気を引かせた顔で絞り出すように答えた。

すでに先ほどの未払い金だけでも2000万円規模に膨れ上がっていたが、ここに281名分の数年間にわたる給与差額が上乗せされれば、その総額は億単位に跳ね上がるだろう。

だが、それでもなお、世間に「悪質なブラック企業として見せしめにされ、社会から干されるリスク」に比べれば、金で解決できるならまだマシ――それがこの場にいる全員の共通認識であった。

 

「ご理解いただき、誠にありがとうございます。……では、次です」

 

J社の容赦ない追及は、一息つく間もなく次のフェーズへ移行する。

 

「弊社の監査ヒアリングおよび実態調査によれば、派遣社員の勝手な配置転換(エリア外への違法なヘルプ出向)が常態化している事実が多数確認されております。例えば――」

 

コンプライアンス部長が持ち込んだ台車から、さらに分厚い証拠書類の束を取り出し、オール・グロッサリー側の手元へ配っていく。

 

「一番上の例ですと、求人票の契約上は『渋谷南店』での店舗スタッフ勤務と明記されていながら、実際には会社側の都合で『北品川店』および『赤羽店』へそれぞれ1か月にわたる無断の遠隔ヘルプ勤務を指示していました」

 

「……そ、それは……今後はヘルプ運用の事前連絡と明記を徹底します」

 

「はい、そうしていただくのは当然として……問題は、この件の“悪質な拡大版”です」

 

J社の役員が、資料の1枚を指でピシャリと叩いた。

 

「その下の例をご覧ください。求人票では『長野北部エリア勤務』とされていながら、実際には長野市から『須坂市』、さらには約50kmも離れた『上田市』の店舗へと連日過酷な通勤・勤務を指示していましたね?」

 

労務役員は冷や汗を拭いもせず、ただうつむいて沈黙を守った。

 

「須坂市の店舗へのヘルプに関しては『通常派遣制度』なので、一応は弊社側にも連絡があり、ご本人への確認を経て承諾が取れていたため、当時は認めておりました。しかし……その50km以上離れた上田市への勤務については、弊社への連絡は一文字もありませんでした。……もう隠す必要もないでしょう。先週、上田小金店の店長に対して我々が直接ヒアリングを行った際の音声データを再生します」

 

会議室の静寂の中に、J社スタッフが携行していたタブレットから、当時の生々しい音声がスピーカーを通じて響き渡った。

 

『――ザザッ……ああ、あの人ね。助かったよ、マジで……え? 長野市から通わせたのかって? いやいや、ウチの店は「長野中部エリア」扱いの店舗のはずだけど……?』

 

「……ご本人はこの厳しい遠隔地への異動に対して何度も抗議したそうですが、現場のエリアマネージャーは『J社は別の店舗へのヘルプも認めていたんだから、今回も問題ないと言っている』と嘘の言い訳をして押し切っていました。

 皆さん、彼女が住んでいる長野市から上田市まで車で通うと片道2時間どころでは済まないのです。朝7時集合となっているので、結果彼女は朝4時半に家を出ていました。仮に1時間半の残業が入り、17時に仕事が終わっても帰宅時間は20時ごろ。ですが翌日も朝4時半出発のため、睡眠時間を6時間に抑えてすら自由時間は物理的にほぼ取得不可能。あなた方が許したのはこういうことです。」

 

組織の末端である地方の現場が勝手に犯したずさんな隠蔽工作が、J社の冷徹なデータ網の前に次々と丸裸にされていく。

 

「これと類似した『無許可のエリア外遠隔派遣ケース』が、全国の店舗網でのべ400件近く存在しています。弊社との契約規定では、業務命令による移動時間や過剰な通勤負荷もすべて労働時間および時給換算の対象となりますので、当然ながら膨大な交通費と移動時間分の未払い時給が発生します。そちらにつきましても、後日、弊社スタッフとご本人の立ち会いのもとで完全清算させていただきます」

 

すでに数億円規模に達しそうな賠償・補填あるいは一部ケースでは議論に出るだろう慰謝料の計算に、オール・グロッサリー側の法律顧問が頭を抱えて天井を仰いだ。

 

だが、J社の牙はまだ抜け落ちていなかった。

 

「――最後です。こちらをご覧ください」

 

最後に配られた別紙の資料には、店舗の内部システムから抜き出された、あるいは従業員から提供されたと思われる「生々しい電子メールのやり取り」のスクリーンショットがカラーで印刷されていた。

 

それを見た瞬間、オール・グロッサリーの労務役員が「うっ……!」と、喉の奥から小さな悲鳴を漏らし、椅子から崩れ落ちそうになった。

 

そこにあったのは、正社員や店舗責任者たちが日常的に飛ばしていた、あの「見慣れた文面」であった。

 

『――営業ノルマの達成率が低すぎるぞ。今週中に目標数に届かない店舗は、全員始末書だ』『クリスマスケーキの予約枠が余っている。正社員だけでなく、店舗に配置されている派遣スタッフの人間も、自腹あるいは知人へのノルマ営業で最低各5台は絶対に買い取らせろ! 間に合わない場合は詰め詰めで指導するからな』

 

――『通常派遣制度の』派遣社員社員には一切の経営責任や営業責任を負わせない、ゆえに基本給を抑えるという法的な大前提があるにもかかわらず、現場のノルマ不足を補うための「数合わせの奴隷」とした上で、クリスマスケーキや恵方巻、おせち料理などの過酷な「物販ノルマ」が、派遣スタッフに対しても平然と課されていたのだ。安く使っておいて、自社が困ることに繋がる相手の権利は踏み潰して無かったことにする行為であった。

 

証拠として提示された数々のメールのスクリーンショットには、明確にその実態が記されていた。

そして何より恐ろしいことに、今回の監査対象となっているのは先ほど上がった『344名』だけではない。この数字はあくまで送り出してから『3年以上経った派遣社員の数』である。つまり――『J社がこの企業へ送り込んだすべての派遣社員』となるとさらに500名近くが追加され『850名』前後になる。その彼らが例外なくこの違法な物販ノルマの被害者であったのだ。

 

「……さて、この物販ノルマの強制および精神的苦痛の件につきましては、御社の優秀な顧問弁護士の先生方と、弊社の法務チームが『法廷』の場でじっくりとお話し合う必要がございますな」

 

J社の法務役員が、静かに、しかし絶対的な死刑宣告のような口調で締めくくった。

 

会議室の隅に座っていたオール・グロッサリー側の首席弁護士が、深くため息をつきながら、重い口を開いた。

 

「……ええ。そうなるでしょうね」

 

弁護士の頭の中ですでに冷徹な損得勘定が完了していた。

ここでこの件を闇に葬ろうとしても、J社が保有するこの膨大な物販ノルマの強制メールと被害者たちの証言データが万が一外部の裁判所やメディアへ流出すれば、金銭的な賠償金など可愛いものだ。「派遣スタッフに契約外の自腹営業を強要する超ブラック企業」という烙印が押され、会社の命運そのものが絶たれる。

 

いや、そもそも自腹営業そのものは『逆指名派遣制度上』であろうが『正社員』であろうが、圧力を掛けた時点で違法に近い。この項目においては派遣社員がどうの、という枠を貫通している。

 

勿論、これを機にJ社派遣求人の仕様書には『物販ノルマ一切なし』の特約を厳格に呑まされることになるだろう。今後の小売り店舗の運営戦略そのものを根底から組み替えなければならない。

 

だが、それ以上に厄介なのは、「派遣社員にまでノルマを課し、精神的に追い詰めていた」という事実が、日本の派遣業界全体にどれほど凄まじい衝撃波を与えるかということだった。

「金を払って解決すれば終わり」というレベルを完全に超えており、過酷なパワハラや精神的損害に対する慰謝料請求、さらには「この職場のせいで精神疾患を発症した」とする労災・訴訟の連鎖が容易に想像できたからだ。

 

(……もはや、これ以上あがき続けるのは経営的自殺に等しい。……決着は、司法の場で『いくらの慰謝料と賠償金を支払うか』の数字の削り合いをするしかないのだ……)

 

日本小売り業界の首位に君臨するオール・グロッサリー社が、一個の民間企業・J社の法務監査の前に、文字通り完膚なきまでにひざを屈した瞬間であった。

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